2016年1月4日月曜日

言葉を大切にする文化と公の空間を持つ文化

1)この数日慰安婦問題を議論してきた。この問題の根幹の一つに慰安所(婦)という当時の新造語がある。この言葉は、「兵士を慰安して指揮を高め、日本国の国策に協力する仕事である」という意味を込め、女性やその親族に応募する際の心理的圧迫感を減少させるために作ったのだろう(補足1)。

慰安所の実体は売春宿だったのだが、そう言ってしまえば身も蓋もないという反論がでたのだろう。そのような“言語文化”が、実は日本や東アジア特有のごまかしの文化の一端であることを、再確認すべきである。西欧では考えられない言葉の軽視である。(補足2)その原因と対策などを少し考えてみた。

言葉が正確に定義される必要性は、公の空間が十分に広く作られている場合に高いのである。それは空間を渡る間に誤解や曲解が生じる(或いは意図的に生じさせる)可能性があるからである。日本において一般大衆が参加する公の空間は、皮一枚程度に薄いか、或いはほとんどない(補足3)。したがって、言葉の定義が曖昧でも社会はそれなりに動くのである。(補足4)

この慰安所(婦)という言葉を思いついた軍当局は、阿吽の呼吸でうまくことが運ぶとほくそ笑んだだろう。その言葉が、公の空間を汚すことになるという意識など、当時の軍関係者にはなかっただろう。日本の敗戦は想像できても、慰安婦という言葉が80年後に国際的な公空間に引っ張り出されて、赤恥をかくことなど想像すらできなかっただろう。

2)その次に現れた大きなごまかしの言葉が自衛隊である(補足5)。自衛のための戦争というごまかしを含んだ用法(補足6)も同時につくられた。いうまでもなく、憲法9条第二項との整合性をごまかすために作られた言葉である。当然自衛隊を用いて、自衛のために外国に侵攻するという詭弁も成立するだろう。そして、自衛のために自国が滅びるという皮肉なこともあり得るのである。言葉を軽視するのは、自分をごまかすことであり、他人はおろか自分でも論理の根拠を失うのである。

韓国では裁判所が「本件に関しては、行政から斯々然々の要請があった」と読み上げる国であると驚くのは、将に目糞鼻糞を笑うの類である。

公の空間を意識する文化へ向かうには、マスコミの努力も重要である。NHKは率先して、政府から独立して発言しなければならない。なぜなら、NHKは現政権のためではなく国民のための放送局だから、国民は税金ではなく視聴料を支払うのである。

もっとも、公の空間と個人の自立は、同時達成されるものである。「個人の自立」は東アジア諸国にとって極めて難しい問題である。何時も問題解決を考える時に行き着く先は、学校教育である。

補足:

1)強制連行するのなら、このような言葉を作る必要などない。
2)「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。全てのものは彼を通してつくられた。」と聖書にある。言葉は肉を得てキリストとなる。
3)公の空間を意識するところから、公つまり表に向かう姿勢と裏での私的な姿勢に差が生じる。公の空間と私の空間の峻別があって初めて、プライバシーという言葉の意味が理解される。因みに、寄付は公の空間への金銭的貢献である。日本では、寄付を社会人の義務と考えるのではなく、恵まれない個人への施しと考えるのは、本文に示したような未熟な社会的意識による。
4)そのような文化的背景があるため、大衆相手の言葉は定義が曖昧で時代とともに大きく動く可能性が高い。最近の言葉で、例えば”イケメンゴリラ”や”美しすぎる国会議員”では、言葉のかなりの深いところまで崩れている。ゴリラはメンではないし、「すぎる」は形容詞の最上級を示す語尾ではない。
5)念のために補足すると、私は憲法を改訂(改正とはいいません)して、軍隊をもつべきだと思っています。
6)ある国が攻めてきた場合、戦うのは自衛の戦争と言えるという反論はあり得る。しかし、その反論が正当なら、先の大戦で日本と戦った米国の戦争は、自衛のための戦争ということになる。

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