注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2016年7月31日日曜日

石原慎太郎という政治家について

石原慎太郎氏は若いころ田中角栄の政治を金権政治だと批判することで、政治家として飯を食った。その本人が今になって田中角栄を天才だと持ち上げた本を書き、大儲けしている。これは節操のない態度であると思う。田中角栄を当時は評価できなかったが、勉強後には偉大さがわかったというのなら、若いころの行動に対する反省の弁を公にしてから 誉める方に方向転換してほしい。「本に書いた」は答えにはならない。

また、尖閣諸島の都による購入の件、米国のどこで誰にでなにを吹き込まれて言い出したのか、その後の尖閣問題の外交問題としての展開をどう思うかについても明らかにしてほしい。更に日中関係の今後の展開について、日本の国益を考えて意見を発表してもらいたい。この尖閣諸島の件、石原氏が火をつけたことなのだから(補足1)。

今回の都知事選では増田氏を応援して、小池氏のことを厚化粧女とかなんとか言って攻撃した。舛添氏が当選した前回の都知事選では、小池氏に立候補の声を掛けたとどこかで聞いた。ちょっと、矛盾しているのではないのか? 

石原伸晃氏が会長をやっている自民党都議連が、たとえ家族でも小池氏を応援したら都議連を除名するという御触書を出した。江戸時代のお代官がするようなことをやった。もし、増田氏が落選したら、当然都議連会長を首になるだろう。そうすれば、伏魔殿の主である内田氏のこれまでのやり方が暴かれる可能性が高くなり、なんらかの形で石原慎太郎氏にも飛び火するだろう。

それが、下品な言葉を発してでも小池氏を非難し落選させたい理由ではないのか。石原氏は、自分は常にトップでないと気が済まないタイプであり、自分が都合悪くなると何も言わなくなる人だと思う。

石原氏の優れていると思う点についても書かなければいけない。それは行動する政治家であったという点である。東京マラソンや東京オリンピックなど、行動力は確かにあったと思う。また、大阪の橋下市長を評価した慧眼については、有権者の一人として評価したい。

週刊文春とか週刊新潮は、伏魔殿が瓦解のプロセスに入れば、書くことができてハッピーだろう。両週刊誌は、真実を書くのが自分たちの社会的役割だという看板を下ろしていない、残された数少ないマスコミかもしれない。いい加減なことも書くだろうが、自己規制して何も書かないよりはマシである。

(一有権者の立場からの石原慎太郎氏に対する感想です。この文章を書いた動機は、今なぜ田中角栄について石原氏が書く必要があるのか、不思議だったからです。田中角栄については、以前(2014/01/08)、孫崎享氏の「アメリカに潰された政治家たち」という本を読んで、感想を書いたときに触れたことがあります。)

補足:
1)石原氏が何もしなくても、中国は尖閣を支配下に置きたいだろう。ただ、その口実作りには困るだろう。

2016年7月30日土曜日

円高の解消のため、黒字企業は外国への投資を考えるべき

日本の円高は、万年経常黒字が原因だと思う。そうなら、黒字分のお金で外国優良株などに投資をして、外貨を還流をするのが根本的解決につながるのでは。 外国人が日本の株を30−40%持っている現状を考え、日本もグーグルやアップルなどの優良株に投資すれば良いと思う。

ソフトバンクが英国企業を3兆円ばかりで買うことになったが、これは金融だけを考えれば円高を利用した賢明な投資だと思う。もちろん、ソフトバンクの発行している債権の信用低下などの心配は残るが、アリババ株などの財産を持っているので大丈夫だろう。

先日(7月27日だと思う)のNHKクローズアップ現代で、村上世彰氏が出演していた。村上氏は、剰余金をもっと株主還元すべきという持論を紹介していたが、村上氏の商売をNHKが応援するなんて馬鹿げている(補足1)。

そこで、黒田電気が引き合いにだされていたが、確かに長期債務がほとんどなく、儲けを溜め込んでいるのは確かだ。しかし、配当利回りが3−5%くらいあるのだから、それ以上の配当を要求するは厚かましいと思う。この種のそれほど大きくない優良企業に、外国投資を仲介する金融企業があっても良いと思う。

日銀の量的緩和は、日銀当座預金を増やすだけであり、あまり意味がなかったと思う。それにマイナス金利をつけて、銀行いじめをするのはかわいそうである。もちろん日本の銀行は、これまで国債を買ってその利子で儲けるという姿勢を安易に取ってきたというのは、評価できないと思う。つまり、金融業が弱いのが日本経済の大きな問題なのだろう。

とにかく、「金は天下の回りもの」なのだから、天下が地球規模になれば、外国から得た金は外国に戻す工夫が必要だと思う。経済に関しては全くの素人なので、どなたか詳しい方のコメントを期待します。

補足: 1)「企業が、溜め込んだ360兆円にのぼる内部留保を投資もせず置いておくだけなら、株主に配当金として還元すべき。それが新たな投資へ向かうので、日本経済にとってはよいことだ」と村上氏は言うが、これは身勝手な理論だ。ただ将来に備える(貯めておく)という企業の内向き姿勢は経済にマイナスであるので、何らかの形で投資に廻すべきという部分はもちろん理解出来る。

2016年7月28日木曜日

相模原事件の被害者の命は何時失われたのか

相模原の重度身障者の殺人事件は、誠に凄惨な殺人事件であった。事件が起こったあとに、犯人に対する怒りというより恐怖を感じた。またそれとともに、いろいろ考えさせられることも多かった。

犯人は異星人かと思うくらいに被害者の命を軽視した。その行為は、死罪を以ってしても、とてもで償いきれない。今日新聞誌上でこの事件の報道に接して、我々この社会の中で生きる者達は、犯人から刃物のように一つの問いを突きつけられていると思う。それは被害者の名前が伏せられ発表されないというこの社会の対応に関するものである。県警は、「本来は実名だが、色々な障害を持った人たちの施設で、ご遺族の意思もあり、警察本部としてこの方向でいく」(新聞報道のまま)との説明を繰り返した。

家族会副会長の方は、「障害者の子供を持つ親は、外出させたくない人もいれば、周囲に知られたくないという人もいるかもしれない。氏名を公表しないことは、偏見だとは思わない」と語った。その一方で、献花に訪れた障害学が専門の教授は、「障害者がいるということを家族が隠したいということを感じさせるものが社会にあるのなら、我々は変えて行かなければならない」と語ったという。(読売新聞、10,11面)

私も上記遺族の言葉の前半部分がわかるだけに、そして、匿名の要望を出さざるを得なかったことに対して悲しい気持ちを持つ。「殺されても名前も出ないし、出せないということは、犯人の刃物が命を奪う前に、我々の社会が幾分かの命を奪っていたことになるのではないのか?」という問いが頭に浮かぶからである。犯人がパトカーの中で見せた笑いは、それを見越して遺族やわれわれ社会に向けられたものだったと思える。障害学の教授のいう様に社会を変えることができなければ、堂々と犯人に怒りをぶつけられないことになる。

この事件は、「人として生まれたものは全て、等しく生きる権利と個人としての尊厳を有すること」について、明快な姿勢を社会に植え付けてくれるきっかけになってほしい。

(7/29/6:15改訂)

東京都も動く予感がする

木曜日の朝刊には週刊新潮と週刊文春の中身が紹介される。今週の週刊文春コンテンツのトップは、小池百合子に「どっちが上座かわかっているのか」と言った、「都議会のドン」内田茂「黒歴史」である。この人の独裁的都議会運営に抗議して自殺した都議が居るのだが、今日のサブタイトルにもこの都議の「遺族による告発」の文字が見える。もう一つのサブタイトルとして、「舛添と一緒・毎年事務所費100万円が娘に還流」がある。 

既に舛添氏の辞任の件に関して、佐藤優氏は東京都にかなりの裏金があるのではと疑っている。https://www.youtube.com/watch?v=cv6hld-pJ2o 更に、ちょっとネットを見ると都議会のドン内田氏の関連会社による五輪関連施設の受注など、どす黒い世界の存在を示唆する動画が出てくる。https://www.youtube.com/watch?v=O-XYiQV7VwU  

このような都議会の汚れた部分が明らかになって困るのはだれか? それは石原慎太郎氏など長期間知事職にあった人だろう。そして、その息子も困るかもしれない。そのような背景の元に、たとえ家族と雖も小池氏を応援したら自民党都議連から除名するという脅しの通達がだされたと考えれば、わかったような気になる。 

都議連の人たちはバカではない。東大、一橋、慶応などを出た人たちが幹部に多いだろう。そのような人たちが、あのような通達を出すには相当の理由がなくてはならない。しかし、それも自殺行為であったと見てか、賢い若狭勝氏などはサッサと小池氏応援に廻っている。東京都も動く予感がする。

2016年7月27日水曜日

相模原事件:類似事件を防ぐ工夫をすべき

1)相模原で起こった重度な障害者を狙った大量殺害事件には明確な特徴がある。犯行後のSNSへの書き込み“Beautiful Japan”や衆議院議長に出された手紙などから、醜いと感じたものを抹殺するホロコースト的な犯罪であるという点である。その手紙を見て驚いたのは、犯人は腹立たしいことに心神喪失で有期刑を想定していたようである。

類似の事件が伝染的に起こる可能性があり、対策を急ぐべきである。差し当たり、全国の類似施設のほか、老人介護施設などは厳戒体制を敷くべきである。また、現場には虚しく民間警備会社のマークが貼られていたが、各警備会社は自分たちも存続の危機にあると自覚して対策を強化すべきであると思う。

長期的な対策として、幾つか考えられる。一つは、しっかりと罰するということである。犯人は日常的には礼儀正しいノーマルな人間に見えていたようなので、心神喪失と医者が診断したとしても、大幅減刑するのは妥当でないということである。死刑と懲役の差が理解できる人間にたいしては、精神構造に異常が見出されると医者が診断しても、減刑の対象にすべきでないと思う。また、予防や報復としての刑罰が現代ではタブー視されているが、刑罰の原点は報復である。

2)ここからは異論が予想されることを書く。長期的対策として、教育の問題をとりあげたい。政府は命を大切にする教育を道徳教育の一環として行うというが、どのような命を大切にするのか明確に言えないのなら、意味がない。これについては昨日のブログを参照いただきたい。綺麗ごとを並べて表面だけを繕うような教育では、この種の犯行にたいして効果がないだろう。それは、政府自ら死刑という殺人を行っているし、諸外国は中東で空爆を行い無辜の民を大量に殺戮しているからである。

ここでは更に、青少年の教育に悪影響を及ぼすと考えられるものとして、擬似的な殺人を連想させるゲームの存在を指摘したい。それはモンスターを退治するゲームである。相模原事件の犯人は、罪のない障害者をモンスターと見なしたと私は考えるからである。上記の至急取るべき対策の中に、老人介護施設の警備を入れたのは、要介護老人も若者や健常者にはモンスターと見える可能性があるからである。

もちろん、多くの人はそのような感覚を否定するだろう。しかしその感覚は、子供には明確に存在しており、障害者やなんらかの違いを持った子供に対する虐めの動機でもある。そして、その残渣を正常な成人でも確認できる筈である。(補足1)その感覚が成人しても大きく残り、障害者施設で働くことで更に大きくなって爆発したのが、相模原事件の犯人だと思う。

