2018年2月6日火曜日

西部邁氏の自死の意味

西部邁氏(補足1)が多摩川に身を投げてから、2週間経った。そして、自分で自分の命を閉じる「自裁死」という言葉が日本中に投げかけられた。佐伯啓思という方が追悼文を書いている。それによると、 佐伯氏が東大大学院時代、赴任した西部教授が学生たちとの議論のなかで絶えず問いかけた言葉は、「お前は何を信条に生きているか、それを実践しているか」であったという。 https://digital.asahi.com/articles/DA3S13328671.html?_requesturl=articles%2FDA3S13328671.html&rm=150

恐らく、それは西部氏が自分自身へ日々問いかける言葉でもあったのだろう。その問いかけの答を実践するかのように、西部氏は先月21日(2018/1/21)自分で自分の命を閉じた。つまり、その日西部氏が自問し出した答えが、最後の仕事として「その問いかけ」を日本中に投げかけることだったのだろう。一人の生と死のストーリーとして、見事という他ない。以下、西部氏の言葉を反芻したい。

西部氏の言葉は聞く人により意味が異なるだろう。しかし、最も重要な対象は、日本国の大衆だったと思う。そしてその問いの意味は、「人間にとって死は相対的で、選択肢の中にある筈でしょう?」ということになると思う。(補足2)つまり西部さんの自裁死は、自分のそして家族の安全とか健康とかに無限の価値をおく現在の日本社会の風潮と、それがもたらす日本の将来を危惧した警鐘だと思う。

民主政治が純粋過ぎる形で存在する日本(補足3)では、大衆の考えは日本政界における思考方向を支配する。日本には40年前にも、「人の命は地球より重い」という言葉で、憲法も法律も論理も無視するような決断をした総理大臣がいた。そして現在、健康や医療が大衆の視野の大半を占め、将来の国家を危うくするような事態の兆しなど、視野の片隅にもない状況を生み出している。

昔、武士は死ぬべき時と場所を考えた。自分の命を民族の繁栄など「義」のために使うという発想で、死を乗り越えた人たち。その死は、武士という誇りと表裏をなすと考えられる。誇り高い人がほとんど居なくなり、且つ、そのような人はむしろ嫌われる今日である。

大衆の「人(つまり自分)の命は地球より重い。健康(自分の)こそ最優先課題」という“傲慢”は、イナゴの大群が米を食い荒らす様に、日本の将来をも食い荒らしているのではないか? それが西部氏の遺言の様な気がする。

補足:

1)西部邁氏は東大経済学部卒の経済学者で評論家。代表的著作に「大衆への反逆」がある。(なお、「大衆の反逆」は西部氏がよく引用するオルテガの著作題名である。)最近では、伊藤貫氏との討論が印象に残った。https://www.youtube.com/watch?v=t63ddMF5BSs

2)人間以外の動物は自分が死ぬ存在であることを自覚していない。従って、動物にとって自分の命は絶対的である。しかし、人間は唯一自分が死ぬことを知る存在である。それは、非常に小さい確率かもしれないが、死が人間個人の選択肢の中にあることを意味している。

小説の中で先ず思い出すのは、①深澤七郎の小説「楢山節考」である。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html そして私は、②山崎豊子作「大地の子」の中で、主人公の陸一心が養父母とともにチャーズ(それは生死を別ける関門だった)をくぐり抜ける時の様子を思い出す。陸一心が残留日本人孤児であると疑った監視兵の尋問に対して、養父が「自分はここに残るので、この子を母と共にくぐり抜けさせてくれ」と言って、誤魔化したのである。いずれも、自分の命を相対化することで、人の義を示したのだと思う。

3)これについては何度か書いた。例えば“政治大国は民主政治を採用しない :民主主義はモルヒネである”: http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/09/blog-post_9.html

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