2017年11月1日水曜日

孝明天皇を祀る官営神社がなかったのは何故なのか?:孝明天皇暗殺説と明治天皇すり替え説

政治を考える上で、国家の成り立ちの経緯を理解することは非常に大事である。現在とるべき政策は、将来の日本の方向を考えて定めるのだが、その為に必須なのは現在の日本が十分理解されていることである。しかし、それは日本国だけの事ではないかもしれないが、時の権力は国家の歴史を隠し、国民から正常な歴史感覚と政治における理解力と判断力を奪っている。

日本の近代を知る上で、明治維新の理解は非常に大事である。しかし、そこに大きな歴史の捏造が行われたのでは無いかという疑いが浮上している。(補足1)2年前に、それまでに読んだ本などから、明治維新について整理しブログ記事として書いた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42241483.html

今回焦点を当てるのは、愛知県知多郡武豊町にある寂れた神社、玉鉾神社である。そこは、薩長に協力した下級貴族(岩倉具視など)に暗殺されたかもしれない、孝明天皇を祀る神社である。孝明天皇は、薩長の下級武士たちが中心となった倒幕運動において、最も邪魔な存在であった。(補足2)その創建に至る話は異常に思え、孝明天皇暗殺説や明治天皇すり替え説をサポートする情況証拠のように思えるので、ここで紹介したい。

異常だと思うのは、孝明天皇を祭祀する神社を新政府は作らなかったことであり、作ることを妨害し、そして出来た神社を冷遇したことである。新政府側が孝明天皇を祀ったのは、1940年(昭和15年)になってからであり、しかも平安神宮の祭神に加えるという形だった。それと対照的なのは、明治天皇の祭祀である。明治神宮が創建されたのは、大正9年11月1日であり、それは天皇没後8年、皇后の没後6年のことである。

孝明天皇を祀る神社が無いことを悲しんだのか、一民間人である旭形亀太郎という人が創建を願い出た。旭形亀太郎は、幕末の文久3年に宮中警備隊長になり、蛤御門の変では玉座の守備にあたった人である。(補足3)長い間の運動で漸く正式に許可されたのは、明治32年のことであった。ただし、祭祀されているのは孝明天皇だけではなく、神話時代の神が含まれているとのことである。https://ameblo.jp/zonebalance/entry-12085958158.html

玉鉾神社をグーグルマップでみると、まともな駐車場も無く、アクセスも悪いように思う。元天皇の神社であるにも拘らず、神宮と呼ばれない寂れた神社である理由は、その維持管理に国家から何の援助もなかったからだと思われる。

明治中期以降、日本の神社は社格制度で分類され、それに従って一部は国家から支援をうけた。その社格による分類は、官社、諸社、無格社である。官社は神祇官が祀る官幣社と地方官が祀る国幣社に分けられ、夫々に大、中、小に分類されていた。その中で、玉鉾神社は最低の無格社だった。無格社に支援金は出ない。(補足4)

武豊町のホームページには何の紹介記事もなく、http://www.town.taketoyo.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=874&frmCd=4-2-10-0-0 武豊町史の中に他の神社の詳細な記事と比べて、ほとんど何も書かれていない。詳細な記述を避けていると思うのは考えすぎだろうか。http://www.geocities.jp/kamankara/text/documents/d-tak.html#玉鉾神社

これらのことを知れば、今まで不思議だったことの説明が簡単に出来ることに気づく。その一つは、明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになったことである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96 そして、後醍醐天皇の建武の新政の立役者である楠木正成の像が、現在の皇居(北朝の子孫の宮殿)外苑に設置されている理由も、はっきりと分かる。この件については、以下のブログにかなり書かれている。http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24

明治天皇の即位は満年齢で14歳の時である。皇子であったときと即位した明治天皇の体格に大差があるという指摘をする記事も多い。また、何故素早く東京遷都をしたのかという疑問も、すり替え説をとれば簡単に説明できる。孝明天皇が実父でないなら、それを祀る神社を作らず、作らせず、またできた神社を厚遇しない理由も、簡単に説明可能なのである。

明治維新と呼ぶに相応しい日本の夜明けなど無かったのではないのか?江戸時代は暗黒の時代などではなかったのだろう。そして、未だに明治から昭和の時代の負の遺産が、現在の四面楚歌の日本の情況を作っているのではないのか。江戸時代は、考えてみれば、今より遥かに地方分権社会であった。(補足1)

補足:

1)「明治維新の過ち」を書いた原田伊織氏は、近代史の総括なしに日本の未来はないと言っている。そして、世界は江戸システムに向かっていると書いている。http://manet.murc.jp/thinktank/rc/quarterly/quarterly_detail/201702_16.pdf 

2)孝明天皇は江戸の官僚組織を頼りにした。そこで、薩長下級武士たちや岩倉具視などの下級貴族は、病気で数日休んだ天皇とその皇子を暗殺し、代わりに長州の田布施地方出身で長州力士隊の一人(大室寅之助)を明治天皇に仕立て上げたという説がある(有力である)。孝明天皇の毒殺説は、半島一利著「幕末史」も支持している。その本の中に、英国外交官だったアーネスト・サトウの日記には、天皇が暗殺されたと明記されているとある。(幕末史、p260)ただ、半藤氏は明治天皇になる筈だった睦仁親王については何も書いていない。

3)旭形亀太郎は力士隊に属し、蛤御門の変で玉座を護った功績により、孝明天皇より天杯等を賜った。下記サイトに、日本相撲協会の『日本相撲史中巻』に、「旭形亀太郎の盡忠」という見出しで、旭形亀太郎について記載しているとある。 https://www.degucci.com/%E5%A4%A7%E7%AB%8B%E8%80%85-%E6%97%AD%E5%BD%A2%E4%BA%80%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E5%B0%BD%E5%BF%A0%E3%81%A8%E7%8E%89%E9%89%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

4)なお、太田龍著「天皇破壊史」という本には、伊藤博文が玉鉾神社に弾圧した旨の記述がある。(P108)他に文献として、落合莞爾著、「南北朝こそ日本の機密」などがある。 http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2015-05-24

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