この感覚は、生物が生き残る本能の中にあると思う。だれでも美しく健康で逞しい人に憧れ、自分もそうありたいと思う。しかし、人間は生物一般とは大きく異なる筈である。多様な人間が互いに多様性を認めることで、高度な文明社会を築いてきたのが人類の歴史である。そのために、成人するまでに広いスペクトルの人間を受け入れる準備を済ませ、自分の周囲から異質な人を排除したいという感情を制御できる様になっている筈である。それは重要な教育としてなされてきた筈である。(補足2)その教育を台無しにする企みが、モンスターを捕獲するゲームである。モンスターとは、異教徒であり異国人であり、自分がその人から不利益を被る可能性のある人であり、自分の好みに合わない人である。この最後の文には異論のある人は多いだろう。

ゲームを行っている子供や青年で、抹殺されるモンスターの心を一瞬でも考える人は殆ど居ないだろう。(補足3)どのような人間でも醜悪に見えるときがある。ましてや、障害者や介護を要する老人を醜悪に見る人は多いだろう。障害を乗り越えて生きる姿を美しく感じ、若いころからの実績が作り出す老年の美を湛える人に気づく感性を、ほとんどの人が持つほど人間はできの良い生き物ではない。(17:00改訂)

補足:
1)この感覚の残渣を自分の内部にも確認できると感じた人の方が、この種の犯罪に走る危険性は少ないと思う。それは警戒すべき感覚として、その人は意識しているからである。
2)思想や信仰の自由などもこの教育の一つである。
3)この種のゲームが子供たちに与える影響として、例えば問題が生じたとき問題を消し去ることで解決可能だと短絡的に考える傾向を助長するだろう。その結果、新たなもっと大きな問題を生じさせることになるかもしれない。例えばトカゲが嫌いな者が、トカゲの抹殺を考えるのは非常におろかである。トカゲの姿にも可愛さ(害虫退治の役割)を見出すのが人間の知恵であり文化である。

2016年7月26日火曜日

「道徳教育」より「社会に信用を築く教育」を

政府は道徳教育を再開するらしい。小学校は2018年度にも教科化される見通しとのことである。http://news.biglobe.ne.jp/trend/0217/ddn_150217_4943571656.html そこで、①道徳とは何か、②道徳教育は必要か、③政府は愛国心教育を目指しているのではないのか、などについて考えた。

§1 現代の道徳を考える:

「人としての道、人の持つべき徳」という考えだが、その言葉には何故か現実離れした説教を聞くような響きがある。つまり、「道徳」は、支配者と被支配者が社会を作り生きていた時代、家長が家を代表して権威を持っていた時代の遺物かもしれない。

例えば、「君子にたいして忠、親にたいして孝」という儒教由来の教えがあるが、これは随分時代遅れである。しかし、「君子に対して忠」は、「国民は愛国心を持たねばならない」と殆ど同じなので、愛国心教育というのも時代遅れではないだろうか。例えば、北野武氏は以下のサイトでそのような反対論を提示している。http://lite-ra.com/2015/10/post-1615.html 政府の目論見として、愛国心教育も重要だと考えているだろうから、その根拠について説得力ある説明をすべきであると思う。

また、親に対し孝と言われると、食うや食わずの中で必死に子供を育てた時代の遺物のような感じがする。「道徳教育」を何故今頃再開しようとかんがえたのだろうか?  もし、若い人たちの間に社会にたいする思慮が足りないというのがその動機なら、もっと別の視点から教育することは可能だと思う。それは、「安心して生きることができる社会を築く意志」を子供たちの心の中に築くことである。

我々は社会を作って生きている。安心して生きるためには、同じ社会で生きる人の心の中に、他の人と社会のルールとを信用できる心を、”社会の基礎”として厚く築くことである。それは人々の心の中に築かれる思想や感覚の類であるから、一朝一夕にはできない。この“人々の心の中の信用”が安全且つ健全な社会を維持する為の基本条件であり、高い信用はその社会の純資産(正味の財産)とでも云うべきものである。(補足1)これをしっかり教える教育を、道徳教育の代わりにしたらどうかと思う。道徳教育というのはそういう意味だと言う人には、「名は体を表す」と答えたい。

この“社会における信用”とは具体的にどのようなものかについて考える。“この道を歩いていても、銃をもって襲ってくる人などいない”という信用があるから、買い物にもいける。また、“この野口英世の肖像画の札は、牛乳パック5本分位の値打ちがあり、明日も明後日も1年後も同じ程度の値打ちがあるだろう”という信用があるから、物の売買がこの紙切れを仲介にして成立するのである。これらの信用は社会のソフトなインフラの基礎であり、上でも述べたように、社会の成立から営々として蓄積された純資産(補足2)なのである。

§2 現代の愛国心を考える(社会を成立させるための信用は、社会をまたいでは成立しない場合も多い):

現在世界は、自国と協調的な国や、競争的或いは敵対的な国などが、密接に関係を持って地球規模的に広がった政治経済の空間(グローバルな政治経済)を作っている。つまり、リアルタイムで地球の端の国の出来事が、自国の政治や経済に影響する時代である。そして、この互いに信用し協力するという「人の心の基礎」は、自国でも外国でもそれぞれの国内では同じ意味を持つ。

そのような世界であるが、国家の壁を越えて「信用という純資産」を我々人類は未だ持っていない(投資していない)のである。そこで、自国の「信用」への寄与を、未だ曖昧な「国際的な信用」に優先するのが、現代の「愛国心」だと思う。従来の愛国心が具体的行動である「他国を征服することや、他国から自国を軍事的に防衛すること」と繋がるが、この「現代の愛国心」とはかなりベクトルの方向が違う。それは、国家間の壁に阻害されてはいるものの、国際的な信用の拡充と同じ方向だからである。

§3 命の大切さは国境を跨がない:

我々は互いに自分の命を大切に思う心を尊重する。このことを信用して、我々は社会(つまりこの場合は日本国)の中で生きているのである。人の命はどこでもどこの国の人の命でも大切であるが、「信用」が社会をまたいで成立しない現状では、残念ながら命の大切さも社会をまたいで成立しない。この「命の大切さは国境をまたいで成立しない」ことは、戦争の歴史を見ればわかることである。

道徳教育で、命の大切さを教えるというが、この「社会の信用」という視点で考えた場合、命一般が同様に大事なのではないということになる(補足3)。つまり、我々と同じ社会に生きる人の命が大事なのである。何故なら、名前も住所も知らないけれども、彼(女)は我々の仲間だからである。一緒になって、この社会を安全に豊かにするという共通の目的を持っている仲間だからである。(社会の信用という我々の祖先が投資した純資産を継承する仲間なのである。)

§4 現状:

この「社会の信用」は、自分もその恩恵を受けている事実に気づかずに、個人の利益を最優先してしまうと、脆く崩れる可能性がある。そこで、これを大切に保持し更に厚くするのが我々同じ社会の中に生きる個人の義務である。

更に、国際間にも「信用」を築く努力を人間はしている。それは、社会の枠組みを現在の国よりも大きく広げようという考え方である。国連やEUなどもその試みの例であると思う。しかし、地球社会全体が十分裕福でない現在、一つの国家が利己主義を重視すると、その試みは進まない。それが現状である。

補足:
1)移民政策を考えるとき、この社会の人々の心の中にある「社会の財産」が瞬時にできないことは、重要な問題である。
2)信用は英語でcreditである。貸借対照表の中でcreditの欄には、資本や純資産が記載される。
3)個人を思考の場とした場合、特に仏教に傾倒している方にとっては虫の命も大事だろう。しかし、それを社会の他のメンバーに主張することは出来ない。同様に、日本国の消滅を願う国があったとして、その国の軍隊の兵士の命は、個人的な思考の中では大事だと考えてよいが、しかし日本国全体の中で国家の方針を考える場ではその主張はできない。世界政府が仮にできたとして、その政府が十分な権威と権力を持った場合、我々は人の命は等しく大事だと、その世界政府を受け入れる仲間の間で主張できる。(神の支配する世界ではなくて)人が作る世界では、命であれ物であれ、その価値や大切さは相対的であり、且つ空間的に有限である。
別の表現では、世界の国々は国際社会に資本を投資して、未だに「人の命は大切である」という資産を、国際的に形成していないのである。

2016年7月25日月曜日

東京都議連についての猪瀬元知事の暴露と小池氏の冒頭解散発言

この13日に「自民党東京都議連の醜い姿:」との題でブログ記事を書き、そこで推薦候補以外を応援した場合除名するという、自民党東京都議連の通達を批判した。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42885185.html

言うまでもなく、この通達は民主主義の原点である個人の選択の自由という精神に反するからである。集団結社の自由は存在するので、上記除名は形式的には法律違反でも何でもない。しかし、自民党東京都議連の綱領に違反するとか、小池氏が自民党の政治方針と全く異なるとか、そのどちらかでなければ、本来除名の理由はない筈である。

また、小池氏の「冒頭解散」発言も気になった。都知事は冒頭解散など出来ないので、当然不信任案が出るであろうことを予想してのことである。知事が初登庁した時に、直ちに知事の不信任案が出ることが当然だろうと予想するなんて、穏やかな話ではない。従って、小池候補のことを“なんと異常なことをいう人か”と思った。しかし、それには根拠があったようである。

それは猪瀬元都知事が17日に明らかにしていた。http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/160717/plt16071708050002-n2.html この記事によると、上記東京都議連の通達を出した一人に(都議連の会長は石原伸晃氏)、自民党都議連のドンと言われる男がいる。5年前にそのドンの強引な議会運営に抗議の自殺をした都議が居たのである。https://newspicks.com/news/1668182/

その都議とは、2011年7月1日に自殺した自民党都議の樺山卓司氏だという。(当時)の妻、京子さん(65)は14日夜、冒頭紹介の通達に関して「なりふり構わず締め付けて、思う通りに支配しようとするのが、いつものやり方です」と語ったという。

この自殺した元都議の妻の証言などを読むと、小池氏の「冒頭解散」発言も宜なるかなという感じがするのである。つまり、自民党東京都議連という名称の集団は、現実にはそのボスの私的な利権集団だったのである。そう考えると、推薦候補以外を応援した場合には除名するという異常な通達も、(私的集団の通達として)論理的整合性がある。

東京は言うまでもなく日本の首都である。そして、日本は民主主義を標榜している国である。その都議会において、このような独裁的支配が行われていたということは、情けない限りである。現在、私の頭の中には、いろんな文章にならない片言隻句がこだましている。それらは:関東人;明治時代を作った薩長の下級武士たち;明治維新に関与した英国;関西遷都などである。つまり、東京は多額の税金で腐敗している。

日本のマスコミも情けない。権威が発表した情報を単に垂れ流すだけで、新規な情報や関心があるが際どい情報などは流さない。新聞は、毎朝早く起きて頑張る配達員や必要な情報が掲載されていると信じてきた読者を馬鹿にしている。頼りになるのはインターネットであり、その他に印刷物でまともな情報を含むのは週刊誌やタブロイド新聞などだけである。

