2016年6月13日月曜日

米国で完全な銃規制は可能か?

1)先週米国のある女性歌手が、フロリダのコンサート会場で銃により撃たれて死亡した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160611-00000027-jij_afp-int  昨日も(日本時間午後3時)フロリダの同じOrlandoという町で、無差別に発射された銃弾により50人が殺されるテロが発生した。この件、その後イスラム国から犯行声明がだされた。犯人は、イスラム国から派遣されたのではなく、米国で育った人間がイスラム国の考えに共鳴して事件を起こしたのだろうと言われている。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160612-00000082-jij-n_ame

上記ヤフー記事にはコメント欄が付随しており、そこでは、「銃に関する日本の規制は絶対正しい」という意見、「銃で守れた人の数より銃で殺された罪もない人の数の方が絶対多いと思う。なぜまだ銃を持ち続けるのか」というようなナイーブな意見が、日本では圧倒的に多い。(補足1)

同じコメント欄には更に、米国の銃社会が悪いとか、全米ライフル協会が悪いとか、その支持を得ている共和党が悪いという類のコメントが見られるが、それらはナイーブというより他国に干渉する無配慮なコメントだと思う。つまり、銃保持を権利として認めた米国の歴史的背景を考えないで、安易な推論を公にするみっともない行為だと思う。もちろん、発言は自由ではあるが。

2)昨日の事件は犠牲者の数が多いことや、テロリズムであるという点で相当深刻である。そして既に、大統領選挙への影響も出ている。①銃規制を厳しくすべきという意見と、②イスラム系難民や移民を安易に受け入れるべきでないという意見の両方が、選挙の争点になるだろう。

ウオールストリートジャーナル日本版では、クリントン候補とトランプ候補の言動がそれぞれ掲載されている。http://jp.wsj.com/articles/SB11611722697749014104804582125421627994392 クリントン氏は、「米国は国内外の脅威から国を守る努力を倍加させなければならない」、及び「戦争用兵器が街中に存在する余地がないことを改めて思い出させる」と声明を出した。そしてトランプ氏は、「イスラム過激派のテロに対し、(わたしが)正しいことを主張してきた。タフで警戒を怠らないようにし、われわれは賢くならなければならない」と呼びかける一方、銃所持の権利擁護の立場を打ち出し、クリントン氏が銃保持の権利を保障する憲法修正第2条の廃止を求めていると非難している。

3)この米国は、銃保持を禁止すべきかどうかという問題を日本人が考える場合、「日本と米国の違いは何か?」「なぜ米国では、人々は銃を持つか?」などを米国人の歴史などを念頭に置いて考えなければならない。

米国は多民族国家であり、出自が様々な人たちが集まっている。そのような人々を構成員にして安定な社会と国家を建設するには、自由と平等を旗頭にすることが必須条件だろう。この点、日本のように同一民族と信じている人々がほぼ共通の文化の下で暮らしている国とは根本的に異なる。黙っていても以心伝心というわけには行かない。

自由且つ平等な立場で会話を行うことが意思の相互伝達には必須であると思うが、それが成立する前提として、「貧富の差、体の大小、肌の色、男女の区別、年齢の差などが、自由で平等な意見の表明を封じることにならない」ということが必要であると思う。

自由な意見の表明を封じるのは暴力である。そこで、米国には「個人は他の暴力から自分を守る固有の権利を有する」と考える文化があるのだろう。その各人が銃で武装する権利を放棄するには、警察と司法がその暴力を未然に防ぐ瞬時の対応ができなければならない。米国は広い国で、多種多様な文化を持つ非均一な国であるため、そのような対応は日本よりも相当困難である。(日本でも不可能である。)

銃の保持を完全に禁止した時、例えば、田舎の道で出会った粗雑に見える大男の一瞥は、全ての言論を封じるだろう。そこでは、自由と平等という共通の価値観を全ての国民が信じ、その礎の上に単一の国家を建設することは無理になるのではないだろうか。

補足:
1)戦争に関する以下のような考えと同じレベルである:戦争で命が助かった人よりも絶対戦争で殺された人の方が多い。やはり戦争はすべきではない。隣国と平和共存の道を探すべきである。

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