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2014年6月24日火曜日

神仏混淆経:日本人の宗教(私論)

 日本人に「あなたの宗教は何ですか?」と問えば、宗教は無いと答える人が多い。しかし、多くの宗教色の強い年中行事や最近の伊勢神宮の参拝数の増加などを考えると、また、神社で手に入れたお守りやお札を大切にして、古くなっても決してゴミ箱に捨てることが出来ない典型的な日本人をみると、日本人の多くが無宗教だとは思えない。実際、文科省により発表されている大まかな宗教別信者数のデータによると(1)、神道系の信者数は約1億人、仏教系が8500万人、キリスト教系は200万人、諸教は900万人もいるそうである。これらを合計すると日本の人口を遥かに越えている。米国では、殆どがキリスト教系信徒であり、その合計した信徒数は人口より少ない(2)。上記統計を知っても、普通の日本人は驚かない。それは、日本人の多くは神道と仏教の両方に関係していることを自覚しているからである。宗教の信者の数が人口の約2倍というのは、統計における宗教の分類が実態に合ってないからである。

 上の数字では、神道系の信者数が最も多い。しかし、敢えて答えれば神道よりも仏教が自分の宗教に近いと答える人が多いのではないだろうか。何故なら、日本人にとって最も重要な宗教的行動は、肉親の葬式や祖先の墓参りであり、葬式を執り行なうのは普通は僧侶であり、墓を維持管理するのは仏教寺院であるからである。そして人々は、人の本質が魂であり(従って火葬を嫌わない)、死後その魂が極楽(つまり、一神教の天国に相当)に往くという、日本仏教の考え方を漠然と受け入れていると思う。また、親族の位牌を阿弥陀仏像と供に仏壇に置き、神のように崇め拝んでいるのである。(3)

 一方、元々の神道は、山などの自然を神として信仰するものであった。神道には聖典はなく明確な教義もない。最も古い形では、神社すら無い場合があると云う(4)。神道は自然を恐れる宗教であったが、自然の脅威から徐々に開放された人間には、こころの安らぎを得るには偶像も聖典もない神道は今一つものたりない。不安の根源である死後の世界についても、神道は何も与えてくれない。そこで、仏教における極楽を死後の世界として受け入れることで、まるでダルマに目が入ったごとくに、生まれ変わったのが新しいタイプの神道で、現在の日本人の多くが持っている宗教であると思う(5;神仏混淆の独自モデル)。誰もそんな宗教があるとは言っていないが、これが、ここに提案する考え方である。従って、日本人の多くは神道と仏教の両方を宗教として持っているのではなく、それらが統合した一つの宗教(神仏混淆教と名付ける;明治以前の神仏混淆状態の宗教)をもっているのだと思う(6)。ただ、表現として、その成分である神道と仏教がそのまま職業的組織として残っただけであると思う。

 ところで、この日本人の宗教は、時代が明治に入ると廃仏毀釈により破壊が試みられ、新しく国家神道という官製新興宗教がつくられた。(7)国家神道&天皇、富国強兵、国民国家を三位一体として、明治政府の骨格をつくろうと試みたのだと思う。大変な改革であり、現在の視点でバカなことをしたと言うのは簡単だが、明治新政府を運営した人達の発想力や実行力は、天才的であったと思う。しかし、その新しい国家神道など定着する筈がない。人心は新しい明治日本という国民国家からは、すぐに離れていったのではないだろうか。これが、第二次大戦が終わった後国民の多くが、鬼畜米英の大将である筈のマッカーサーを、まるで救世主の如く受け入れた背景だったのかもしれない。

 その後、この官製新興宗教である国家神道が最後に残したのが、靖国神社である。靖国参拝を出来なかったことが痛恨の極みといった総理大臣は、日本人の心からは遠い所にあると言って良いと思うが、それに気付いていない日本人も多い。国民国家の考え方に賞味期限があるのではないかと言われている昨今(8)、現在の総理の上記考え方もアナクロであると笑う日が来るだろう。
 (素人の浅はかな考え方と思われる方は、反論して下さい。これは、挑発ではなく、お願いです。)

注釈:
1)http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa07/shuukyou/1262852.htm
2)例えば、中岡望氏のブログに最近の米国の宗教事情が書かれている。それによると約80%がキリスト教(51%がプロテスタントで、24%がカソリック)、他に多いのが無宗教や無派閥で16%だという。http://www.redcruise.com/nakaoka/?p=420
3)位牌が何を意味するのか、あまり気にしないと思う。回向という言葉で死者の霊を極楽に導く様に阿弥陀仏に願をかけているのだろうが、拝む対象についても阿弥陀仏像なのか位牌なのか普通は気にしていない。
4)岡谷公二著、神社の起源と古代朝鮮、平凡社新書(2013)134-135頁 ここには神道の原点についての興味ある記述がある。『「必ず常設の社殿があるものでなければ、神社でない如く考えたのは明治以来といってもよく、又少しも根拠のないことであった」(氏神と氏子、柳田国男)神の拠り代である森の一部を伐って、祭の際の雨露をしのぐ為の社殿を設けるとは、人間の都合からでたことであり、極端な言い方をすれば、神への冒涜である。』
5)現在人の宗教についての感覚を述べたモデルである。神仏混淆の歴史については、例えば、ウィキペディアの神仏混淆参照
6)ただ、表現として、神道(神社)と仏教(寺院)が別々にあるので、日本人の宗教感覚は希薄なままである。
7)廃仏毀釈(http://ja.wikipedia.org/wiki/廃仏毀釈)は明治政府がやったことではない、神仏混淆を禁止しただけだという。上記Wikipediaでもその主張はされているが、より判りやすいものとして、ヤフーの知恵袋から引用する。

(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1283701667) しかし、その考え方は根本的に間違っていると思う。何故なら、神道を国教とすることは、必然的に日本人固有の神仏混淆教から仏教をはぎ取って捨てることを意味し、廃仏毀釈を意味するのである。
8)岡田英弘著、「歴史とは何か」(文春新書)第三部、「国民国家とは何か」を参照
== 6/24; 6/26編集==

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