2016年7月24日日曜日

NHKの政治的偏向報道:都知事選と天皇譲位に関する報道

 今夕7時のTVニュースで、NHKは東京都知事選の 各候補の戦いぶりを報じた。その候補者の順番が異常だった。それは、鳥越俊太郎氏、増田寛也氏、山口敏夫氏、小池百合子氏、上杉隆氏の順であった。現時点で予想される得票数の順番は、読売新聞によれば、小池氏と増田氏がリードし、鳥越氏が二人を追う展開となっている。http://www.yomiuri.co.jp/election/local/20160723-OYT1T50117.html しかも、小池氏は増田氏や鳥越氏よりも早く立候補を表明している。従って、上記の紹介順は異常であり、NHKは小池百合子氏を軽視したいらしい。

以前の報道でも、鳥越氏、増田氏、山口氏 、小池氏の順で紹介していた。http://www3.nhk.or.jp/news/special/tochiji-senkyo/ichiran.html この点を指摘した記事は他にも多くあるので、一つだけだが紹介しておく。 http://d.hatena.ne.jp/NOFNOF/20160723/1469227810

このNHKの政治に関する偏向報道は、天皇陛下が譲位の意志をしめされたというニュースでも明らかである。この件、憲法上天皇は政治に関与してはならないのだから、天皇の譲位を妨害する動きと見ることもできる。あるいは、皇室典範の改正を急がせるよう、安倍政権を揺さぶる意図があったのかもしれない。兎に角、現政権に難題を投げかけて、政治を混乱させる意図があるのだろう。

国民の多くは、このニュースとNHKの意図を深く考えずに、天皇に譲位の御意志があると受け取っているだろう。従って全く無視することは、国民の感情に反することになる。しかし、天皇の御意志によって皇室典範を改正することは、憲法違反になる。NHKの報道テロリズムと言えるかもしれない。https://news.nifty.com/article/magazine/12107-20160722-2016072000236/

NHKはこの件の責任を負わなければならない。仮にNHKが誰かから天皇の譲位の御意志を知ったとしても、本来なら報道を控えるはずである。それにも拘らず、何のためらいもなく、ニュースで流したことの責任はなんらかの形で取らせなければならない。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42888086.html とにかく、放送法で特別の地位を保障される資格などないと思う。

2016年7月23日土曜日

百田尚樹著「永遠のゼロ」の感想(2)

1)百田尚樹氏の小説「永遠のゼロ」を読んだ。文庫本でも500ページを超える本は、読むのが大変だが、ドラマティックな話の展開は最後まで読者を飽きさせない。既に、戦争の進行をミクロにみる貴重な視点をあたえてくれるという感想は書いた。(7月19日のブログ記事) 今回はそのストーリーについて感想を書く。

祖父(大石賢一郎)とは血のつながりがないこと、実の祖父(宮部久蔵)が特攻で死んだことを知り、祖父の足跡を孫の姉と弟が探る。戦場を共にした生き残りの元兵士を探し出し、話を聞くことで祖父の足跡とともに日本の戦争について理解を深めていく。その中で、二人も独立した視点で自分の人生の方向を見出していく。この小説のテーマは、個の自立していない(空気の支配する)日本の、しかも、戦争の時代にあって、最後まで個人として独自の視点を持ち続けた、スーパーマンとでも形容すべき宮部久蔵の逞しく、しかし、悲しい結末に終わった生き方である。

実の祖父宮部は、ゼロ戦に搭乗して戦う戦闘機乗りであった。日米開戦のあと、日本軍は真珠湾やマレー沖での戦いでは一応勝利するものの、ミッドウエー海戦からは形勢が逆転した。ニューブリテン島のラバウルからガダルカナルへ出撃するも、陸軍を応援できず大敗する(補足1)。日本軍が支配する境界は、サイパンからレイテ島へと北へ追い上げられる。祖父は最後の沖縄戦まで生き残るが、そこで特攻の一員となり、ポツダム宣言受諾の数日前に米国の艦船に上空から垂直に近い角度で自爆攻撃をかけ死亡する。

聞き取りを進めて行くうちに、祖父は天才的な技術でゼロ戦を乗りこなす能力を持ち、女房とその子供の写真を胸に入れ、絶望的な戦場にありながら生還することを目標に命を大切にするパイロットだったことを知る。そして、自分の部下や航空学校の教え子にも、命を最後まで大切にすることを教える。その姿勢は、戦闘機乗りは命を落とすことを恐れては仕事にならないと教育されてきた一般の戦闘員から見て、特異であった。そのため人によっては宮部を臆病者と決めつけたりするが、別の人はその優秀な搭乗技術と実績から、勇敢で優秀な戦闘員と評価した。

この小説は素直に著者のプロットに付いていけば、感動して泣ける作品である。しかし、その感動の話の感想文を書こうと思ってもどうしても書けなかった。その理由はどうも、現実性に欠ける話の筋について行けなかったことの様である。例えば最後の重要な場面にも私は付いていけなかった:
宮部は多くの死を見て、自分だけが生き残ることへの罪悪感をもったのか、沖縄戦で特攻に出ることになった。そこで、飛行学校の教え子である大石賢一郎(姉弟の養祖父)に戦闘機を交換する形で命を譲る。自分の戦闘機のエンジンの調子が悪いと見抜き、それに乗った大石が特別攻撃出来ずに鬼界ヶ島に不時着して生還することを見越していたのである。その飛行機内に、家族を頼むと遺志を記した紙片を残していた。(補足2)

更に、これらの話の筋に矛盾を感じさせないように、多くの話が挿入されている。出発前のエンジン音から正しく飛行機の状態を予測する能力を宮部は持っていることになっているので、その戦闘機の状態を知る高い能力に関して、元整備兵を登場させ証言させている。また、大石賢一郎と祖母との再婚も奇跡的だが、それについては、暴力団風の元兵士景浦を登場させている。景浦は、宮部の妻を囲っていた暴力団組長を刺し殺して救うのである。景浦は、宮部の戦友が彼の妻を救うというのが、戦友として不自然ではないとの印象を読者に与える役割を果たしている。

日本帝国海軍航空隊の戦いぶりについての詳細で具体的な記述は勉強になったが(補足3)、祖父宮部とその家族、戦争を供に戦った人たちの物語は、大衆娯楽的である。

2)兵士の扱いについて、日米の間で大差があったという話は本当だろう。例えば、米国では戦闘機の搭乗員は一定期間で退役するという制度がとられていたという。また、米国は搭乗員の命を大切にし、撃墜されても救助する体制がとられていたため、生存者の中に撃墜された体験を持つ人が多かったという。一方日本では、退役制度がなく救援体制もあまりとられていないので、撃墜されたら死を意味する。また、ゼロ戦は搭乗員を銃弾から守ることを無視し、軽量で航続距離を長くするように設計されていた。

日本では、「戦闘員は国を守るために愛国心を持って戦え」と教育しながら、その国は決して戦闘員や一般国民を愛してくれないのである。日本の敗戦、そして、戦後の日本政府への不信感の原因は、国は国民一般を愛してくれないというところにある。兵士を消耗品のように扱ったことは、その証拠である。日本国は、昔も今も国家を牛耳る上層部のためにあり、一般国民のためにあるのではない。 真珠湾攻撃から始まったすべての対米戦闘において、出撃毎に多くの未帰還の戦闘機が出た。退役制度のない戦闘機乗りの運命は、何れ撃墜されて死ぬことであった。従って、戦場においては、集団で死を恐れる感覚が麻痺する世界を作り上げ、その中で生きるのである。二人目の証言者伊藤寛次が祖父宮部について語る場面がある。そこで、「死を怖れる感覚では生きていけない世界だったが、宮部は死を怖れた。戦争の中にあって、日常の世界を生きていた。何故、その感覚を持てたのでしょう」

祖父宮部の様な生き方は、いくつかの極端な条件が重なって初めて実現するだろう。家族に対する強い愛情、強い意志、そして戦闘機乗りとしての完全な自信である。その物語の設定には、すでに述べたようについていけない読者が多いだろう。ほとんどの兵士は宮部のように超絶技巧を持つ飛行機乗りではないし、鉄の意志を持つわけでもないのだから。素晴らしいドラマではあるが、こどものころ熱狂したスーパーマンのようなドラマであった。

補足:
1)ガダルカナルの戦闘は1943年2月に終わる。海軍は艦艇24、航空機839、搭乗員2362人の被害であった。一方、陸軍は合計20000人の死者を出すが、そのうち15000人は餓死者であった。
2)その最後の場面で、かつて宮部の命を救った大石(養祖父)が特攻機に搭乗し、更に、宮部の戦闘機乗りの腕前に挑戦し続けた景浦(戦後、宮部の妻を救うことになる)が直掩機に搭乗するという形で、同じ特攻隊に参加するのは、奇跡的である。
3)特攻隊員やその家族の思いを考える上で非常に参考になると思う。また、戦場での兵士たちの心理を知る上でも非常に参考になる本だと思う。ただ、歴史書として読むのには無理がある。例えば、特攻隊の攻撃について、この本ではあまり効果がなく無駄死に等しいという記述がなされている。しかし、実際には非常に効果があったという統計がある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A

2016年7月22日金曜日

日本は米国の新体制に備えるべき

米国の新大統領がどちらになっても、米国は今後、世界の覇権国としての地位から降りる方向に動くだろうと言われている。米国は、中東・北アフリカなどを軍事的混乱の原因を作ったと思うが、北米に後退してもそれらの地域の政治的安定には責任があると思う。

東アジアにおいても、日本を非武装化して国家の遺伝子を破壊しながら、出て行って欲しくないのなら金を出せという、トランプ氏の言いがかりは厚かましい。講和条約後に日米安保条約という形で日本の再軍備を抑え込んだのは米国である。

日本は、一旦「再軍備しない独立国」という甘い道を歩み始めたとき、太平洋戦争のときの徴兵制が悪夢であったと、結論付けをしてしまったと思う。麻薬を与えて知らぬ顔は卑怯である。

朝鮮戦争のときに米国から再軍備の圧力があったが、それは米国支配下の日本軍創設の圧力であり、それには消極的になるのは無理ないだろう。その後も、米国支配下の日本軍以外は作らせない方針を採ってきたと思う。それは、北朝鮮が核実験をしたときに、ライス国務長官(当時)が慌てて飛んできて、日本に核武装させないように動いたことが証明している。もちろん、日本の防衛遺伝子は完全に破壊されているので、ライス氏は慌てる必要などなかったのだが、万が一を警戒したのだろう。

トランプ氏の日本に対する「核兵器保持容認宣言」など、真面目にとってはダメである。日本に核装備させないのは、ニクソン大統領の時代から中国と米国の間で話し合われている筈である。トランプ氏が大統領になれば、米国は中国との関係改善を図るだろう。それは、日本の東アジアでの孤立を意味する。はしごを外された形の安倍政権は、なすすべなく虚脱状態になるかもしれない。なぜなら、未だにTPPの批准を急いでいるようだから。

尖閣はその時点で中国に占領されると思う。そして、韓国は再び中国の手下になり、日本をいじめる役割を担うだろう。そのような状態に日本がならない為には、政権が交代して、少なくとも中国敵視政策を取らない(親中姿勢をとる)政権による憲法改正が必要だと思う。ロシアとインドとの関係を深めることも大事だろうが、次の問題だと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=nFFZdQ7-4yM を見ればわかるように、プーチン大統領はまともなことを言っている。ISISにトヨタの車が大量に用いられていたが、それはアメリカから流れた可能性が高い。http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3872.html また、ウクライナ問題も、米国がウクライナで反政府勢力を扇動してクーデターを起こさせたという説が有力である。それがなかったのなら、クリミヤ独立とロシアへの合併は起こらなかっただろう。

