2016年7月1日金曜日

大衆迎合と民主主義:populism and democracy

1)西欧型近代国家では、政府が国民を代表し、国民の力を集結する形で形成され、そして、国民の福祉と安全の維持向上や国土の管理・防衛のための事業を計画し執行する(補足1)。国民の力を集結する方法として、多くの国では民主主義制度を理想としている。つまり、国家の権力者が構成員(国民)全員であり、その意思決定を構成員の合意により行うという政治形態である(補足2)。

国家に話を限定した場合、直接国民が全ての国家の意思決定に参加するのは不可能であるから、当然間接民主制を採用せざるを得ない。その制限下で、いかに国民大多数の考えを政治に反映するかを選挙で選ばれた議員や行政担当者は考えなければならない。また、そのために選挙民は優れた議員等を選ばなければならない。

民主政治が人間の作る国家の政治形態として良いかどうかは、国民が高い知識を持つように不断の努力をし、且つ、平等で独立した有権者としての地位を保てるかどうかにかかっている(補足3)。個々の有権者にその能力が望めないのなら、民主主義は理想の政治形態ではないことになる。現在、世界はそれを問われる事態にある。つまり、ポピュリズム(大衆迎合主義)が政治の世界を席巻するのなら、民主主義は捨て去られるか、大きく修正されるべきである。

2)民主主義を歪めるプロセス:
間接民主制が採用しうる程度に、国民が能力を持つと仮定して以下話を進める。有権者の独立した意思の総和として選ばれた議員により議会が構成され、その議員の独立した意思の総和として行政府構成員が選ばれるのなら、民主主義が正常に機能すると考えられる(補足4)。ただ、間接民主制には民主主義を歪めるいろんなプロセスが主権者と行政執行者の間に介在する危険性がある。

その一つが、議員の有資格者が入り口である立候補の段階で制約を受けることである。その点について、昨日のブログで触れた。つまり、政治的能力と意思だけでは立候補さえ難しいことが、都議選のドタバタ劇で実証された。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42865528.html  日本では、政治の世界での支配階級に属するか、支配階級の支持がその立候補の実質的な必要条件となるようである。この政治の世界での支配階級は本来存在してはならない。

更に、外来或いは一部の意思が、本来あってはならないプロセスで、選挙民と議会との間に、そして、議会と行政府の間に入り込み、民主主義を歪めることになる。例えば:①内閣(政府中枢)の下部組織である筈の官僚とその組織の勝手な動き、②議員の中に出来た上下関係、③種々の国内の団体、それに④外国の政府や諸機関などの介入があり得る。それに、マスコミによる宣伝が加担して、法令に明文化されていない実質的な支配階級を国内或いは国外に作ることになる。

例えば、②の議員の中に出来た上下関係は、日本では当たり前のように許容されているが、これも民主主義を歪める一つの原因である。それは、議会において持つ議員の発言力に差があれば、それらの議員を選んだ一票に最初から差が存在することになるからである。現在日本の政治では、政党と派閥があり、所属議員の間に能力以外の原因による(補足5)大きな発言力の差がある。そして、議決の際に党議拘束などという本来の民主主義にふさわしくないことが、堂々と行われている。そのような政党と派閥は、本来の民主主義には邪魔な筈である。

米国の2大政党には党議拘束がないそうである。http://getnews.jp/archives/240765 党議拘束が非民主主義的であるとの議論がほとんどないのは、民主主義という考え方が欧米文化からの借り物である証拠の一つである。そのほか外部の力①、③、④の政治介入については、いろんな議論がすでにあるが、ここでは省略する。

3)ポピュリズムについて:
更に、民主制がそもそもうまく働かない場合として、政治のポピュリズム支配がある。ポピュリスト党(populist party)は元々米国に存在した政党の名前でpeople’s partyとも云う。一時はかなりの勢力を得た(補足6)。

ウィキペディアでポピュリズムを検索すると、“①一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想または政治姿勢のこと、或いは、②政治指導者が大衆の一面的な欲望に迎合して大衆を操作する方法を指し、大衆迎合主義とも訳される”と説明されている。通常は、②の定義が用いられていると思う。

①の定義の中の「利用して」の部分を「考慮して」に変えれば、そして、既存のエリートや知識人が支配層として存在するのなら、それは民主政治における正常な主張であり、実際米国populist partyの主張であったと思う。ただ、その政党の反資本主義や反銀行などの姿勢は時代錯誤的であり、populistという言葉は②の定義で残り、政党の方は米国の政治から排除され消滅した。

ポピュリズムに対する①の定義は、民主政治への移行プロセス、或いは、民主政治への回帰の姿勢を悪意的に表現したものとも考えられる。これまでの支配層がある勃興してきた政治勢力をポピュリズムと批判する場合、支配層による非民主主義的政治が問題であるという可能性もある。ポピュリストの名を用いることで、政治を一般大衆から取り上げ支配しようとする勢力には気をつけなければならないと思う。

つまり、一般国民の支配層への対決姿勢を反らせるために用いられた言葉かもしれないのである。民主主義の旗頭であるはずの米国における代表的知性の一人、大統領補佐官を務めたブレジンスキー氏の言葉「知識をもった100万人をコントロールすることより、その100万人を殺す方が容易である」は、米国にも非民主的な支配層が存在することを示している。https://www.youtube.com/watch?v=Gc9rsvBIh9U 

また、最近大統領候補者の一人「ドナルド・トランプ氏はポピュリスト(大衆迎合主義者)である」という言葉を聞く。しかし、上記ブレジンスキー氏の発言と合わせて考えると、それも注意して聞く必要があることがわかる。少し前に、ある元外交官(佐藤優氏)が橋下徹元大阪府知事をポピュリストと非難したことがある。私は、その言葉をそのまま信じてはいないし、その発言により佐藤氏の言葉には注意するようになった。

(午後9時編集;これは素人のメモです。反論等期待します。)

補足:
1)広辞苑(第二版)の定義 ①まつりごと(主権者が領土・人民を統治すること)。②権力の行使、権力の獲得・維持に関わる現象。主として国家の統治作用にかかわるものであるが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。民主国家では、支配者(統治者)も非支配者(被統治者)も国民である。
2)Democracyは語源的にはdemos(大衆)+kratos(ルール、権力)であり、一般大衆が権力を持ち、それを行使することである。
3)これは小沢一郎氏の本「日本改造計画」の主張である。出版後20年ほど経って、小沢氏の政治家として力が衰えたのか、ゴーストライターによる執筆が明らかにされた。
4)ここでは、法治国家であるという要件は満たされていると仮定する。
5)議員の能力は、その議員を選んだ選挙民の責任である。
6)people’s party或いはpopulist partyは1891年から1908年の間、米国に存在した政治団体。populistの前半populusは、peopleである。1896年に大部分は民主党に合流し、一部は1908年まで残った。土地の均分制を主張し、反エリートで反資本主義が看板の左翼政党。銀行、鉄道、シティー、金などを敵視し、労働運動に協調した。

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