2014年7月17日木曜日

語り手は真実を語るか?金閣寺の主人公と芥川龍之介の「地獄変」の語り手

 最近「金閣寺」の感想を投稿した(最初のものはここ)ので、ついでに数年前読んだ地獄変に関する短いコメントを書く。これを書いた理由は、前回の金閣寺に出てくる禅問答の解釈とそれに対する主人公の反応から、主人公の心理を考えるという趣旨のブログで、語り手は必ずしも本心を語らないと書いた。その例として、地獄変の語り手を取り上げたからである。

金閣寺の語り手である主人公溝口も、狂人でなかったのなら、もっとも肝心なところで嘘を言っている可能性が高い思うからである。つまり、柏木から紹介された美女との関係が、あと一歩というところにきて、金閣寺の幻影が現れて妨害するというところである。実際は、柏木が初めて美人と関係をもちそうになったとき、気おくれして何もできなかったという話が紹介されているが、それと同じ状態であった可能性がある。そう考えると全編に亘る緻密な語りと、金閣寺の幻影に人生を邪魔されると言う話(つまり、嘘だろう)が、同一の人物から出て来たことに納得がいく。

 地獄変に戻って、語り手として世俗的な大殿に使えていた人間を想定している。大殿の人物評などに嘘が多く、それを本当だと信じると訳がわからなくなる。例えば、語り手が怪しい声などを聞いて、(絵師の娘が可愛がる)猿に曵かれて現場に近づいたとき、娘が逃げて飛び出てくる場面である。あのとき、語り手は絵師良秀の娘の部屋に忍び込んだ大殿の姿を見た筈であるが、誤摩化した様な表現が使われている。その語り手の設定に気付くことで、堀川の大殿が表向き善人ぶっていても、影では何でもできる恐ろしい人間であることがわかる。

絵師は天才的であるがプライドが高く、大殿であっても安易に諂うことがない。娘を焼かれた絵師に出来る仕返しは、鬼気迫る絵を仕上げることである。大殿との闘いに勝っても、命を捨てることで娘への愛情を示したのである。

 世の中にある解釈芸術至上主義云々は、間違っている。この種のコメントを書く方の理解法の中で欠けているものがあると思う。それは、良秀も芸術家である前に人の親である点である。そして、恐らくコメントを書いた方も人の親であるだろうが、その自分を原点にして”小説に書かれた出来事”を考えず、世の中に流布されている説やその小説の語りの解釈(小説家の作為的な)を出発点にしてしまうことである。(興味ある議論がここにもあるが、やはり、本質を欠いている。  反論を期待する。(7/17; 7/18一部追加)

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