米国は、自由と民主主義などの理想論を、アラブや北アフリカの元独裁国に振り撒き、混乱したところで武器を売り込む商法で稼いできたのではないのか? その後始末を米国べったりの国々は、米国が逃げ去った後に分担させられる可能性がある。政治力のない国ほど、高い分担金を取られるだろう。

この世界で安定した位置を占める為には、米国が後退するのなら、それに対応できる政権に代わるべきである。もちろん、米国を第一の友邦と位置付ける姿勢は形だけでもとるべきであるが、より対等に近い姿勢が取れなければ、米国の対中国戦略における捨て駒にされる可能性が高い。世界の全ての国々は、表では立派なことを言いながら、水面下で汚く自国の利権の為に動いている。

因みに、最近厄介者の英国が出て行くのを幸いとして、EUがNATOの支配下でない軍事的連携(EU軍)を作ろうとしているという。世界は刻々と生き残りの戦略を立てている。

以上、素人の戯言を書いた。反論してくださればと思います。

2016年7月21日木曜日

日本は失敗に学ぶことができない国である:太平洋戦争敗戦の理由の一つ

1)日本は情報分析が苦手な国である。
人も国も、行動の基本パターンは、「情報を得て解析し、それに基づいて戦略や戦術を立てて行動する」というものである。全ての行動を、「戦いとそれにおける勝敗」でモデル化し、「蓄積した勝利の成果の合計」でその人や国を評価するのがわかりやすい。この情報の分析と伝達において、日本は大変弱い国であると思う。その根本原因の一つに、“この世界の事象”に対する理解の広がりと深みにおいて、西欧に劣っていることがあると思う。世界の理解の際に必要な多くの概念は、西欧との交流の際に輸入された。情報という言葉も、明治時代に新たに作られたのである。(補足1)

出来事や物が存在しても、それをそのまま伝達できない場合がほとんどなので、言葉にしなければならない。情報は“伝達すべき物や出来事を言葉へ変換したもの”である。その言葉にする段階で、言語の優劣が決定的に影響する。言語に信頼がある西欧と、言語の出来が悪く言語表現に信頼を置かない東アジアとで大差があると思う。つまり、西欧から多くの概念を輸入してもなお、東アジアでは情報化の段階、情報伝達の段階などにおいて障害を生じやすいのである。

2)太平洋戦争で、日本は適切な戦況分析とそれを生かした戦術が立てられなかったのでは: 
たとえば、日米戦争で勝敗の分かれ目として言及されるミッドウエー海戦において、日本海軍は4隻の空母(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を撃沈され大敗したが、それは陸軍には知らされていなかったという(補足2)。その大敗の原因は、南雲長官の采配ミスだったという説がある。しかし、その采配に関する評価も、そして南雲長官自身の評価も全く出来ていない(補足3)。失敗や成功から何も学ぶことができないのである。日本に、情報処理能力において根本的な弱点がある証拠の一つだと思う(補足4)。

陸軍も海軍も日本の勝利のために協力する気持ちは当然ある。しかし、その目的を共有する仲間に自分の失敗を隠す様では、相手に勝てる筈がない。その失敗を今後の戦術に生かすことが出来ないこと、従って失敗を知らせることが仲間から信頼を失うというマイナスの効果しかないこと、などが軍令部には分かっていたのである。失敗を分析し解析し、そこから敵の能力や弱点を見出すということを最初から考えていないのではないだろうか。

最後に蛇足であるが: 仕事において成功や失敗について、評価解析が出来ない社会では、すべての人事はその社会に入った時の成績などできまる。つまり、人の能力に対する評価が高校3年生での成績で決まる。同様に、海軍兵学校の卒業席次が、その後の海軍での出世を、大きなミスがない限り決定するのである。それでは失敗から教訓など得られる筈がない。

補足:
1)有益な解説として次のサイトを紹介したい。 http://www.ncn-t.net/kunistok/1-1-chugoku%5Enihongo-.htm
2)これは「永遠のゼロ」に書いてあった。またネット検索によると、保坂正康「東条英機と天皇の時代(下)の49頁にその記術がある。
3)南雲長官の真珠湾での指揮(第三波攻撃を行わなかったこと)に問題があると、書かれている記事も多い。また、レイテ沖海戦での栗田長官の謎のU-ターンも、ミッドウエーでの輸送船置き去り事件などで、栗田長官の評価が正しく行われていれば防げたかもしれない。
4)「成功と失敗の評価と情報化なんて関係ないだろう」という反論があるかもしれない。しかし、それは全くの間違いである。負けたのが失敗ではない。失敗したから負けたのである。では何故失敗したのか?それを明らかにすることは、自分と相手の能力の解析と数値化など、情報の世界の作業である。

2016年7月20日水曜日

『鶴瓶の家族に乾杯』が前提とする人間関係:個人の自立

「家族に乾杯」はNHKの人気番組である。鶴瓶師匠とゲストの二人が田舎を訪問して、人々の生活の様子をリポートする。そこでは、鶴瓶師匠の親しみ易い話し方により、田舎に住む人も心理的な殻を脱いで、古くからの友人の様に師匠に接することになる。田舎の風景や暮らし、鶴瓶師匠と田舎の人との会話などにより、視聴者にノスタルジックな気分を提供する番組だと思う。

この番組のあり方は、日本では大体どこでも通用するが、一度カナダかどこか外国で試みたことがある。そこでは鶴瓶師匠の技は通用しなかった。大きな60代くらいの男性が、鶴瓶師匠を子供扱いするようなことになったと記憶している。

鶴瓶師匠の親しみある人柄と巧みな会話術は、互いの個人の壁を取り除いて、まるで子供時代からの友達のような雰囲気(空気)を短時間に醸成するのである。しかし、それは容易に子供時代の付き合いに戻ることのできる日本に限られるのではないだろうか。個人の壁が明確に出来上がっている欧米では通用しないのだと、その時思った。

その仮説を示す例はないかと考えた時、鶴瓶師匠の活躍する上方の漫才や昔観ていた吉本新喜劇を思い出した。20歳くらいまでは全く変には思わなかったが、40歳すぎた頃から、上方漫才でよく見られる仕草が奇異に見えてきた。それは、相方の頭を平手打ちすることである。これは子供時代の戯れ合いと相似であると思う。欧米では、芸の世界と雖もありえないと思う。それを受け入れる独特の土壌が日本にあるのではと思った。

それを証明するかもしれないのは、会社員の仕事が終ったあとの飲み会である。参加者は、アルコールにより着けている心の上着を一枚脱ぎ、しばらくは子供時代の人間関係を疑似体験するのではないだろうか。私は、このような人間関係は一神教の国にはないと思っている。

つまり、日本では個人の壁が完全に出来上がらずに成人となるのではないだろうか。勿論、欧米のように個人の壁が出来上がっても、人は尚共有する空間の中で生きる。その共有空間は各グループ特有の私的な空間から、パブリック(公共の)な空間になるのだと思う。そして、その空間を支配するのは、真実、論理、ルールである。

追加:
先日最高裁で、会社の飲み会後の事故を労災と認める判決があった。http://www.scienceplus2ch.com/archives/5244243.html これは非常に愚かな判決だと思う。最高裁は、実情に流される判断をすると、国家が無節操な方向に流れてしまう可能性が高くなる。典型的な例は、自衛隊の合憲判決である。どう考えようと、戦車、戦闘機、迎撃ミサイルなどを持つ自衛隊は軍事力に当たり、憲法9条第二項は明確にその保持を禁止している。従って、憲法改正を阻止してきたのは、最高裁である。

言語がまともに解釈されない国に、まともな公共空間などできるわけがない。人々は私的な集まりを重視し、公共という概念など辞書の中だけにのこるだろう。(7/21:15:30)

2016年7月19日火曜日

百田尚樹著「永遠のゼロ」の感想(1)

1)百田尚樹著「永遠のゼロ」を読んだ。面白く且つ勉強になる本である。航空兵として戦争に参加した祖父宮部久蔵の足跡を孫(姉弟、佐伯健太郎と佐伯慶子)が追う形で、太平洋での日米海軍の戦いの実相に迫る作品である。航空兵だった宮部の日本人離れした特異な人格と天才的な戦闘機操縦技術などに加えて、ストーリーが現実性に欠けることが気にはなったが、宮部と接触した戦友や部下などの語る日米交戦の様子は詳細且つリアルであり、最後まで興味をもって読むことができた。

戦争の真実に迫るには、マクロなデータを追うだけではなくほとんど不可能である。個々の兵士がどういう思いで戦闘に参加したか、その戦いぶりはどの様であったか、戦場の現場はどのように見えたか、指揮官の命令を現場ではどう考えたかなど、ミクロな視点での解析が、日本本土の軍令部や参謀本部などの実態を知る上でも必須であると思う。それは例えれば、海のレベルがわからなければ、山の形容は不可能であるのと同様である。

ストーリーはこの戦争の実態に迫る具体的な話をつなぐ為のものであり、主なるテーマではないと思う。この本では、全体として閉じたストーリーを完璧にある枠の中に入れ込んでいる。そのため、あまりにも非現実的となり、大衆文学的臭いが嫌いな人は引っかかるだろう。ただ、それが理由でこの小説を忌避するのはあまりにも勿体無いと思う。米国のある水兵の語りとして書かれた、プロローグとエピローグ(補足1)は、この小説の外から見た景色が描かれている。

カミカゼ特攻隊員の心理や家族に対する愛情、戦場における異常な心理などについては別途書く予定である。

2)この小説で著者が強調したかったのは、日米で戦争の戦い方に大差があったことだろう。日本は敵を攻撃することを中心に戦闘機などの設計や兵士の戦い方を考え、防御に関してはあまり配慮する気持ちがなかった。例えば、日本の0戦は軽く航続距離の長い機動力に富んだ戦闘機として設計されていたが、搭乗員を銃弾から守る防御板は薄く、小隊内の連絡さえ満足にできない無線しかなかった。

一方、米国は戦争を、作戦、攻撃、防御、補給、開発など多面的に捉える論理或いは文化があった。戦闘機のグラマンは搭乗員を銃弾から守る防御板は分厚く作られていたし、飛行機から脱出した兵士は出来るだけ救助する体制を敷いて戦闘に臨んだ。そして撃墜され生き残った搭乗員は、貴重な反省のための情報をもたらし、且つ、再び熟練した搭乗員となって復帰した。その結果、1943年に開発され配備されたグラマンF6Fの攻撃性能は0戦を凌いでいた。更に、空母等の戦闘機に対する迎撃性能も近接信管(VT信管)などの開発で、戦闘能力は格段に進歩し、日本を圧倒した。

その進歩する米軍兵力に対抗するべく始められたのが、情けないことに桜花などを用いた特別攻撃隊(カミカゼアタック)である。この種の肉弾攻撃は、上海事変のときの爆弾三勇士や、真珠湾攻撃のときの特殊潜航艇での攻撃(甲標的9軍神)で既に行われており、特攻はそれを大規模組織的に行う作戦である。米兵はそれをBAKA Bomb(バカ爆弾)と呼んでいたことから、その攻撃効果は明らかである。

