2017年2月12日日曜日

主体としての自己と客体としての自己への分裂

1)西尾幹二さんの講演を少し聞いた。https://www.youtube.com/watch?v=-UXAkzOhXUQ&t=982s その中で興味を持ったのが標題の言葉である。(27分頃から29分頃の言葉)そこで、言われたことを十分理解できたかどうかわからない。想像するに、以下のようなことだったのではないかと思う。ひょっとして知識人にとってはそれほど新しい考えではないかもしれないが、理系ゆえに新鮮だったのかもしれない。

人間の自己には二つあり、それは主体としての自己と客体としての自己である。人間はこの二つを持つ唯一の存在である。そして、主体としての自己が客体としての自己を観察し評価できる。しかし、主体としての自己については一切わからない。

ここからは私の考えだが、それについて西尾さんが話されたかどうか、確かではない。テンポが合わず、動画視聴を途中で投げ出してしまった。

主体が明確であれば、それが記述する客体も明確だろう。しかし、主体としての自己がわからないのだから、結局客体についても何もわからない筈である。唯一わかるのは主体としての自己が存在することだけである。つまり、何かについて説明できたとしても、記述した主体(自分)について何もわからないのだから、それらは全て幻想かもしれない。

他人の幻想と私の幻想が同じ場合もあるだろう。社会を作って生きていると称している人類は、皆共通の幻想を持っているのかもしれない。しかし、確かなのは考える自分だけであるから、社会やその構成員と知覚した全てが幻想かもしれない。

神が存在すれば、そして神との関係において自分が確かになれば、自己も自己の記述する他も確かな存在となる。しかし、我々は神を知らない。(補足1)死は客体としての自己の消滅だろうが、主体としての自己の消滅でないかもしれない。解脱という解放かもしれない。

2)こんなこと考えるのは、明日の飯が保証されている(と信じている)からだろう。常に生きること獲物のこと敵のことを考えている猿に似た動物に主体としての自己とか客体としての自己など存在するだろうか?

逆に、人間以外の動物だって、明日の飯が保証されて、数十世代か数百世代経過すれば、我々人間のように自己が二つに分裂するかもしれない。

想像を更に膨らませると、人類にとって明日の飯が保証されるのは農業を始めてからだと思う。(補足2)そして、明日が保証された農耕民族で、そして特に定住の傾向が強い民族において、この分裂がより明確になるのではないだろうか。つまり、同じ人間でも異なる文化圏では、この分裂の明瞭さは異なるのではないかということである。

自意識過剰とは、この主体としての自己と客体としての自己の分裂が明瞭であり、常に客体としての自己を主体としての自己が観測する結果だと思う。あまり知的でない人で利己的な人は、主体としての自己は明確だが、それが客体としての自己の存在をあまり感じないのではないだろうか。

(コメント歓迎します)

補足:
1)神とは創造主という意味であり、神道的な神のことではない。
2)聖書にあるように、善悪を知る木の実を食べた人間は、罰として自分で地から食物を得なければならなくなった。(創世記3章)善悪とは、主体として自己と客体としての自己の分裂がなければ生じない。

0 件のコメント: