2017年1月16日月曜日

「一人で逝く覚悟が必要」五木寛之さんの文章を読んで

15日の読売新聞36面に“質の高い死について考えるシリーズ第4部では、五木寛之さんの「死を語る(上)」が掲載されていた。以前読んだ深沢七郎の楢山節考の話も引用して、自分の考えをまとめる。

1)五木さんは、以下のように語る。

団塊の世代が死を迎えるとき、大量の要介護老人と、大量の死者が周囲に溢れる時代だろう。それは、これまでの歴史に無かったまさに未曾有の事態である。近代は、個人としての老いや死を問題にしてきたが、これからは社会全体でどう受け止めていくかが問題になる。政治や経済だけの問題ではなく、宗教のような集団的思想がクローズアップされるだろう。

老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があると考えるのは幻想でしょう。身体が次第に崩壊していく中、肩身を狭くして生きていくことなのです。昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにあったが、今は死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう。多くの人が、家族との絆も薄れる中で、自らの老いや死と向き合わねばならない時代です。最後は一人でこの世を去る覚悟を持たないといけないでしょう。


そして、「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない。単独死、孤独死が悲惨だとは思いませんね。」と結論した。

2)私の体験、感想、考え:

私もすでに何度かこの問題を考えている。今回、五木さんの文章を読んで、昨今自分の考えていることと全く同じであることを知り、同じ問題を考えれば五木さんの考えにたどり着くのは自然なことだと思うようになった。(補足1)五木さんの場合、大陸からケダモノの様なロシア軍兵士から逃げ帰る経験を持ち、その中で家族と周りの人の無残な死を体験されたことが、死を考える原点にあると思う。

15歳以上若い私にはそのような体験はないが、母が死ぬ時の痛々しい様子を漏れ聞き(補足2)、遠方に住む故最後まで近くに居れなかった分、余計に心を痛めた記憶がある。自分の死を考える際にも、それが強く思い出され参考となる。それは、被害者意識などではなく、一人の死とその周辺の苦しみを全体として把握した時の話である。

死にゆく過程は、まさに自分の体と精神の崩壊のプロセスである。体は部分的に死滅した後腐敗し、最後は頭脳か心臓が止まるところで人としての死に至る。その中に最後まで自分以外の人を巻き込めば、近くに残る人から加えられる言葉や態度は、死に往く人の人格も生きていた頃の思い出も何もかも破壊し尽くすだろう。五木さんの“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という結論は、まさに“鏡の中に映る自分の姿”(あるいはアルバムに残る自分の姿)が破壊される前に、自分の心にそして家族の心に残したいという最後の願望だと思う。それは孤独を受け容れなければできないことであり、仏教の涅槃の境地と言えるだろう。

群れを作るボスライオンは、死ぬ時は静かに群れを去る。その勇者の最後の姿に、神々しさを感じるのは私だけではないだろう。またそれは、深沢七郎の楢山節考に出てくる老女、“おりん”の姿に重なる。70歳になったところで、親族に背負われ楢山(という高い山)の頂上付近に連れられて、置き去りにされるのが“楢山参り”である。その前日は祝いの酒を近隣に住む人たちに振る舞い、彼らからは祝いの言葉を受ける。楢山は信仰の山であり、神の下に往くことにして、老人を捨てて口減らしするのである。“おりん”はそのための準備を自分の意思で万端ととのえて、その日に臨んだのである。

楢山参りの掟は、お山(楢山)に行ったら物を云わぬこと、家を出る時には誰にも見られないこと、山から帰る時(付添人)には必ず後ろを振り向かぬことである。死は人にとって、思考や弁舌に馴染まない出来事である。つまり、死と生はいかなる理屈も埋め合わせることのできない深い谷で別けられているのである。(補足3)楢山節考の世界は、そのほかのあらゆる宗教にある欺瞞性を超えた、日本の原点に存在するオリジナルな神道の世界である。勿論、それは伊勢神道とは似て非なるものである。神道には経典や教義はない。つまり、語れないことはそのまま受け入れるしかないのである。

補足:

1)五木さんの本は親鸞を少し読んだと思う。私は、その影響下にあるのかもしれない。
2)介護に当たった義理の親族による度重なる虐待の話を聞いた。スリッパで顔が殴られ、母の歪む顔と涙を想像し、死の残酷さを思った。
3)聖書の創世記にある話を思い出す。知恵の(善悪を知る)木の実を食べた結果、楽園を追い出され、神の言葉を聞く。「あなたはちりだから、ちりに帰る」と。楽園とは生と死を語る必要のない場所であり、野生の動物は未だそこに留まっているのだろう。しかし、その生と死の思考モデルも非常によくできているが、創り話にすぎない。(信者でもないものが、聖書の片言双句を引用するのは、多少気がひける。)

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