最初から兵士に対する扱いに大差があった。熟練した兵士でも撃ち落とされる時がある。上述のように米軍は、海上に不時着した場合でも艦船で救助することに周到な準備をした。それは、熟練搭乗員の価値を米軍は正確に把握していたことを意味している。それに対して、日本軍は熟練した兵士の価値を軽視し、消耗品のように使ってしまった。その結果開戦二年後の日本海軍では、空母からの発艦はできても着艦が満足にできない航空兵が、戦地に赴くような情況にまで戦闘機搭乗員の質が劣化した。サイパンで彼らが米艦隊を攻撃する際、米兵は特攻兵を擁した編隊を「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するように、撃ち落としたのである。

3)無能な将官たち:
また、兵を消耗品扱いして無駄死にさせる軍令部の将官は、いざ自分が艦隊の指揮に当たる際には非常に弱気となった。真珠湾で第三波攻撃をして無傷の米軍輸送船を撃沈しておけば、戦いはもっと別の進行をしたであろうと言われる。しかし、南雲中将は敵の反撃を恐れて退却した。また、レイテ島での戦いでは、米機動部隊を空母が外海へおびき出す作戦に成功したが、戦艦武蔵や大和を擁した艦隊を指揮する栗田長官は「謎の反転」をして逃げ帰った。栗田長官には、ミッドウエイ海戦のときにも同様に逃げ帰った前歴があった。

幹部の実力のなさについて、調査にあたった孫たちの語りとして指摘されている。その原因の一つに、海軍での幹部兵の出世は、大きなミスがなければ海軍兵学校の卒業時の席次で決まるという人事面の構造がある。「戦争という予測不可能な情況に対する指揮官が、ペーパーテストの成績で決められる」のである。それがそのまま、日本海軍の弱点となったことに軍令部の幹部は関心を寄せるほど優秀ではなかったのだろう。

国家は多層の階級構造をもっている。その階層への人材の配分は、日本では教育機関を出た時に決められ、その後の昇格などの人事移動はプログラムされたもの以外はほとんどない。日本は、層状の身分社会であり、所謂出世は入口で決まる社会である。(補足2)日本軍の場合も全く同じであり、兵から入ったものは下士官以上には絶対になれない。海軍兵学校出身の士官は、操縦技術や空戦技術で叩き上げの下士官にかなう訳がない。しかし、中隊以上の編隊を組む分隊長の指揮官には兵学校での士官がなる。実際には、経験豊富な下士官の搭乗員の方が腕も判断力もあるのにである。

海軍兵学校の成績優秀者など幹部候補生の世界は狭い世界であり、ミスはなるべく表面に出ないように仲良く互いに庇い合うのである。大きなミスさえしなければ、学校の卒業時に示された能力が最後まで順位付けの根拠となる。それは、現在の官僚社会と全く同じである。この人事における層状構造が、下士官以下の兵士を消耗品と考える原因である。

以上が、「永遠の0」から学んだ日米の太平洋海戦の実相である。

補足:
1)プロローグでは、開戦から2年程の間の零戦との戦いの変化を書いている。開戦当初は熟練パイロットが乗ったゼロ戦は魔王のような恐ろしさがあったが、2年程たったマリアナ海での戦いのときには、ゼロ戦は新人パイロットの操縦するカミカゼとなっており、まるでクレー射撃のクレーのようなものだった。しかし、「標的は人間なのだ。もう来ないでくれ!何度そう思ったかわからない」という米兵の気持を書いている。その後2年あまり、日本は決定的な負けに向かってただ将兵や民間人の犠牲を積み上げるだけの戦いを続けるのである。
エピローグでは、主人公である宮部久蔵の乗ったゼロ戦による凄まじい特攻の様子が描かれている。屍体の上着のポケットから出てきた写真には、着物をきた女性の赤ん坊を抱いている姿が映っていた。敵味方に別れて殺し合いをする兵士であるが、等しく家族を愛する人間である。艦長は、その高い技術を持った勇ましい兵士に敬意を抱いて、水葬で葬ることを命令する。

2)この入り口社会になる理由は、門に入ったのちの競争は個人間や派閥間の足の引っ張り合いを生じ、全体として組織の力を落とすことに繋がるからだろう。それは、日本社会では個人が自立していないため、個人の客観評価が組織内でできないのが原因である。組織外から個人評価をするのは、専門的知識の欠如や現場に目が届かないなどの理由で一般に困難である。

2016年7月18日月曜日

有力な意見を一つしか持てない日本の悪い文化

日本では、中心となる勢力の意見が唯一正当性を持つ考えである。それで日本全体が一致団結しなければならない。そこから外れる人間は非国民となる。

昨日の「そこまで言って委員会」で、中国がテーマになっていた。日本人コメンテーターは、AIIBの失敗や中国経済の崩壊のシナリオを、中途半端な知識しか持たないくせに宗教の様に信じている。それは日本の正当な予測だからである。唯一ゲストの中国人実業家の宗文州氏の話に説得力があった。“中国経済は発展鈍化するが、健全であり崩壊しない。それは、経済の中心は共産党政府ではなく、たくましい中国人個々の活動により支えられているからである”というのである。

その考えに沿って、成長が鈍化する直前に中国株を売り払い、今年5-6月に買い戻したという。「皆さんと違って、僕は喋るのが仕事ではない。自分のお金で投資して、稼ぐのが仕事である。視聴者の皆さんは、僕の言ったことを記憶して検証してほしい。」と発言した。番組の中ではこの強烈なパンチとでも云うべき宋氏の言葉はコメンテーターの中に何の反響も呼ばなかった。そして、コメンテーターにはなんの反駁能力もないことが、その後の番組の流れが証明していた。この正鵠を得た意見を取り込むことを、日本の事情が許さないようである。(補足1)

日本では、中国は敵対国であるから、“その経済や政体が崩壊することが好ましい”という希望的観測が、主なる勢力の方向を向いた人々の間で反響して、“その経済や政体は崩壊する”に変化するのである。この希望的観測が現実的観測に変化する現象は、中国問題だけにあてはまるのではなく、日本の(政治)文化そのものである(補足2)。また、その前提である“中国は敵対国である”も同様に、日本の中で(より正確には、米国支配下の日本の中で)、醸成された精製された政治テーゼの可能性が高いことに、人々は気づいていない。

西欧の多くの国では、常に正解を挟んで選択肢を二つ以上置く。プラトンなどギリシャ文明からの伝統かもしれないが、一人では正解に近づけないことを西欧文明は知っているのである。日本では対立する意見は、メジャーな勢力が抹殺するのが常である(補足3)。再び中国問題に戻って例をあげれば、AIIBの顧問になる予定の鳩山由紀夫氏は、お笑いの種である。その意見を一度は真面目に聞こうとする人も番組もメジャーな勢力の中には全くない。笑うのは、意見を聞いてからでも遅くはない。

補足:
1)この意見を番組ではほとんど無視することで、コメンテーター達の名誉をかばった。辛抱氏は当否を知りつつ、日本の主なる勢力の分析を守ったのである。この番組が面白くなくなった理由の一つは、この司会者が番組を支配する放送局重鎮の意向に従順だからだろう。
2)古い例を挙げる:真珠湾攻撃は一部成功であり一部失敗であった。この失敗部分は、メジャーな勢力が好まないために忘れ去られた。真珠湾には空母は一隻も居なかったのである。しかし、真珠湾で大勝した日本は破竹の勢いで進むという希望的観測が日本を支配した。その希望的観測は虚しく、ミッドウエイで4隻の空母を失う大敗をする。しかし、ミッドウエイでの大敗は当初陸軍には知らされなかった。(「永遠のゼロ」より)
3)20世紀の初め、美術界は黒田清輝が支配したようだ。昨日の日曜美術館では、吉田博の版画が黒田清輝の支配する日本美術界で受け入れられなかったという話があった。以前、フランスで有名なレオナールフジタ(藤田嗣治)が帰国しても黒田清輝の支配する美術界に受け入れられず、再びフランスに戻ったという話を聞いた。独裁がこの国の文化のようである。

2016年7月16日土曜日

安倍総理は、仲裁裁判所の判断をネタに中国を攻撃しない方が賢明ではないのか?

オランダのハーグにある常設仲裁裁判所(PCA)が、フィリピンの訴えを受けて、中国が南シナ海で岩礁を埋め立てて島とし、その領有権を主張することに法的根拠はないと判決した。これに対し、中国は無視する考えをアナウンスした。その上で、フィリピンの新しい政権との話し合いをする意向を示している。この件、国連のパンギブン事務総長も、二国間の話し合いで解決すべきとのコメントを出した。

この国連事務総長のコメントに怒りの動画を出したひとがいる。https://www.youtube.com/watch?v=aPgpYeYALEY また、以下の動画も同様の主張をしている。https://www.youtube.com/watch?v=DqmdhxLW1ZA 私も最初は、これらの意見と全く同じ意見をもったが、それはPCAと国連の司法機関である国際司法裁判所(ICJ)とを混同したからである。

常設仲裁裁判所は、同じハーグの平和宮(The PeacePalace)の中に入っているが、ICJとは別の機関である。国連とは無関係の機関が出した判断だと考えると、パンギブン国連事務総長のコメントはノーマルなものに聞こえる。そして、上記動画での怒りのコメントは行き場を失うだろう。

PCAは二国間の紛争の仲裁のための機関であるから、他国がそれを国際司法裁判所の判決のように考えて、中国を攻撃するのには違和感がある。そしてそのような行為は、中国政府からは門外漢のイチャモンと受け取られても仕方ないかもしれない(補足1)。アジア欧州会議で安倍総理が李克強首相との会談で、常設仲裁裁判所の判決を受け入れるべきだと声高に言うのは、第三者(他国)が何かを言う資格がないのを承知の上で、米国の提灯持ちをしているのだろうか?

