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2014年1月21日火曜日

日本教と日本語について2:私の考えをまとめる

 数日前に「日本教について」(イザヤベンダサン著、山本七平訳)の感想とそれに関連したテーマについて自分の考えを書いた。その文章は、何度か改訂したものの依然として読み難いので、私の考えのエッセンスを以下に新たな文章として書く。
 山本氏の上記本の20頁に、「日本語には論理はありません。日本人は論理学なるものを全く知りませんでした。日本語とは“ロゴス(論理)なきロゴス(言語)”です」とある。 私もそのように考察したことがある。その日本語の下に出来上がっている日本社会の特徴と、その社会に問題が生じたときの対処プロセスに絞って、以下に箇条書きに書く。

  1. 日本人は密な集団で温暖な自然の中で生きてきたため、恐怖は冷害や台風などの自然現象と所属集団からの疎外であった。
  2. 自然の恐怖にたいしては、自然信仰である神道を持つことで、集団からの疎外に対しては、私心を捨てることを美徳とすることで、それぞれ対応する”日本文化”を育てた。
  3. 私心を捨てて集団の中に生きてきたため、「私」や「あなた」などの主格を明確にする言語表現が消え去り、その結果、現代まで論理なき言語しか持てなくなった。論理は、主格と目的格が明確でない文章では組み立てられないからである。(注1)
  4. ある問題が生じた時、論理無き言語とそれに包摂された文化の下では、問題の原因解析と解決への対策が、集団の英知結集と彼らの議論というプロセスを経て提出できない。従って、集団の指導者には論理的考察力のある者よりも、個性が魅力的に見える陰謀家タイプの者がなる。
  5. 従って、その問題に対する直接的関与(実体語)で解決しない場合、間接的或いは根源的原因などは追求されず、精神とか一丸とか云う言葉とともに虚しい解決策、つまり空体語、として提出される。それらは問題が解決しない限り社会の中に蓄積するので、”空体語のバスケット”の中に投げ込まれた虚しい解決策と呼ぶことにする。そして、それらは民衆を不安にするとともに、破滅の道へ導く”空気”の醸成に寄与する。(注2)

  6. その未解決の問題は、当事者の暴発(内乱、クーデター)や外圧(強圧的外交、敗戦)と言う形でカタストロフィックに取り除かれる以外には消滅しようがない。

 論理の無い日本語文化で用いられる「空体語」の表現は、解決がそれほど難しくない日常生活レベルの問題でも、「ゴミをすてないでおこう」などという標語のように、“実質的には問題のオーム返しに過ぎない解決策”という形で、”空体語バスケット”に投げ込むレベルのものになる。国家レベルの例では、戦争時に敗戦が近くなるに従って、勇ましい標語が氾濫したのも同じメカニズムである。孫引きさせてもらった戦時標語のなかから、「一億抜刀 米英打倒」を例にとれば、この標語も”「どうしたら米英を打倒できるか」についてのデータを用いた、論理的思考の末に得るべき作戦”の代わりに、”一億抜刀”が置き換わり、問題の「空体語バスケット」への投げ込みになっている。誰かが"空体語バスケット"に投げ込むと、その後は多くの人が似た様な同一の原因による困難を空体語にして同じバスケットに投げ込む。それが、上に引用した数多くの標語である。

 更にもう一つ例をあげると、江戸末期開国も止むなしと悟りながら、島津藩などは攘夷を叫んだことが「日本教について」で紹介されている。そして、実体語での”開港は必要である”とバランスをとる為の空体語”攘夷を叫びうる状態も必要である”であったと言う記述である。(文庫版26頁)空体語と実体語の間の支点としての『人間』が存在し、両者間のバランスをとることは、日本教についての中心的教義ではあるが、判り難いと思う。むしろ、”開港は必要である”は同じでも、それに付随した新たに生じる問題、例えば、幕府の崩壊や、日本の植民地化の可能性など、にたいして、論理的な考察が出来なかっただけではないだろうか。つまり、上記5)に述べたように、これらの問題を論理的考察なしに”攘夷論”という”空体語バスケット”に投げ込んだだけではないのか。

論理的な言語環境を持つ体制であれば、それぞれの考え方を持つ智慧者を集めた討論などを通して、現在採るべき対策と、今後生じる問題とその解決法などが、探せたかもしれない。

以上、日本教の中心的教義の『人間』(=空体語と実体語の支点)を用いないで、同じ問題を考察してみた。私は、橘玲氏の著書『(日本人)』(括弧日本人と読む;幻冬社)にあるように、日本教のような特別な概念を用いなくても、日本人の文化や行動は解析可能だと思う。


 このような文化は、人治国家的な東アジア全体に見られる。大陸の半島北にある国も、勇ましい言葉でテレビ放送がされる時、それらの言葉は実際には苦境にあることを物語っているのである。「特に日本教という程のものではないのではないか」というのが私の最終的な結論です。

注釈)

1)英語でもドイツ語でも主格、所有格、目的格には、それぞれ別の言葉が用いられている。一人称及び三人称では、それぞれの単数と複数の区別も明確である。一方、日本語ではこれらを助詞を用いて区別しているにすぎず、英語やドイツ語(私はこれら以外を知らない)と比べて差は明らかである。たぶん中国語も日本語と同様だろう。例えば、我の所有格は我的であり、助詞と思われる”的”がつくのみである。

2)著者は、江戸時代の鎌田柳泓の「心学奥の桟」の中から、「がんらい神は、本質的には「空名」であるが、その名があることはすなわちその理があることで、その応はまたむなしくない」を引用して、この空名(なばかりのもの)を空体語と同じとしている。ここで、我々にとっての「神」を考えると、現実の生活で本質的に解決出来ない「生命」に由来する問題を全て、「神」という「空体語バスケット」に投げ込んでいると考えれば、この項目は判りやすくなると思う。ただ、日本人は、論理的な議論を通して緻密な議論を繰り返せば、解決可能或いは問題を縮小させることが出来る問題すら、この「空体語バスケット」に投げ込んでしまうのである。

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