2015年3月19日木曜日

日本の学校は、何故近代史を教えてこなかったのか?

15日のテレビ番組サンデーモーニングで、戦後70年経っても尚、近隣諸国との歴史問題に苦しむことになっている問題が議論されていた。その根本的な原因の一つとして、寺島実朗氏により指摘されたのは、国家のリーダーから一般国民に至るまで、日本の近代史を学んでこなかったことである。一方、日本国民の多くは、あのような悲惨な結果に終わった戦争の原因について知りたい筈である。

日本の近代史を全国民が学び直すことが大事だが、その前に一体何が日本国民から日本の近代史を遠ざけて来たのかを考えるべきである。そうしない限り、近代史の学習も中途半端に終わってしまうだろう。

日本の近代史から国民を遠ざけた人たちは、終戦後の為政者や官僚達だろう。その理由は、彼らの多くが濃淡はあるものの、あの戦争に責任があったからではないだろうか。学校で、近代史を教えないことにするのは、高校入試や大学入試に出題しないことで、簡単にできる。何時か何処かから、そのような通達や何か(注1)が出されている可能性大である。それは探し出せないかもしれない。何故なら、この国では、阿吽の呼吸でほとんどの重要亊は進んでしまうからである(注2)。

別の角度から眺めると、以下の様に解釈することも可能である。日本人の心の中にある、惨事や凶事の原因を探さない習性、或いは他人にその責任を押し付けることを潔しとしない習性(注3)、つまり、それらを包含した日本文化にあると思う。何か惨事があったとして、その原因を論理的に探し、個々の人間や諸因子に帰することを嫌うのである。全てを、まるで天災のようにして終わらせてしまう。

以上二つの近代史を避ける原因の分析は、一つの姿を別の角度から記述したのであり、同一のものである。

何か大きな出来事があったとして、日本での原因分析は常に極めて非論理的であり、実質的に分析されないと言っても良い位である。そして、何時も行なわれる儀式は、関係機関の重要な地位にある人たちが揃って頭を下げることである。

それは広島に原爆が投下されたことも、理化学研究所の論文捏造問題の時も全く同じである(注4)。広島の原爆記念館の碑文、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」は、国民全てが被爆者に頭を下げている光景を思い浮かべれば、すんなりと理解できるだろう。原因は追求しないのだ。追求して原因が出て来ても、その後の処理が出来ないからである。

続編は書く予定。

注釈:
1)直接そのような通達は決して出さない。通達を出すとしたら、例えば”歴史的解釈が定まっている、古代から中世をしっかり教えるように”という類いのものである。逃げ口上として、”時間があれば、近代史を教えることも大切である”という文言が追加されているかもしれない。
2)国会で主に議論するのは、路チュー問題とお金の問題である。
3)原因を追求すれば、必ず責任者が出てくる。個人の責任を追求することを極端に嫌うのが、日本文化の特徴である。筆者がそのことを強く感じたのは、2005年JR福知山線で起こった列車事故に関する報道であった。最終的な報告書にはふれられているが、”列車の運転手に適正がなかったこと、そして、その運転手を何故業務につかせたか?”についての議論があまり重要視されなかった様に感じた。 4)論文捏造問題に関して、理化学研究所の機関としての責任を追求するバカな人たちがマスコミにも多い。それは、「犯人が悪いのではない。時代背景が悪いのだ」と同じ考え方である。そのパターンを受け入れると、世の中に悪人はいなくなる。
<3/19; 同日午後0時修正>

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