英語のサイトだが、inquirer netというところでは、PCAとICJなどと、平和宮(the peace palace)との関係について書いている。平和宮そのものはカーネギー財団が運営しているとのことである。そこでも、西側の報道では、常設仲裁裁判所(PCA)と国連の国際司法裁判所(theUN’s International Court of Justice ;ICJ)を混同する場合が多いと指摘している. http://globalnation.inquirer.net/141125/arbitral-court-not-a-un-agency

とにかく、安倍総理には日本が根拠のない行為で中国との関係を悪くして、結果として日本国民が損をすることのないようにしてほしい(補足1)。また、マスコミにはマスゴミと言われることが多いのであまり期待はしていないが、できれば期待を回復するように、このような紛らわしいケース(同じハーグの平和宮にあるが、機能も権威も全くことなるPCAとICJの違いなど)は、あらかじめしっかりと説明してほしい。
        (12:00編集)
補足:
1)もちろん国際機関の出した判決だから、中国は従うべきである。従わずに何の平和的合意をフィリピンと構築できないのならば、中国の国際的評判が落ちるだろう。しかし、100%判決を受け入れるのではない形でも、フィリピンと合意すれば、それについて何かを言う資格は他国にないと思う。
2)つまり、軍事力ない国は、大きなことを言わない方が怪我をしないで済む。外交は、論理や原則ではなく、現実を重視して行ってほしい。したがって、日本が一定の軍事力と、それをManageする政治力をつけることが大事だが、それまでは米国にその役割をしてもらう(させる)べきである。

2016年7月15日金曜日

天皇陛下の退位の意思表明について

昨日のテレビ報道や今日の新聞報道により、天皇陛下が退位の意向をお持ちだという情報が流されている。例えば、読売新聞15日朝刊一面、天皇陛下・体力考慮「退位」に関心というタイトルの記事では: “「生前退位」の意向を持たれている天皇陛下が、加齢による体力面の問題でこれまで通りの活動を続けることが難しくなるなか、退位という考え方に関心を示されていたことが、関係者の話でわかった。”という文章にはじまり、天皇陛下による退位の意向が、動機を含めて詳細に関係者の話として書かれている。

しかし、最後の方で:“14日夕の記者会見で宮内庁長官は、「陛下が生前退位の意向を宮内庁関係者に伝えられたという事実はない」と説明した。”と書かれている。

また、別の“政府慎重に対応”というタイトルと、“「有識者会議で議論」案”というサブタイトルのカラムにおいて:“政府は天皇陛下の「生前退位」の意向を踏まえ、皇室典範の改正など対応策の検討を進めていく方針だ”と明確に政府の意志を書いている。

しかし、これも終わりの方で: “菅官房長官は記者会見で「宮内庁でそうした事実はないと言っている」と話すにとどめた。政府関係者が沈静化を図ったのは、憲法が天皇について「国政に関する機能を有しない」と定めており、「天皇陛下の意思を受けて政府が改正を検討すれば問題視される恐れもある」との懸念があるからだ。”
という具合に否定しているのか何なのか訳のわからない文章を書いている。

いったいこれはどうしたことなのか? 政府は官房長官が、「宮内庁長官はそのような話はない」と言っていると発表しているのにも拘らず、宮内庁の別のルートが天皇の意思を聞いて、それを別の内閣官房に伝えて、皇室典範の改正を「有識者会議」で意見を聞いた上で進めるようなのだ。いったい、この国の政治権力はどこにあるのか? 憲法の規定はおまじないの台詞にすぎないのか?

この件について、佐藤優氏が“日本の民主主義の危うさ、マスコミのレベルの低さ”として解説されているので、引用する。 https://www.youtube.com/watch?v=Tkxu3I8r_Hk

東京都民には鳥越俊太郎氏に投票してほしくない

東京都知事選挙(補足1)に過去最多の21人が立候補した。その中で、鳥越俊太郎、増田寛也、小池百合子の3名のうちから当選者が出るというのが、ほぼ一致した見方だろう。宇都宮氏の辞退により、鳥越氏が当選する確率が非常に高まったと思う。宇都宮氏の土壇場での辞退は、与党側に候補の一本化をさせないで、野党側のみ一本化するための戦略だったのではないだろうか。

東京は非常に鬱陶しいことになるように思う。昨日のBSフジプライムニュースを見たが、鳥越氏は国政の問題を意図的に都政という地方行政に持ち込もうとしている。そして、安倍政権の全面的非難と言えるような言葉を口にしていた。憲法改正に関する懸念や集団的自衛権行使を可能にした法整備に反対する(補足2)他、安倍政権の経済政策に対しても批判的であり、それ以外の都政上の諸案件は付け足しのように見えた。増田氏は、そのようなことは“国政の場で議論すべきでしょう”と正論で応じていたのだが。。。

現在沖縄県と国との間の溝が益々大きくなっており、世界の政治が流動的になっている今、その溝を埋めることが政府の最重要課題の一つであると思う。沖縄県の場合は、先の大戦で地上戦が行われた唯一の県であることや、現在の米軍基地の負担が異常に高いなど、地理的歴史的な特殊事情が重なっている。その対策にエネルギーを注ぎ込むのは国家の当然の仕事であり、対策の方向も非常に困難ではあるが見えていると思う。

その様な状況に加えて、東京都のトップが国政へネガティブなアナウンスを頻繁に国内外に向けて行うとしたら、そしてそれを外国が利用することになれば、現在の政権にとって難題が一つ増えるのではないだろうか。例えば、米国の支配下にある横田基地を中心とした空域の返還要求、オスプレイの配備反対など、政府に持ち出す問題はどこからでも作ることができる。本来の目的は憲法9条を守ることであり、集団的自衛権行使反対なのである。本来の目的とずれたところで問題提起される場合、それは嫌がらせであり解決不可能である。

困った有力候補が残ったものである。民主主義の限界が、米国、英国、そして、日本で顕在化してきたように見える。男性に人材がいなければ英国のように女性が頑張るしかないのではないか。英国の新しいメイ首相(鉄の女二世)は、自信満々にあのジョンソン氏を外相にして世界をびっくりさせた。英国はさすがだと思う。

補足:
1)鳥越氏は都政と国政をごちゃ混ぜにしている。したがって、都民以外も都知事選挙に干渉しても良いはずである。
2)鳥越氏は、“従来政権が違憲だと言ってきた集団的自衛権行使を、国民の意見を聞くことなく可能にしたのは、おかしい”と、「集団的自衛権行使を争点にした総選挙をすべきだった」という趣旨の発言をしている。しかし、ある一つの政策を争点に総選挙することは、間接民主主義の原則に反する。小泉政権の行った郵政解散もその点は同じである。その危険性は、先ほど英国での国民投票で確認したばかりである。鳥越氏は何もわかっていない。“どこの国が攻めてくるというのですか”というトンチンカンな鳥越氏の発言も、政治家の器ではないことを証明している。セオドアルーズベルトのBig Stick Policyなんて聞いたこともないのだろう。

2016年7月13日水曜日

自民党東京都議連という恐ろしい政治団体

産経ニュースによると、自民党東京都連は、都知事選において小池百合子氏を応援した場合、除名の対象とするという通達を出した。 http://www.sankei.com/politics/news/160713/plt1607130024-n1.html  今日13日のテレビ番組ゴゴスマでも、その通達書のコピーを画面にだし紹介していた。そこには家族が小池百合子氏を応援した場合も、除名の対象となると書かれていた。 この通達は、「政治活動における個人の自由」を認めない、前近代的内容のものである。

家族という文字がなくても、この通達は問題である。今回の場合、小池氏は自民党の議員であり、増田氏と基本的な政治姿勢に差はない筈である。従って、政治思想や政策が自民党にふさわしくない人を応援したので除名するというケースにはなり得ない。都議連執行部の小池氏に対する私怨が、この通達に反映しているとしか思えない。

東京都議連とはなんの組織なのか? 
政治行動における個人の独立は民主主義の原点である。従って、議員連合という集まりは、政治思想が似た人たちの親睦のための団体であるべきであり、個々の政治行動にまで干渉するような集まりであってはならない筈だ(補足1)。例えば、米国連邦議会では民主党も共和党も、投票の段階では党がしばりをかけることはない。それが民主主義の政党としてあるべき姿だと思う。

小池氏が、自民党都議連に相談なく立候補を決めたことについて、自民党都議連からルール違反だと非難された。しかし、立候補は個人の判断でするものであり、相談して許可を得なければならないというのは、おかしい。
石原伸晃都連会長は、独裁者なのか? その取り巻きは、独裁者に阿る人間のあつまりなのか。 

「ゴゴスマ」でも東国原氏が、その組織のルールということばを用いて小池氏にも責任の一端があると発言していた。その様な意見は、組織自体が民主政治にふさわしいかどうかを考えてから出すべきであると思う。

組織の許可を得て(通知をして)立候補するのは、組織の支援を得たい場合に限られるべきである。従って、立候補の通知あるいは相談をしなかった場合の制裁として、最大のものは”組織として応援できない”ということだと思う。この“立候補の際に通知しなかった”件については、小池氏は東京都議連に進退伺を提出しているのであるから、十分対応すみだと思う。それ以上の縛りを組織が行うのは、ヤクザの組織ならともかく、現代の政治団体のすることとは思えない。

追加であるが:
今回のような政策に関してテレビの前で議論を行うのは非常に良いことだが、議論だけで終わっては何にもならない。例えば8000人の待機児童解消などと言っても、そして其のためのアイデアを思いつきで出しても、最終的に結果を出さなければ何にもならない。知事在任中の業績評価、及び立候補時点での公約との対応関係などを、任期終了後に情報公開すべきである。それらがなければ、知事としてのビジョンと行政手腕とについて投票前にテレビ等で議論しても何にもならないと思う。

2016年7月12日火曜日

鳥越俊太郎氏は何のために東京都知事選に立候補するのか?

鳥越氏の都知事選立候補の会見をテレビでみた。参議院選挙で改憲派とみなされる人たちが2/3を占めたので、東京都知事選に急遽立候補を決めたそうである。

「戦後70年平和な時代を過ごしたが、そろそろそのような話が出てくると思う。」「都知事選挙であるから、国政の問題を議論するということはないが、改憲反対の意思を反射として起こしたい」というような発言があった。

この反射という言葉の意味が非常にわかりにくい。しかし、鳥越氏の意図は明白である。つまり、”憲法改正に反対する”とアナウンスする立場として、東京都知事という椅子を利用したい”ということである。なんという動機不純の立候補だろうか。

その動機との関連で、 「改憲の問題については何もすることはできないが、現在中国なり韓国なりとの関係がギクシャクしていることを考え、首都東京として、それらの国の市民と交流などやれるかもしれないので、そのようなことも考えている。」つまり、日本の首都東京の都市間交流のなかで、憲法改正に反対するということだろう。

鳥越氏の憲法に関する見方は、「日本の平和の必要条件(あるいは必要十分条件)は、憲法9条を含む”平和憲法”を維持することである」という考えだと思われる。まあ、毎日新聞社元記者なら当然かもしれないが。

その動機以外については、ほとんど何の考えもないようだ。都知事選の争点をどう考えますか?という質問にたいしては、「未だ残念ながら自民党の方々の公約を読んでいない。関心がなかったからあまり読んでない。どこに自分の考えと違いがあるのかは読んでから考えたい。」とおっしゃる。

「争点になるかどうかわからないが、政策として将来に対する不安、年金、介護、育児などの問題を考えたい。2025年以降日本は大介護時代に入る。果たして今のような政策でうまくいくのか?自治体としてもそのような問題を考えて先手を打っていくということは大事である。」この将来への不安は、だれもが言うことであり、選挙戦の争点にはならないことは明らか。五輪についても「予算を抑える方向でやりたい」というのも、大方共通だろう。

舛添氏の決めた都営地の韓国人学校への貸し出しについては、「具体的には詳細を知らないので明確には答えられない。しかるべく都民の方に納得していただけるような策を立てる」 と仰っている。舛添都政上で最も話題になった大きな問題についても、何もご存知ないのである。

その一方、 「横田基地へのオスプレイの配置については、基本的には危険な飛行物体であると考えているので、出来るだけオスプレイの飛行は控えてもらいたいと考えている。更に、横田基地周辺の航空管制も日本に取り返す方向を希望する」とおっしゃる。

①改憲には反対である、②横田基地でのオスプレイ配備はなるべくやめてほしい、③横田基地周辺の航空管制を日本に返還してほしいなど、すべてほとんど国政の問題ではないのか。そのほかは、今から考えたいというのが、鳥越氏の東京都知事選出馬改憲の言葉であった。

このような動機不純で立候補した候補に一票を入れるほど、東京都民はXXなのだろうか?

