2015年10月13日火曜日

良き市民を作る教育と知的エリートを育成する教育の違い

§1.
安倍内閣の政策、「教育再生」が議論されている。そして、それが間違いだらけだと言うことで「新教育論」というコーナーが文藝春秋最新号に設けられるなど、日本は今教育のあり方を問う時期にあるらしい。昨日文藝春秋最新号を買って、すこしだけ覗いてみた。

11月号240ページから始まる記事は、佐藤優氏と池上彰氏の対談をまとめたものである。その冒頭、「教育の究極の目的とは何か」で二人は以下のように発言している(要約)。
池上:私は良き納税者を育てることだと想います。さらに言えば、良き市民を育てていく。それこそが、教育の目標ではないでしょうか。
佐藤:教育の究極の目的は、「信頼の醸成」です。人間社会にはこういう悪があり、あなたも環境によっては悪人になる可能性があるということを覚えさせておき、それを前提にして、信頼の醸成の重要さを教えるのです。

二人の議論は、この後大学での教育のあり方について話が進んでいく。 後の方に有益な議論があるだろうが、今回は教育の本質について考えるので、さしあたりこの部分だけ議論の対象とする。

  最近、「膨張するドイツの衝撃」という西尾幹二さんと川口マー恵美さんの対談本を読んでいる。その中に日本とドイツの教育についての話が出ており、それが印象に残ったので一部を以下に記す。
  川口:日独では許育の目的が違っていて、日本の教育というのは新しい問題が出てきたとき、「こんな問題、どうやってとくのか解らない」ということが無いように、「あれにも対応できます、これにも対応できます」というふうになっている。ところが、ドイツの教育というのは、解らない問題がでてくることを前提にしています。「さて、それをどこからどうやって解くか」と、ゼロからの解決法を考え出させる。それが教育の目的になっています。

西尾:簡単に言うと、ドイツの教育制度はエリートにとっては有益です。しかし、エリートとそうでない大衆との落差があまりにも大きすぎる。わたくしの体験談をお話ますと、ドイツの科学関係の役人(工学部出身)と対談したことがありますが、彼らのもっている文学や哲学に関する知識は実に該博でした。そんな会話は、日本の財務省の官僚や技術系の友人などとはできません。

この二人の議論も教育を考える上での重要なヒントになると思う。以下に、池上氏と佐藤氏の議論に現れた”教育の究極の目的”と合わせてヒントとし、教育の本質とそれがどうあるべきかについて自分の考えを記す。

§2.
幼稚園から大学院までにおいて、先生と生徒(ともに一般的表現)との間で行われる対話や作業を教育という言葉で語るのが普通だが、その意味するとことは大きく変化する。そしてまた、当然変化すべきである。日本では大学院まで小学校と同じ「教育」、つまり教科分けされた各科目において、その分野の知識をつけることを主な目的として”授業”(一般的表現)を行い、生徒も親も知識を計る各種テストや資格試験に対応できるような授業を期待しているようである。(補足1)

この幼稚園から大学院までの各段階での“教育”のあるべき姿を考える。教育の大部分は情報のやり取りでなされる。そこで、教育を被教育者を中心にした情報の流れの方向で議論する。中学までは、主たる情報の流れは教師から生徒の一方向だろう。しかし、高校から大学に向かうに従って、その方向が双方向になり、大学院では学生の中から湧き出るという風に変化すべきなのである。

つまり、生徒を中心とした情報の流れが、①先生=>生徒、②先生<=>生徒(補足2)、そして③<=生徒=>という風に変わるのである。この①の段階が通常議論の対象となる教育であり、③の段階が創造である(補足3)。③の段階を終了したものは、ある問題が提示された時、それが解決できる問題かそうでないかの判別ができ、解決できる問題については、ゼロから解決できるだろう。(ドイツの教育)①の段階を完全に修了したもので、②の教育を経験した者は、良き市民となり良き納税者となるだろう。良き市民は、社会に信頼という財産を蓄積できるだろう。(池上氏、佐藤氏の定義を満たす教育)

このように中学、高校までで①のタイプの教育を修了し、大学で②のタイプの教育(講義)を受け、大学院では③のタイプの知の創造(研究)が専門分野でできる様に、教育機関がそれぞれの段階を受け持つことを意識して対応すべきである。以上から、「教育の究極の目的は何か」と言ってみても、小学校と大学では目的は異なるので一言では言えない。幼稚園から大学院までのいわゆる教育機関と呼ばれるものを通して、あえて目的を定義するとすれば、それは「社会に有用な人作り」としか言えないだろう。

つまり、池上氏と佐藤氏の「教育の究極の目的」は、もともと高校レベルまでの教育について語っているのではないだろうか。二人の議論は、そこから米国の名門大学MITでの教育の話しに移行するが、それは「教育の究極の目的」として語られた部分からははみ出ていると思う。

西尾氏と川口氏との対談の中のドイツの教育であるが、西尾氏のいうように大衆の教育レベルが低すぎるとしたら、ドイツでも小学校から大学まで、同一の「教育の究極の目的」を探し、その答えに基づいて②のタイプの教育しているのではないだろうか。つまり、川口マーン氏がドイツの教育として指摘されたような教育を小学生のころからすれば、大衆一般の教育レベルは上がらないだろう。また、日本のような問題と答えを一組にしておぼえるような教育では、優れたエリートは育たないだろう。

補足:

1)人々は教育の自由とか大学の自由とか口ではいうが、日本の大学は学生や親の上記のような要求から自由ではない。

2)ハーバード大のサンデル教授の講義の様子を見れば、大学の教育がこのようでなければならないとわかるだろう。

3)この被教育者の周りの情報ベクトル場を考えた場合、③は情報が生み出されて被教育者から流れ出ることを示している。ベクトル場的に考えれば、知識ベクトルの被教育者のところでの発散がプラスの値を持つことになる。(小学校では発散はほとんどゼロで、高校以降で輪になって議論が起こる場合は、情報場の回転が値を持つことになる。)

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