2017年1月15日日曜日

理系のセンスのない行政の長や報道関係の人たち

1)豊洲の地下水モニタリング調査は、201箇所からのサンプリングで行われ、環境基準の最大79倍のベンゼンが検出されたという。小池知事は「もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に(移転して良いかどうかの判断を)任せたい」と述べ、専門家会議で詳細な分析をしたうえで(移転して良いかどうかについて)判断すべきだという考えを示した。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170114/k10010839481000.html (補足1)

地下水の環境基準値は、0.01mg/Lであるから、http://www.env.go.jp/kijun/tikat1.html 最大0.79mg/Lの濃度でベンゼンを含む水がどこかにあったのは事実だろう。しかし、何の為に何を測っているのか、その数値のどこが問題なのか、明確な話はこの報道のどこにもない。報道に携わる方々や行政の方々はほとんど文系なので、最大濃度にどれだけの意味があるかという思考の訓練がなされていないのだろう。理系の研究者なら、平均値も発表されていないのなら、2シグマ(標準偏差;補足2)の外ではないかと疑って見たくなる。

環境基準というが地下水を対象にしているので、その地下水を飲用や調理作業に用いる場合は問題だが、そうでないのなら問題にすべきは大気中にどれだけ含まれるかということである。小池知事は「食の安全という立場から」という語句を屡々用いているが、食の安全と地下水中のベンゼン濃度との関係について何も言っていない。この問題は数ヶ月経っているので、東京都にも理系の職員はいるのだから、その間に情報を仕込むことができたはずである。明確な数字と不明確な都知事の態度の対照性は、不自然極まりない。この問題を大きく取り上げ、この時点まで引きずったのは、ポピュリスト的政治の結果だと言われても反論できないだろう。しかし、その点を気にかける報道関係者は皆無である。まさに馬鹿騒ぎである。

2)表題で理系と言ったが、論理的な考察能力の必要度が理系では高いという意味であり、それは文系でも必要な能力であることには変わりはない。理系では、まともな業績評価はほとんど英語で執筆された論文を対象になされる。例えば論文を英米の雑誌に投稿する場合、必然的に英語の訓練を受けることになる。そこで初めて、英語が日本語に比べて遥かに論理的考察に適していることを知ることとなる。

英語の科学論文では、観測結果の数値が何を意味するかについて、曖昧さがあれば受理されない。つまり、それらの数値が、何を対象にどのような方法で得られたか、統計的に意味のある数字なのかなど、実験値が研究対象の記述となり得ているかどうかの確認が先ずなされる。その後、数式などを用いてなされる実験値と執筆者の引き出した対象に関する結論や推論との間を結ぶ論理展開の正しさが、さらにその結論等のその分野に置ける重要性が、審査員や編集長(室)により審査される。発表後は、読者によりそれらがより綿密に多くの方向からなされ、その評価が長い時間を経て実際の業績となる。

そのようなプロセスを経験した人間からすれば、一連の豊洲とベンゼンの関係に関する知事の発言や各種報道の質は、一編の低級な短い論文にも劣るというのが正直な感想である。(補足3)

補足:
1)カッコ内は推測で補足した語句である。肝心な目的語などを省くのは、日本語の欠陥を利用した保険だろう。何か不都合が生じた時、カッコ内の語句を自由にいれかえることができるからである。(日本語の欠陥については、HPやブログに山ほど書いてきた:e.g., http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)N個の観測数値があったとする。夫々の数値の平均値からのずれを二乗し、足し合わせて平均した数値を分散と呼ぶ。分散の平方根を標準偏差(σ)と呼ぶ。乱雑な現象の場合、2σより上にずれた値を得る確率は2.3%以下である。したがって、地下水全体のベンゼン濃度が問題なら、問題にすべきはその平均値であり最大値ではない。観測結果が平均値から大きくずれた値なら(2σ、3σずれているのなら)、それは観測機の誤動作や誤操作も疑う必要がある。
3)今朝の読売新聞朝刊一面にこの件が記載されていたが、最大値のみを記載している。情報量はほとんどゼロと言って良い記事である。

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