2015年5月21日木曜日

家族という関係(改訂、5/24)

1)先日横浜で簡易宿泊所の火事があり、思わぬことが明らかになった。それは、これらの簡易宿泊所の住人の多くは老人であり、生活保護を受けているということである。テレビ報道の中で、危機一髪逃げ出した老人にマイクを向ける場面があった。その老人は、「息子と娘がいるが、迷惑をかけたくないので、ここに居る」と話していたのである。私はこの発言に違和感をもった。

子供たちもそれほど裕福ではないのだろう。しかし、三畳くらいの簡易宿泊所の部屋で、定期的に支給される生活保護費で毎日を過ごすこの親と、その子供達の関係を考え、日本の家族は壊滅状態にあるのではないかと思った。これは問題の本質を考える前に出した結論である。

  2)昨日買物にスーパーに出かけて、女房が食料を買う間本屋に立ち寄った。そこには、下重暁子氏(元NHKアナウンサー)の書いた、「家族という病」と言う本が特設コーナーに並んでいた。私は即座に、病は日本の家族ではなく、下重女史の頭ではないかと思った。家に帰って、ネット販売のサイト(アマゾン)でこの本がベストセラー(週刊一位)になっていることを発見した。そして、我が日本国では、家族が鬱陶しくなる病に罹っている人がかなり多いと悟り(注1)、同時に上記老人の話が理解できた。その老人は自分の子供がその病気に罹患していることを恐れたのである。つまり、その子供の世話になることにより親子の関係が完全に破壊され、自分の心の中の子供の像を破壊してしまう恐怖を抱いたのである。

  3)人は、どのような努力をしても、どのような成果をあげても、必ず死ぬ存在である。その際、この世界に何らかの足跡を残したという実感を持たない場合、その寂しさは恐怖と言って良い位なのだろう。その足跡として、子供以上に確かなものはないのかもしれない。何故なら、子孫は永遠に続く可能性があるからである。つまり、上記老人も自分を親として認めてくれる子供が、日本の或いは世界のどこかにいてくれる限り、現在から死ぬ瞬間まで、自分の心の中を一定の豊かさに保つことが出来るのである。 

日本に住む限り、日本の中の”空気”を知っている。その空気には、”家族を拒否する病”の臭いが存在していることを、その老人も感じているのだろう。もし、子供に自分の窮状を告げれば、最初は何とかしようと努力するだろう。しかし、遠からずして努力の限界が近づくと、老いた自分を鬱陶しく思う様になり、子供に「親を捨てる」決断をさせるかもしれない(注2)。そうなってしまえば、文字通り“元も子もない”。

  今受けている、“生活保護と三畳一間の豊かさ”を、子供を頼りに倍にしようと考えて、窮状を子供に告げることは危険な賭けなのだ。つまり、子供が”家族を拒否する病”に罹患していた場合、これまで大切にして来た、自分を父親として受け入れてくれている心の中の子供の像を破壊してしまう可能性があるのだ。

4)日本は一般に豊かな国である。生活保護費を貰うという最底辺状況であっても尚、簡易宿泊所であれ、独立した部屋の中で眠ることが出来、食料も何とか手に入る。日本では、それ以下の生活を送る人々を見ることが(でき)ない国なのである。その一定以上の豊かさしか目にしないことが、人と人の結合を弱いものにするのだろう(注3)。 

  親子という関係や家族という関係は、全ての哺乳類の 遺伝子の中に、生き残ることと子孫を残す為に存在する筈である。そして、その目的がその個体において達成された時、幻のごとく消え去る様にプログラムされているのだろう(注4)。 人の場合、家族という関係は一生続く。しかし、子供が独立した時には、“家族という関係”は言わば残滓であり、社会的関係として残っているだけだと思う。つまり、それは人間の築いた文化としてであり、生物としてプログラムされたものではない。 

