2016年7月26日火曜日

「道徳教育」より「社会に信用を築く教育」を

政府は道徳教育を再開するらしい。小学校は2018年度にも教科化される見通しとのことである。http://news.biglobe.ne.jp/trend/0217/ddn_150217_4943571656.html そこで、①道徳とは何か、②道徳教育は必要か、③政府は愛国心教育を目指しているのではないのか、などについて考えた。

§1 現代の道徳を考える:

「人としての道、人の持つべき徳」という考えだが、その言葉には何故か現実離れした説教を聞くような響きがある。つまり、「道徳」は、支配者と被支配者が社会を作り生きていた時代、家長が家を代表して権威を持っていた時代の遺物かもしれない。

例えば、「君子にたいして忠、親にたいして孝」という儒教由来の教えがあるが、これは随分時代遅れである。しかし、「君子に対して忠」は、「国民は愛国心を持たねばならない」と殆ど同じなので、愛国心教育というのも時代遅れではないだろうか。例えば、北野武氏は以下のサイトでそのような反対論を提示している。http://lite-ra.com/2015/10/post-1615.html 政府の目論見として、愛国心教育も重要だと考えているだろうから、その根拠について説得力ある説明をすべきであると思う。

また、親に対し孝と言われると、食うや食わずの中で必死に子供を育てた時代の遺物のような感じがする。「道徳教育」を何故今頃再開しようとかんがえたのだろうか?  もし、若い人たちの間に社会にたいする思慮が足りないというのがその動機なら、もっと別の視点から教育することは可能だと思う。それは、「安心して生きることができる社会を築く意志」を子供たちの心の中に築くことである。

我々は社会を作って生きている。安心して生きるためには、同じ社会で生きる人の心の中に、他の人と社会のルールとを信用できる心を、”社会の基礎”として厚く築くことである。それは人々の心の中に築かれる思想や感覚の類であるから、一朝一夕にはできない。この“人々の心の中の信用”が安全且つ健全な社会を維持する為の基本条件であり、高い信用はその社会の純資産(正味の財産)とでも云うべきものである。(補足1)これをしっかり教える教育を、道徳教育の代わりにしたらどうかと思う。道徳教育というのはそういう意味だと言う人には、「名は体を表す」と答えたい。

この“社会における信用”とは具体的にどのようなものかについて考える。“この道を歩いていても、銃をもって襲ってくる人などいない”という信用があるから、買い物にもいける。また、“この野口英世の肖像画の札は、牛乳パック5本分位の値打ちがあり、明日も明後日も1年後も同じ程度の値打ちがあるだろう”という信用があるから、物の売買がこの紙切れを仲介にして成立するのである。これらの信用は社会のソフトなインフラの基礎であり、上でも述べたように、社会の成立から営々として蓄積された純資産(補足2)なのである。

§2 現代の愛国心を考える(社会を成立させるための信用は、社会をまたいでは成立しない場合も多い):

現在世界は、自国と協調的な国や、競争的或いは敵対的な国などが、密接に関係を持って地球規模的に広がった政治経済の空間(グローバルな政治経済)を作っている。つまり、リアルタイムで地球の端の国の出来事が、自国の政治や経済に影響する時代である。そして、この互いに信用し協力するという「人の心の基礎」は、自国でも外国でもそれぞれの国内では同じ意味を持つ。

そのような世界であるが、国家の壁を越えて「信用という純資産」を我々人類は未だ持っていない(投資していない)のである。そこで、自国の「信用」への寄与を、未だ曖昧な「国際的な信用」に優先するのが、現代の「愛国心」だと思う。従来の愛国心が具体的行動である「他国を征服することや、他国から自国を軍事的に防衛すること」と繋がるが、この「現代の愛国心」とはかなりベクトルの方向が違う。それは、国家間の壁に阻害されてはいるものの、国際的な信用の拡充と同じ方向だからである。

§3 命の大切さは国境を跨がない:

我々は互いに自分の命を大切に思う心を尊重する。このことを信用して、我々は社会(つまりこの場合は日本国)の中で生きているのである。人の命はどこでもどこの国の人の命でも大切であるが、「信用」が社会をまたいで成立しない現状では、残念ながら命の大切さも社会をまたいで成立しない。この「命の大切さは国境をまたいで成立しない」ことは、戦争の歴史を見ればわかることである。

道徳教育で、命の大切さを教えるというが、この「社会の信用」という視点で考えた場合、命一般が同様に大事なのではないということになる(補足3)。つまり、我々と同じ社会に生きる人の命が大事なのである。何故なら、名前も住所も知らないけれども、彼(女)は我々の仲間だからである。一緒になって、この社会を安全に豊かにするという共通の目的を持っている仲間だからである。(社会の信用という我々の祖先が投資した純資産を継承する仲間なのである。)

§4 現状:

この「社会の信用」は、自分もその恩恵を受けている事実に気づかずに、個人の利益を最優先してしまうと、脆く崩れる可能性がある。そこで、これを大切に保持し更に厚くするのが我々同じ社会の中に生きる個人の義務である。

更に、国際間にも「信用」を築く努力を人間はしている。それは、社会の枠組みを現在の国よりも大きく広げようという考え方である。国連やEUなどもその試みの例であると思う。しかし、地球社会全体が十分裕福でない現在、一つの国家が利己主義を重視すると、その試みは進まない。それが現状である。

補足:
1)移民政策を考えるとき、この社会の人々の心の中にある「社会の財産」が瞬時にできないことは、重要な問題である。
2)信用は英語でcreditである。貸借対照表の中でcreditの欄には、資本や純資産が記載される。
3)個人を思考の場とした場合、特に仏教に傾倒している方にとっては虫の命も大事だろう。しかし、それを社会の他のメンバーに主張することは出来ない。同様に、日本国の消滅を願う国があったとして、その国の軍隊の兵士の命は、個人的な思考の中では大事だと考えてよいが、しかし日本国全体の中で国家の方針を考える場ではその主張はできない。世界政府が仮にできたとして、その政府が十分な権威と権力を持った場合、我々は人の命は等しく大事だと、その世界政府を受け入れる仲間の間で主張できる。(神の支配する世界ではなくて)人が作る世界では、命であれ物であれ、その価値や大切さは相対的であり、且つ空間的に有限である。
別の表現では、世界の国々は国際社会に資本を投資して、未だに「人の命は大切である」という資産を、国際的に形成していないのである。

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