2015年7月2日木曜日

「乱取り」と「明治維新の過ち」

表題の中の「乱取り」は、原田伊織著「明治維新という過ち」(毎日ワンズ、2015/1)の中にあったショッキングな過去に存在した出来事を表わす単語である。広辞苑(第2版)を見ると、「乱取り」という言葉には二通りの意味がある。一つは、“柔道で各人が自由に技を出し合い練習すること”であり、「乱取り」は現在この意味で日常よく使われる。しかし、広辞苑の最初に現れるのは、“敵地に乱入して掠奪すること”という説明であり、こちらがオリジナルであることが解る。

以下、「明治維新という過ち」に書かれた「乱取り」に関する記述をまとめる。“戦国時代から安土桃山時代の戦いは、武士の指揮に従って農民が戦い、兵士の大多数は農民であった。その戦いの後で、勝った側が負けた側の村を襲い、掠奪、強姦、なぶり殺しなど倫理の欠片もない行動に出る。最も金になったのが、女子供などの人であった。掠奪された人は国内で売買されるだけでなく、薩摩などからポルトガルの黒船に載せられて、東南アジアに売られたと言う。これにはイエズス会も加担しており、豊臣秀吉がバテレン追放令を出した目的が、直接的にはこの南方への奴隷売却を怒ったからである。”

このバテレン追放令の理由は、ウィキペディアにも書かれている(https://ja.wikipedia.org/wiki/バテレン追放令)。生きるためとはいえ、凄まじい人間の姿である(注釈1)。原田伊織氏がこの話を引用したのは:”(1)所謂“明治維新”が実現したのは、薩長(特に長州)の下級武士や中間以下の者達が武士道の欠片も持ち合わせなかったため、執りうる手段の範囲が、江戸や京都での無差別テロから天皇の拉致などまで、大きく広がったからである;(2)その倫理観の無さは、下級武士達が貧しさの中で持つに至った醜悪なる本性である”、という自説の傍証の一つとして利用する為である。つまり、薩長の”維新の志士”たちがあの様なテロが出来たのは、武士道などを持ち合わせていない下級武士だからであり、その源流へと遡ると戦国時代の半農半兵的な者達による乱取りにぶつかる、と言いたいのである。

「明治維新という過ち」は、幕末から明治維新に関して、あのような残酷騒動(薩長の京や江戸でのテロリズムや戊辰戦争)は不要であったという視点で書かれている(注釈2)。また、半藤一利氏の本「幕末史(新潮文庫、2012/11)でも、第二次長州征伐から戊辰の役は不必要な戦闘であった可能性を示唆している(第6章、4番目のセクション、“開国が日本の国策となった日”(p217〜225))。

最終的には革命「明治維新」に至る“騒動”が、元々ペリー来航から始まった”諸外国とどう付き合うか”という問題が出発点である。幕府の外交能力は、井上勝生著の「幕末・維新」によると、相当高かった(注釈3)。日本国であの様な騒乱になったのは、「皇統の維持」と「開国して諸外国と通商すること」が矛盾すると“生理的”に捉えた孝明天皇の攘夷に拘る姿勢が、薩摩などの外様大名、長州などの下級武士、岩倉具視などの平公家に、騒乱を起こす為の舞台を与えたことが大きな原因だろう。しかし、仮に孝明天皇が、最初から幕府を頼りにする姿勢を持ち、徳川と諸藩及び公家の協力で改革を進める案に同意したとして、また、一橋慶喜の様な知的に優れた人が14代将軍になっていたとして、近代日本の姿は世界史に出現しただろうか。

つまり、武士の特権を全て廃止するという革命なくしては、近代工業国家日本は成立しなかっただろう。また、そのような革命は中途半端なことでは不可能だったと思う。主題となっている歴史的出来事の延長上に生じた、現代文明社会の恩恵を受けている人間が、過去の一時点での歴史的出来事を記述する際に、悪の烙印を押す様な表現は適切ではないと思う。

