2016年2月2日火曜日

後味の悪いテレビ番組

1)昨日夜のテレビ番組についての感想である。イタリアのある実業家に嫁いだ日本人女性の話が、ご両人や彼らの近親者たちへのインタビューと日常生活の画面とともに紹介されていた。そのソフト開発会社を経営している実業家は、四肢は動かない上発声も自由でないような重度な身体障害者である。

イタリアのその実業家は日本を訪れた際に、日本人の優しさが気に入ったようである。一方その女性は、近親者に障害者が出て、介護に関心を持ち介護士となって日本で働いていたが、何か物足りないものを感じていたという。ある時、イタリアでの介護の仕事を紹介され、一念発起してイタリアで働くことになる。しかし言葉の壁などもあり、一年間の契約後は住居と食事のみの提供で給与なしの条件で働くことになった。

人種差別的な周囲の対応など今後の生活に不安を感じていた時、その実業家の元で働く機会をえて、その悩みは徐々に薄くなった。そして、その人と結婚することになったという。結婚生活は、最初から夫の口に食物をスプーンで運ぶという形で始まるが、夫の親族からは天使だと言われて大事にされている。この結婚はイタリアの新聞にも掲載されたとのことである。当初は、財産目当ての結婚だとの陰口もあったが、誠実なその日本人女性の対応はそれを払拭することになったとのことである。

この結婚は美談である。しかし、その女性の内面を理解するのは、普通の人には極めて困難である。私は、その女性の善意と幸せな異国での日常とを信じようと思うが、それはこのテレビ放送の内容からそう理解できるからではない。もっと深い事情があってのことだろうと思うからである。正直に言って、そう納得する以外、この番組内容を心理的に消化できないのである(補足1)。

この種のケースは、マスコミ特にテレビなどで中途半端に紹介する位なら、そっとしておくべきだと思う。放送することを本人が了解することは理解できる。なぜなら、テレビ局の人たちが来た以上、誇りある人生として誇示したいだろうし、それを自分に納得させる意味もあるからである。

しかし、大河ドラマにして放送するのなら兎も角、数十分で完結する形での紹介では、失礼な見世物のレベルを超えられないのではないだろうか。

2)身体障害者を社会が受け入れることは当然大切である。それは、豊かに成長し複雑化した現代社会において、様々な背景を持った人間が互いの権利と思想とを尊重して生きる文化を持つことは、社会を構成するすべての人が不満なく住む条件だと思う。

その中で、人間関係もいろんな形があり得る。一定の想像力と知的能力しか持たない我々には、そのすべてを理解することは困難である。その近くで協力する人々にとっては消化済みのことでも、初めて見聞きする場合にはその理解には相当の努力を要する。したがって、かなり特異なケースに出会ったときは、理解できるまで付き合うか、お辞儀をして退場する(補足2)かのどちらかを摂るのが礼儀だろうと思う。

不十分な理解と覚悟で、自分の関心を優先してその中に割り込むのは、失礼であると思うのである。金儲け主義のテレビ放送であっても、そのような役割を仲介するのは遠慮すべきだと思う。

補足:

1)直接関係はないが、ある身障者との拘りを思い出した:カナダのある大学の教授が50代の時に難病にかかり車椅子生活になった。実力者であったその教授は博士研究員を数人継続して雇用していた。車椅子に乗った教授を自宅から送り迎えするのは、彼が雇用した研究員の内の日本人であり、英国からの研究員ではなかった。2、3年毎に入れ替わる日本人研究員の仕事なのだが、“必ず日本人”ということはずっと記憶に残った。

2)このような時に使う言葉として、英語にはbow outという熟語がある。それを日本語訳してここで用いる。特異なケースを好奇心だけで見るのは失礼だと思う。

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