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2015年11月9日月曜日

日本の宗教について(そこまで言って委員会後に頭を整理)

昨日のそこまで言って委員会(11/8/2015)で、宗教について話し合っていた。それに刺激されて、日本の宗教を考える。世界の宗教地図では日本は仏教圏内に含まれている。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/edu/kyouzai/handbook/pdf/p111.pdf しかし、これで日本の宗教を語るのは単純すぎる。

1)私は日本人の宗教の土台には神道があり、その上に大乗仏教が載っていると理解している。神道は大自然(=神)の恵みとして生を受けたことに対する感謝と、その生を授けた神を怖れる宗教である。日本人の父なる神は大自然と一体であり、霊を帯びた山や川というより、山や川などを支配している霊であると思う。キリスト教との違いは、聖書(経典)がないことや、山や川に存在する霊を臨在的に感じることである。聖典がないのは、人知を超える存在であるからである。

聖書の神は、人を特別に創造したことでも解るように人を愛する神である。そして、戒めを破れば恐ろしい父なる神である。一方、神道の神は、神であるが故に公明正大であるだろうと予想されるが、その保証はない。なぜなら、何をしてはいけないという教えがないから、突然訳もわからない災害に見舞われる(神罰を受ける)こともある。日本人が無宗教だと答えるのは、神道の神から人へ差し伸べられた救いの手が感じられないからだと思う。つまり、神道の神は父なる神として子を恐れさせるが、教育はしてくれない。

その不安で寄る辺ない日本人に対して、仏教は本来の形から大きく変化して対応したと思う。日本の仏教、例えば、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏への信仰を告白すれば、死後は極楽に往生できると説く。阿弥陀仏は母のように、日本の人の心を安心感で満たしてくれるかのようである。極楽を天国、阿弥陀を神に置き換え、そして、「南無阿弥陀仏」を信仰の告白に置き換えられるのであれば、一神教に近いように感じる。しかし、善と悪の区分を超えたところに真実があるとの教えは(補足1)、仏教の中心的教義である「色即是空」の別表現であると思う。

以上から、日本人が怖れるのは神(神道の神=大自然の神)であり、日本人に暖かく接してくれるのは阿弥陀仏などの仏である。その両方があることで、生と死の不安に怯える人は、かろうじて自分の現在位置を確認できるのである。

2)生命が怖れるのは死である。死が「行く末」であり、それへの不安から、人は「来し方」を探すことになる。仏教ではこの形ある世界は本質ではないと説く。つまり、来し方が本質的でないのなら、行く末も本質的でない。従って、行く末を恐る必要がないと説く。神道には教義はないが、私が神道の信者ならば、偉大な自然から生まれ自然の中に育まれているのが自分であると感じる(だろう)。そして、肉体が自然に融合するように帰るのも当然のこととなる。何れも、死の恐怖から解放される方法を教えていると思う。因みに、神道とこの自然に帰る死は、深沢七郎作の「楢山節考」に極端な形としてではあるが、見事に描かれている。

色即是空を四苦(生病老死)克服の為に知るべき真理として、信徒に修得させることは難しい。親鸞でも、当時の日本仏教の中心であった比叡山で厳しい修行を行っても、真理つまり悟りを得ることは困難であった(補足2)。従って、経文の意味を信徒一般は知り得ないし、知ろうともしない。

仏教が日本に入ってきて変形されても、その理解は依然困難であり、死の恐怖からの克服も一般人には困難である。そして日本人が仏教に接する態度は、棒読みで経文を唱えるのみである。日本人のほとんどは、神道と仏教を謂わば両輪とする(あるいは両親とする)宗教の信徒であるが、仏教の経典にはわからない文字が書かれているだけであり、神道の神も何も教えてくれない。従って、宗教を前面に出して、自己を主張することはない。人と人が協力して生きる以外に方法はないという意味で、宗教は共同社会の絆としての働きが主であったと思う。日本人の多くが、誤って「自分は無宗教だ」と答えてしまうのも、神を全面にだして他国と対立することがないのも、この極めて薄い宗教的”空気”による。

因みに、国家神道は明治政府が政治的に作り上げた宗教である。神道は、仏教やエホバ神信仰と同様、二度ほど変形されていると思う。最初は、権力を掌握した多数派渡来人が、より古い渡来人により信仰されていた神道を、種族の長を聖書の中の創造神の子孫のような存在に仕立てて(古事記)変形した神道(伊勢神宮)である。二度目は、徳川家康など歴史的な人物を祀る神道(東照宮;八幡宮など)であり、その延長上に国家神道がある。国家神道では、国家の戦闘で死亡した人を神として祀るもので、明治維新以後にできた最後の神道の形であるが、政治家や元軍人以外の日本人の心の中には定着していない(補足3)。

「千の風になって」という歌が有名であるが、これが米国で作られたのだが、おそらく作った方は神道のような自然崇拝(アニミズム的宗教)に近い信仰の方ではないだろうか。自然崇拝は世界中で普遍的な宗教だと思う(補足4)。

補足:

1)言うまでもないが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」である。

2)オリジナルな釈尊の教えである、「生病老死が苦(思い通りにはならない)であるとし、色即是空(形あるものは空い存在であり、本質的ではない)であるから、その苦も本質的でない」という教えは、哲学的ではあるが、その説教で救われる人はいないと思う。従って、偶像崇拝的なものや、新興宗教が多数勃興した。法然と親鸞が創始者である浄土真宗もその一つであり、「弥陀の本願を信じて”南無阿弥陀仏”と唱えるだけで、死後極楽往生できる」と極めて簡単な教えとして広めた。

3)変形された神道は、人格神的要素が取り入れられており、やはり本当の意味では神道ではない。

4)広辞苑第二班によると、「宗教とは神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。」とある。人間は自然の中から生まれたという意識は万人に共通だと思うので、超越的絶対者はこの自然と一体であると考えるのが当に自然である。そして、世界中で自然崇拝が基礎にあり、その説明者によりいろんな宗教が作られたのではないだろうか。

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