また、薩長の行なった京や江戸でのテロリズムや守旧派の殲滅作戦が、悲惨だとして現代の感覚で批判することは、間違っていると思う。逆に、結果としての現在の高度に工業化された状態を成功とする判断を基に、安易に、明治維新のときのテロ行為を肯定したりすることも同様に間違いだと思う。つまり、歴史はその本質として評価が非常に困難であり、少なくとも後世の視点で裁く、つまり、評価するのは、全く愚かなことであるということである。例えば、“乱取り”や“切腹を行なう武士”が理解できないのなら、明治維新の時代に生きた人々の心情やミクロに見た歴史の夫々の出来事は理解出来ないだろう。

「明治維新の過ち」の著者は、そのタイトルに調和する様に、乱取りを完全な悪とし、明治維新の中で大きな働きがあった、西郷隆盛、大久保利通などの薩摩の下級武士達、長州の若い下級武士達が、その悪を継承しており、それがあのような命の浪費の原因であったかのように書いている。有用な知識を与えてくれた「明治維新の過ち」であるが、非常に感情的に幕末の倒幕運動を記述している様に思う。

幕末と明治時代に起こったことは、封建社会から絶対君主制(立憲君主制という人もいる)への革命である。勿論、数々の悲惨な出来事はあったが、結果としての犠牲者は、非常に少なかったというのが歴史家の考えだと思う。例えば、近代史の専門家である井上勝生氏の「幕末・維新」の前書きには、”地勢上、有利な位置にある日本においては、発展した伝統社会のもとで、開国が受け入れられ、ゆっくりと定着し、そうして日本の自立が守られた、というのが本書の一貫した立場である”と書かれている。 

ズブの素人であるが、私の考えを書くと、江戸幕府の解体とその時の上流階級である”武士”の廃止という至難の作業が、攘夷という時代錯誤の天皇の頑強な意志と、尊王という看板を掲げる下層階級の武士や下層の公家(平公家)達との、時として敵対があったものの(注釈4)意識しない連携で、奇跡的に最少の犠牲でなされたということになると思う。しかし、薩長政権には統一国家の旗頭に天皇を頂く以外の方法は浮かばなかった。出来上がった”万世一系の天皇之を統治す”という明治政府は、その後の大国主義(皇国史観)的国策をとる破滅への道を創ることになるが、それは孝明天皇の無謀な攘夷思想と同じ遺伝子の国家であったからである。それは、日本人民にとっては近代化の代償としての不幸な側面であったのだろう。この一般における皇国史観は、吉田松陰などに影響を与えた水戸学に源があると、”明治維新という過ち”に指摘されている。

(最終編集は7/5; 更に勉強してもう一度このテーマ"明治維新”をとり上げる予定。)

注釈:
1)人口を決めて来たのは、食料生産量であった。つまり、人口の調節は、下層民の餓死によりなされて来たのである。この事実を理解できなければ、乱取りも切腹も、そして歴史も理解できない。しかし、我々現代人には到底理解不能だろう。人口の歴史的推移:http://www.hws-kyokai.or.jp/gazo-toukei/g-1-1.jpg)。
2)前回の「明治維新とは何だったのか?」では、「明治維新という過ち」の中での、歴史に関する現在の通説が、明治時代に実権を握った長州の山形有朋らにより書き換えられたものであるという記述について、肯定的に書いている。今回の記事は、”過ちだった”という同書が行なった評価の面で幾分否定的に書いた。
3)井上勝生著「幕末・維新」(岩波、2006/11)は、近代史を専門とする歴史家が歴史の入門書として書いた本であり、解り易い良い本だと思う。幕末の外交は、その第一章でかなり詳細に解説されている。幕府の外交担当官の能力は、アメリカやロシアなどの諸外国の外交官以上だったと書かれている。
4)孝明天皇は慶喜の幕府を頼りにしたが、尊王攘夷派は倒幕派という本当の姿に変身して、孝明天皇が邪魔になった。

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