2016年7月8日金曜日

イスラム教徒はイスラム教原理主義の里の近くに住んでいる様に見える。それは偏見だろうか?

1)ダッカでのテロリストは、 裕福な家庭の出身で、大学にも通っていたという。貧しいからとか、現状に死ぬほどの不満があるからという理由で、テロリストになったわけではない。そして、非イスラム教徒という理由だけで、日本人7名を含む人質を凄惨な殺し方で殺害したという。非常に腹立たしく、ショッキングな事件である。(補足1)

彼ら犯人は、勉強できる自由な身分にあり、バイアスを持たず真剣に社会、歴史、そして政治を考えた結果、テロリストになったのである。イスラム教の経典に書かれていることに最高の価値を置き、それに従う形でテロリストになったのなら、それは現在のイスラム教徒の本質からの行動ではないのか?
「一般のイスラム教徒は全く関係がない」というのがよく聞くセリフであるが、それをそのまま受け入れるのは愚かなことではないのか? そう考えて、この数日考えた。

キリスト教も昔、現代文明の基礎である科学を弾圧した。地球は太陽の周りを回ってなんかいない、人間は猿のような動物から進化したのではない、と真剣に主張するキリスト教徒は今でも少数いるだろう。なぜなら、世界の創造の様子は創世記に全て書かれていると信じているからである。そして彼らは、現代文明にどっぷり使っている人を無知なる人たちと考えている。(補足2) 

あのバングラデシュのダッカでテロリストに殺された日本人は、コーランを暗唱できなかったことで殺された。それは、「人間は進化したのか、神により神の形につくられたのか、どっちだ、答えろ」と問われ、「進化したのです」と答えて殺されたようなものである。それは異教徒への攻撃であり、現代文明の否定であり、差別の究極の姿である。 

2)攻撃は多くの場合、防衛を理由に行われる。おそらく、今回のテロも健全であったイスラム社会を、進出してくる健全でない非イスラム文明から防衛するという意図で行われたのだろう。イスラム教徒の生活は聖典にしたがって正確に行われていると思う。一年に一度のラマダン、1日数回の聖地の方向へ向かっての祈り、それに女性が顔などを隠して外出するなどである。

過激派は、これ以上の欧米文明のイスラム圏への進出、それによるその敬虔なイスラム教徒の生活の変質を恐れているのだと思う。それは、一般のイスラム教徒も同様に薄々感じていることではないだろうか。我々は各人が好みのスタイルで生活するのが、現在社会の常識であると“信じている”。豊かでありさえすれば、そして、貧しい国を豊かにすれば感謝されると勘違いしているのではないか? イスラム教徒は、違うものを求めているのかもしれないと考える想像力が必要だと思う。

もしイスラム圏の人たちを日本に受け入れるのなら、”世俗の堕落した日本社会”に安定して住めるかどうかを精査すべきである。つまり、敬虔に聖典を信じ、日々の生活の隅々まで聖典にしたがって暮らしているイスラム圏の人たちに近づく場合は、敬意をもって慎重にすべきではないのか。単に「豊かにするお手伝いをするのだから感謝されてしかるべきだ」というのは、堕落した現代文明社会になれた我々の傲慢ではないのか。 

キリスト教徒の多くは、文明社会を受け入れる段階でキリスト教原理主義を故郷として、自分の非活性な遺伝子或いはルーツとしている。イスラム教徒はイスラム教原理主義の里の近くに、現在も住んでいる様に見える。

  補足:
1)この事件に対するコメントが宮家邦彦氏の動画で公開されている。その中で宮家氏は、イスラム教徒といっても極端な人の犯行だといっている。極端な人といっても、優秀な方向で極端な人であれば、その思想そのものに我々が属する文化圏の人間と同居する上で問題を孕んでいると思うが、それには触れていない。https://www.youtube.com/watch?v=34A3i79ZQpU
2)進化論は仮説であり、真理とは言えない。太陽が地球の周りを回っているという主張も、座標系の取り方次第で、そう言っても良い。したがって、神を信じる人たちと現在文明を支える科学の研究者は、原理的には敵対するわけではない。別のものを信じる人たちが、それが原因で衝突するとき、敵対することになる。要するに、“信じる”という思考停止の状態に自分をおく人たちは恐ろしいのだ。

2016年7月7日木曜日

世界の多極化:米国の考えの通りに動くのは危険

1)米国中心の勢力圏の拡大とその崩壊のプロセスについて:
英国で始まった産業革命による経済規模の拡大は、20世紀にはリーダーを米国に引き継いで進行した。そのプロセスに関与した国々が、その拡大(経済規模及び地理的)する経済圏の中心となった。その米国中心の経済圏は、欧米から日本や韓国など東アジアから、中国、東南アジア、インドを包含し、中東へと広がっていき、グローバル化と呼ばれる様になった。その拡大プロセスは、先ず経済的活動範囲の拡大として起こり、それに引き続いて政治的な枠組みの拡大という形をとる。その際英米は、個人の自由と制定法による支配、三権分立の体制という政治文化の共有を、政治的な枠組みの基礎とした。

21世紀に入って、その欧米型政治経済の勢力圏が、中東などイスラム圏や中国など、より異質な文化圏へ拡大化する際に、経済的拡大は一定の範囲で進んだものの、政治的枠組みの拡大において問題が生じ、全体として非常に歪な境界領域を作ってしまったのではないだろうか(補足1)。その結果、この経済的発展を駆動力とするこの勢力圏拡大、更にこのグローバル化モデルそのものも頓挫してしまったのだと思う。それが米国大統領選挙におけるトランプ候補の出現や、英国のEU離脱、EUの危機として現れたと思う。

2)日本は世界における立ち位置を探るべき:
グローバル化モデルが、その核というべき米国で壊れ始めたことは、日本は新たに世界の中での立ち位置を考える契機としなければならないと思う。そこで大事なことは、原点から考えることである。つまり、「軍事力に優る国が地域を支配し、軍事力に劣る方は属国あるいは絶滅の運命を辿るという歴史の法則は、現在でも変わらない」ということを責任ある政治家は再確認すべきであると思う。

例えば、EUが出来たのは、上記欧米経済圏の拡大と並行して、米国と西ヨーロッパとの軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)が出来たからであり(補足2)、その本質的な関係は、NATOのホームページにある通りである。http://www.nato.int/cps/en/natohq/topics_49217.htm (補足3)

NATOは、飛び抜けた軍事力を持つ米国の通常及び核軍事力により、ヨーロッパを広くロシアの軍事的脅威から解放するために存在する。つまり、東欧を含めて米国の核の傘の下に置くことが目的であると思う。英国のEUからの脱退は、その枠組みの転換点になる可能性があると思う。(補足4)

このNATO-EUを中心とする欧米圏の端に、日本や韓国も位置すると思う。英米にとって歴史的背景も異質な日本を切り捨てることはいざとなれば容易である。その際、将来害をなさない方向を考えるだろう。それは、決して中国と連携させないということであると思う。

私は、中国やロシア、特に中国との敵対関係を明確にするのは得策ではないと思う。つまり、南シナ海での合同演習などで、中国に圧力をかけるという方向には、将来日本のとるべき道はないと思う。米国が太平洋西部から遠ざかりつつある現在、わざわざ日本が中国と敵対する方向で動くことを要求したとすれば、米国の策略であると考えるべきだと思う。

(7/7 15:30 編集;これは素人によるメモです批判等お願いします。)

補足:
1)“アラブの春”なども、好意的にみれば欧米の政治経済圏による、政治的枠組みの拡大のプロセスとみなされると思う。一方、悪意的にみれば、米国産軍共同体による企みということになる。
2)2度の世界大戦で荒廃したヨーロッパを想い、二度とこのような惨劇を招かぬようにヨーロッパ連合を作ったという。それは思想的な面であり、それを可能にしたエネルギーは経済圏の(経済規模及び地理的)拡大であると考える。何事も思想があっても、エネルギーがなければ実現しない。
3)Sharing strategic interests and facing the same challenges, NATO andthe European Union (EU) cooperate on issues of common interest and are workingside by side in crisis management, capability development and politicalconsultations. The EU is a unique and essential partner for NATO. The twoorganisations share a majority of members and have common values.
最後の2行:「EUはNATOにとって特別で本質的なパートナーである。二つの組織は、大多数のメンバーと価値を共有する。」はズバリ、それを言っている。
4)英米の、NATOの中での大きな役割を考えると、フランスやドイツは結局英国にたいして強い態度に出ないだろう。しかし、歴史の流れは変えられないだろうから、EU諸国はNATOに将来ほころびが来ないかどうか、考えなければならないだろうと思う。

2016年7月4日月曜日

イスラム自爆テロを考える:なぜ自爆できるのか?

最近、イスラムテロが多発している。7月1日の夜にはバングラデシュの首都ダッカで日本人7名を含めて20人が殺された。3日未明にはイラクの首都で自爆テロがあり、75人以上が殺された。ラマダンの季節にはテロが多くなるという。今年2016年のラマダンは、6月6日ころから7月5日ころだとウィキペディアに書かれている。

自爆テロがあった時によく報道されるのが、「テロはイスラム教でも許されない」とか「一般のイスラム教徒とは全く関係がない」という言葉である。私は正直言って、本当だろうか?と疑問を持つ。どのようにイスラム圏諸国の人々と付き合うべきなのだろうか。

1)今朝の読売新聞一面に、バングラデシュ自爆テロの犯人について書かれている。犯人らはバングラデシュのイスラム過激派組織、ジャマトウル・ムジャヒディン・バングラデシュ(JMB)のメンバーで、ほとんどが裕福な家庭に育ち、大学にも通っていたという。JMBは、イスラム法に基づく国家建設を目指して1998年に設立されたという。イスラム国による犯行声明が出されたものの、政府高官は「犯人たちはイスラム国との関係は全くない」というが、幾つかの証拠もあり無関係ではないようだ。(補足1)バングラデシュ政府が国内過激派とイスラム国との間の協力関係を否定するのは、今後の非イスラム圏諸国との経済的付き合いを考えてのことだろう。

彼らJMBメンバーが、自分たちの国をイスラム法に則って改革するのだという考えで活動しているのなら、標的は現政権となる。しかし、外国人が出入りするレストランを襲撃したのであるから、彼らの目は世界に向けられており、標的は非イスラムの人間だということになる。コーランを暗唱していない人間を殺していったということから、彼らの視点は明らかである。彼らは、今日の世界は堕落していて神の法からは程遠く、それを本来のイスラム法に則った形に戻すべきだと考えているのだろう。つまり、イスラム過激派JMBの攻撃対象を決める際の線引きは、イスラムと非イスラムの間である。

ここで大事なことは、自爆テロは十分な教育を受け、生活に困らない人たちにより引き起こされていることである。それは、神と人の間の契約を自分の命と引き換えにできる程度に固く信じるイスラム教過激派の人たちが、生活に困らない経済的状況と十分な教育環境の中で、つまり自由な環境で産まれたと言うことである。それは、イスラム教圏の国々とその国民は、そのような文化をオリジナルなものとして持っているということを意味している。

別の表現を用いれば、イスラム教圏では信者は聖典を中心にして生きているらしいということである(補足2)。その宗教との距離感で世界を大きく分ければ、仏教や儒教圏などエホバ神を信仰しない地域、キリスト教圏(&ユダヤ教圏)、イスラム教圏、の3つの領域となるだろう。