その残滓としての家族という関係も、豊かな日本では他の多くの社会的関係(注5)と同様に、消え去ろうとしているのだろう。 ”家族という病”はその本来”消え去った家族という関係”を、取り戻そうとすることだと思う。つまり、精神的肉体的に独立期に達した子供の、親に対する反発と、(その時点では残滓或いは幻でしかない)家族という関係に執着する親との”摩擦”なのだろう。 

5)人間は自分という意識を持つ唯一の動物である(注6)。自分という意識は、全体から個として切り離されることの自覚を意味する。また、自分という意識がなければ、考えることも智慧を持つことも出来ない(注7)。人は、智慧をもって生まれ、自分の死を知る唯一の動物である。そして、自分の生の意味、つまり、永遠の価値を、自分の一生の中に探す(注8)。しかし、人の一生の意味も動物のそれと本質的に同じであり、遺伝子にプログラムされているのは、子供を産み育てることのみだろう。そのような運命にある人間は、子孫を産み育てる段階は上り坂であり何の疑問も持たないが、それ以降は下り坂であり、前途に道が無くなったような感覚を持つと思う。そこで、上に書いたように、人は家族という関係をしっかり残して、子孫の中に自分を残すという欲求を持つのだろう。

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私(このブログの筆者)は、下重暁子氏の本「家族という病」を読んでいませんので、本文章はその本の内容と直接関係ありません。
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注釈: 
1)アマゾンには、読後(使用後)のコメントも他の商品同様に掲載されている。そこには、酷評が多いのだが、4点や5点(5点満点)を付けているのもあった。そのトップに紹介されていた長文のコメントの最後に「親の犠牲になるべきかどうか、選択を迫られている人にはおすすめです」ということばで締めくくられていた。 
  2)”家族という病”を主張する病に罹患した人の症状は、その限界のレベルが非常に低いことである。 
3)豊かさをエネルギーと考えれば、基本粒子である分子の世界まで、この法則は成り立つ。例えば、水分子はお互いに強く手をつなぐ性質をもっていて、0°Cまで互いの位置まで変化せず固まって存在する。つまり氷である。0°Cで液体となり、100度でバラバラになって空中を浮遊する。また、井上陽水の”人生が二度あれば”という歌がある。貧しい状況下一生懸命に自分を育ててくれ、そして年老いた親に対する感謝が唱われている。親孝行(=家族の絆)と貧しさは、対で存在するのだ。
4)哺乳類では、成長した子供に食物を与えず、親が独り立ちを促して追い払う行動をとる種が多い。それを、道徳との関連で考えるのは間違いで、家族の絆が消失した結果だと思う。
5)他の社会的関係も原始的なもの、例えば地域共同体の中での協力体制などは、生活を豊かにする為に発生したと思う。地域で協力する為の社会的関係は、豊かになれば消え去る。各種組織の消失は、社会科学分野でもエントロピー増大の法則との関連で理解されている。 
6)猫は鏡の中の自分の像を理解できない。自分の像を理解できるのは霊長類とイルカやクジラだと言われている。チンパンジーやイルカが死をしっているかは疑問である。死を知らないものに、Life(生命、人生)の空しさはないだろう。
  7)我の自覚がなければ、考えることは出来ない。「我考える(想うは訳としておかしい)故に我在り」は、「我在るが故に、我考える」でもある。 
8)智慧を持つことは旧約聖書の中の記述がいつも気になる。「禁止されていたにも拘らず、智慧の木から実を採って食べたアダムとイブは、自分が裸であることを知り、イチジクの葉で局部を覆う。それによりエデンの園から放逐され、子孫である人間は死する存在となった。」勿論他の動物も個体としては死ぬが、それを意識する智慧はない。従って、人以外の動物は自分の生命に空しいという気持ちを(自分の気持ちそのものも)持たないだろう。 
(5/22/22:00;5/23/7:00;5/24pm;5/25/am 改訂)

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