2)イスラム教の神もキリスト教の神も同じ神であるが、信者と神との距離感は大きく異なると思う。400年ほど前には、地動説を主張したガリレオは裁判にかけられ、有罪とされた。ダーウィンの進化論も未だにキリスト教信者には完全には受け入れられていない。しかし、ニーチェが「神は死んだ」と書いても、裁判にかけられなくなった。(補足3)つまり、キリスト教の聖職者や信者一般が現代科学技術文明を一応受け入れる迄に、400年という時間が流れたのである。それは、宗教的に見れば堕落の歴史だろうし、イスラム教圏は特にそう理解するだろう。

イスラム教圏では、進化論は国家のレベルで拒否されるケースも多い。http://matinoakari.net/news/item_31041.html その事実は、現在のイスラム文明圏が仮に”堕落”するとしても、数百年を要するということだろう。それまで、現在のキリスト教圏の西欧型文明に対する疑問や反発が、強く&濃く存在すると思う。

もう一つ例をあげれば、イスラム教圏では女性に対して、外出する場合には顔や体をベールで隠すことを強要する。我々日本人の目には、この女性の服装は異様に映る。同様にイスラム教国の人たちの目に、肌を露出してミニスカートで街を闊歩する若い女性の姿は異様に映るのも想像に難くない。

この日本や欧米の女性の服装は、個人の自立と自由を前提とする文化がなければ受け入れられない。欧米や日本は民主主義での国家の運営を標榜しているので、個人の自立は国家の必要条件である。(自立した個人を前提とすれば、男女も同権となる;補足4)個人の自立と男女同権は、各個人と神や教会との距離がゼロに近い場合には(つまりイスラム教圏では)殆ど成立しないと思う。

経済発展と生活レベルの向上を望むのは、イスラム教圏とて同じである。それには、当然非イスラム教圏との経済的文化的交流は不可欠である。それはイスラム圏の人々にとっては、異質なるものへの接近であり、特にキリスト教圏の文化に溶け込めない人々による反発は当然あり得る。つまり、経済交流は双方にとって利益を産む形で進められるが、一定の頻度で生じるイスラム原理主義的な考えの人たちとの不幸な事件や事故は、現時点では不可避であり、付随するコストと考える必要があると思う。

そのコストを支払う義務は、一方的に非イスラム圏側にあるのではない筈である。つまり、米国大統領候補のトランプ氏がとる「イスラム教圏からの移民は受け入れられない」という姿勢や、シリア難民受け入れを制限するユーロ圏の姿勢には、一定の正当性があるということである。また、日本も将来イスラム圏からの移住者や労働者を多数受け入れることを検討する場合、受入数の制限や受け入れ予定者のより厳密な身辺調査などが必要だと思う。それを人種差別という捉え方ではなく、異文化交流の経過的措置として、双方が是認する必要があると思う。

補足:

1)テロを引き起こしているイスラム過激派は、中東イスラム諸国とキリスト教圏との関わりの中でうまれたのだろう。最近の米国と中東諸国との戦争が大きく関係しているが、元々イスラム教圏とキリスト教圏とは、過激派の声明にもあるように中世の十字軍以来の宿敵関係にある。そして、一連のテロがイスラム教圏とキリスト教圏との戦いであれば、我々アジア人は争いの外にあることになるが、この世界をイスラム法に則って改革するのが目的だというのなら話は別である。
2)距離がゼロというのは、信者と神は一体であるという感覚を言っているのである。「神は偉大なり」と言って、自爆するのはこの一体感を証明している。
3)キリスト教圏での神と人の間の距離感は、現在のキリスト教圏である西欧諸国に伝搬され定着する間に、ギリシャなどの地中海文明の影響もあって変化したと思う。ギリシャ文明とキリスト教文明の結びついたところで自然科学が生じた。キリスト教による科学の弾圧は確かにあったが、科学の発展はキリスト教とは無関係ではあり得ない。この問題は難しいので、サイトを引用します。http://www.path.ne.jp/~millnm/scich.html
4)イスラム教圏の女性の外出時の服装は、街の男性に自分の女性としての魅力を見せないようにするためである。一方、キリスト教圏の国々やそれを模倣している日本などでは、女性は顔には化粧し、薄着とミニスカートで全身を不特定多数の男性の目に晒す。この女性の服装は、個人の自立を前提とする文化がなければ受け入れられない。

2016年7月1日金曜日

大衆迎合と民主主義:populism and democracy

1)西欧型近代国家では、政府が国民を代表し、国民の力を集結する形で形成され、そして、国民の福祉と安全の維持向上や国土の管理・防衛のための事業を計画し執行する(補足1)。国民の力を集結する方法として、多くの国では民主主義制度を理想としている。つまり、国家の権力者が構成員(国民)全員であり、その意思決定を構成員の合意により行うという政治形態である(補足2)。

国家に話を限定した場合、直接国民が全ての国家の意思決定に参加するのは不可能であるから、当然間接民主制を採用せざるを得ない。その制限下で、いかに国民大多数の考えを政治に反映するかを選挙で選ばれた議員や行政担当者は考えなければならない。また、そのために選挙民は優れた議員等を選ばなければならない。

民主政治が人間の作る国家の政治形態として良いかどうかは、国民が高い知識を持つように不断の努力をし、且つ、平等で独立した有権者としての地位を保てるかどうかにかかっている(補足3)。個々の有権者にその能力が望めないのなら、民主主義は理想の政治形態ではないことになる。現在、世界はそれを問われる事態にある。つまり、ポピュリズム(大衆迎合主義)が政治の世界を席巻するのなら、民主主義は捨て去られるか、大きく修正されるべきである。

2)民主主義を歪めるプロセス:
間接民主制が採用しうる程度に、国民が能力を持つと仮定して以下話を進める。有権者の独立した意思の総和として選ばれた議員により議会が構成され、その議員の独立した意思の総和として行政府構成員が選ばれるのなら、民主主義が正常に機能すると考えられる(補足4)。ただ、間接民主制には民主主義を歪めるいろんなプロセスが主権者と行政執行者の間に介在する危険性がある。

その一つが、議員の有資格者が入り口である立候補の段階で制約を受けることである。その点について、昨日のブログで触れた。つまり、政治的能力と意思だけでは立候補さえ難しいことが、都議選のドタバタ劇で実証された。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42865528.html  日本では、政治の世界での支配階級に属するか、支配階級の支持がその立候補の実質的な必要条件となるようである。この政治の世界での支配階級は本来存在してはならない。

更に、外来或いは一部の意思が、本来あってはならないプロセスで、選挙民と議会との間に、そして、議会と行政府の間に入り込み、民主主義を歪めることになる。例えば:①内閣(政府中枢)の下部組織である筈の官僚とその組織の勝手な動き、②議員の中に出来た上下関係、③種々の国内の団体、それに④外国の政府や諸機関などの介入があり得る。それに、マスコミによる宣伝が加担して、法令に明文化されていない実質的な支配階級を国内或いは国外に作ることになる。

例えば、②の議員の中に出来た上下関係は、日本では当たり前のように許容されているが、これも民主主義を歪める一つの原因である。それは、議会において持つ議員の発言力に差があれば、それらの議員を選んだ一票に最初から差が存在することになるからである。現在日本の政治では、政党と派閥があり、所属議員の間に能力以外の原因による(補足5)大きな発言力の差がある。そして、議決の際に党議拘束などという本来の民主主義にふさわしくないことが、堂々と行われている。そのような政党と派閥は、本来の民主主義には邪魔な筈である。

米国の2大政党には党議拘束がないそうである。http://getnews.jp/archives/240765 党議拘束が非民主主義的であるとの議論がほとんどないのは、民主主義という考え方が欧米文化からの借り物である証拠の一つである。そのほか外部の力①、③、④の政治介入については、いろんな議論がすでにあるが、ここでは省略する。

3)ポピュリズムについて:
更に、民主制がそもそもうまく働かない場合として、政治のポピュリズム支配がある。ポピュリスト党(populist party)は元々米国に存在した政党の名前でpeople’s partyとも云う。一時はかなりの勢力を得た(補足6)。

ウィキペディアでポピュリズムを検索すると、“①一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想または政治姿勢のこと、或いは、②政治指導者が大衆の一面的な欲望に迎合して大衆を操作する方法を指し、大衆迎合主義とも訳される”と説明されている。通常は、②の定義が用いられていると思う。

①の定義の中の「利用して」の部分を「考慮して」に変えれば、そして、既存のエリートや知識人が支配層として存在するのなら、それは民主政治における正常な主張であり、実際米国populist partyの主張であったと思う。ただ、その政党の反資本主義や反銀行などの姿勢は時代錯誤的であり、populistという言葉は②の定義で残り、政党の方は米国の政治から排除され消滅した。

ポピュリズムに対する①の定義は、民主政治への移行プロセス、或いは、民主政治への回帰の姿勢を悪意的に表現したものとも考えられる。これまでの支配層がある勃興してきた政治勢力をポピュリズムと批判する場合、支配層による非民主主義的政治が問題であるという可能性もある。ポピュリストの名を用いることで、政治を一般大衆から取り上げ支配しようとする勢力には気をつけなければならないと思う。

つまり、一般国民の支配層への対決姿勢を反らせるために用いられた言葉かもしれないのである。民主主義の旗頭であるはずの米国における代表的知性の一人、大統領補佐官を務めたブレジンスキー氏の言葉「知識をもった100万人をコントロールすることより、その100万人を殺す方が容易である」は、米国にも非民主的な支配層が存在することを示している。https://www.youtube.com/watch?v=Gc9rsvBIh9U 

また、最近大統領候補者の一人「ドナルド・トランプ氏はポピュリスト(大衆迎合主義者)である」という言葉を聞く。しかし、上記ブレジンスキー氏の発言と合わせて考えると、それも注意して聞く必要があることがわかる。少し前に、ある元外交官(佐藤優氏)が橋下徹元大阪府知事をポピュリストと非難したことがある。私は、その言葉をそのまま信じてはいないし、その発言により佐藤氏の言葉には注意するようになった。

(午後9時編集;これは素人のメモです。反論等期待します。)

補足:
1)広辞苑(第二版)の定義 ①まつりごと(主権者が領土・人民を統治すること)。②権力の行使、権力の獲得・維持に関わる現象。主として国家の統治作用にかかわるものであるが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。民主国家では、支配者(統治者)も非支配者(被統治者)も国民である。
2)Democracyは語源的にはdemos(大衆)+kratos(ルール、権力)であり、一般大衆が権力を持ち、それを行使することである。
3)これは小沢一郎氏の本「日本改造計画」の主張である。出版後20年ほど経って、小沢氏の政治家として力が衰えたのか、ゴーストライターによる執筆が明らかにされた。
4)ここでは、法治国家であるという要件は満たされていると仮定する。
5)議員の能力は、その議員を選んだ選挙民の責任である。
6)people’s party或いはpopulist partyは1891年から1908年の間、米国に存在した政治団体。populistの前半populusは、peopleである。1896年に大部分は民主党に合流し、一部は1908年まで残った。土地の均分制を主張し、反エリートで反資本主義が看板の左翼政党。銀行、鉄道、シティー、金などを敵視し、労働運動に協調した。