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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2018年5月27日日曜日

北朝鮮の非核化に純粋にこだわる日本政府はノーマルなのだろうか?

安倍総理はロシアのプーチン大統領と会談し、北朝鮮の非核化に向けて連携をとることや、北朝鮮の非核化に向けた米朝会談の成功を後押しする点で合意した。ただ、ロシアは北朝鮮の非核化を圧力で達成する方針には反対の模様である。つまり、早い話安倍総理の意見に対して形式的に合意しただけの様である。

北方4島問題では、共同経済活動の具体化に向け、7月か8月に事業者による現地視察を行うことなどに合意した模様である。この件では、領土返還には直接繋がらないが、佐藤優氏がどこかで言っていた様に、民法の時効延長的な効果はある。(補足1)また、ロシア国民の頭に北方4島という言葉を定着させる効果もあるだろう。後者は、日露関係にプラスなのかマイナスなのかわからないが。

表題は、日本は北朝鮮の非核化に対して、単に北朝鮮の軍事的脅威を取り除くという点だけを論点において考えて良いのか? 別の表現では、核兵器の脅威は、北朝鮮のものだけに限らないことを意識した上で、北朝鮮の非核化を唱えているのか?という意味である。

以前にも書いたが、日本は北朝鮮の核を云々する前に、核抑止力の獲得を含めた自国の防衛のあり方を考えるのが先決である。国際社会は日々不安定かの方向に動いている。それは、世界経済の停滞感と無関係ではないだろう。(補足2)

北朝鮮はこの60数年、休戦状態ということにはなっているが、戦争の当事国であった。そして、世界一強大な軍事力を持つ米国(形式的には国連軍への派遣国(補足3))と対峙してきた。その中で、継続的に米韓に日本を加えた3カ国の敵対国(補足4)を対象に国防を考えて来た筈である。

その上で北朝鮮は、多くの国々の反対意見を避ける様にして、核兵器を有力な防衛手段として開発して来た。置かれた情況を念頭におけば、北朝鮮の核開発は至極当然なことである。日本国民は、敵対国の一つとして日本が存在することを念頭に、北朝鮮の核開発と日本人拉致問題を考えなければならない。しかし、新聞やテレビなどのメディアは、東アジアの無法者の北朝鮮といったレベルの報道しかない。

残念ながら、日本が北朝鮮と上記の様な関係であることなど、夢にも思わない人たちが大半だろう。私は日本人だから、北朝鮮を敵国として捉えている。そして、朝鮮総連や金日成の肖像画を掲げる朝鮮学校が、日本で安定的に法人格を持って存在できることが不思議である。

その一方、強大な軍を持つ米国と敵対する北朝鮮の苦悩は理解できる。(補足5)何故なら、近い将来の可能性として、軍事大国である中国と対峙する弱小国日本の姿が想像され、それが現在米国と対立する北朝鮮の姿に重なって見えるからである。何故、日本政府は純粋無垢に北朝鮮の非核化を唱えることができるのか?理解に苦しむ。

安倍総理のロシア外交は、米国の対日姿勢急変に対する保険だと考えられないことはない。(補足6)つまり、中国との派遣の境界がいわゆる第二列島線となり、この60数年北朝鮮が米国との関係で果たしてきた役割を、その後日本国が受け持つ可能性がある。それだけは避けねばならないとの考えに基づいているのかもしれない。

補足:

1)民法では、借金など債権は10年間放置すれば権利が消滅する。しかし、少なくとも10年に一回、「金返せ」と証拠能力がある形で請求すれば、何十年でも債権は残る。

2)先進国は貧困化している。それは、ピケティが言った資本収益率は経済成長率より大きいという法則からも予測される。つまり、富が一部の資本家に集中する結果、先進国では需要不足が生じるからである。

3)1975年に国連総会は、平和協定の締結を決議している。1991年に韓国と北朝鮮の両国は、国連に加盟している。つまり、国際的には朝鮮戦争は終わっており、西側では米国のみが平和協定を拒否してきたと言える。http://sankei.dreamlog.jp/archives/53005564.html

4)朝鮮戦争が再開されれば、在日米軍も戦闘に参加し、日本は米軍に兵站部門で全面協力をする筈。現在では、自衛隊も集団的自衛権行使が可能であるから、自動的に在日米軍を防衛するという形で参戦することになる。

5)北朝鮮の核武装はその米国により支援されていたという説を、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏はとなえている。朝鮮戦争に勝とうとしたマッカーサーを更迭し、国連の平和協定を勧める決議を無視して北朝鮮を温存したのは、米国が北朝鮮を必要としたからである。そう考えれば、北朝鮮の核開発も米国の一部は支援した可能性がある。しかし、それは一部であり、全部ではないだろう。

6)北朝鮮が核兵器を保持することを諦めた振りをするだろう。その時、米国は北朝鮮は核をCVID的に廃棄したと発表するだろう。その時、静かに進む将来の統一核武装した朝鮮とどう対峙するか?可能性があるのは、ロシアの核を手に入れることかもしれない。何故なら、米国ユダヤ人は日本を嫌っているが、ロシアの人たちは意外と日本に対する敵対心はないからである。

2018年5月25日金曜日

米朝会談の中止に関して

1)6月12日開催予定の米朝会談が中止された。それは二週間前に危惧した通りである。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43649098.html

今回のトランプ大統領の発表は、北朝鮮が米国の要求通りこれまで(クリントン政権時のような)とは違ったレベルの核廃絶合意をしなければ、金正恩体制が米国により潰されることを示したことになる。これまでの様な核廃絶を誤魔化せるレベルの合意にこだわり続けば、①金王朝のトップ一人とその周辺数人が何らかの方法で政治的に消されるか、それとも②大戦争になって、数百万人の命と引き換えにして滅びるかのどちらかだろう。

この両方の図式は、ともに金正恩にとっては悪夢である。従って、金正恩が考えるべきなのは、核兵器保持疑惑を残す範囲での核廃絶合意ではなく、核廃絶を明確にした後にどの様にして自分の国内での権威を保つかについてであると思う。それが、今回のトランプによる米朝会談中止発表とそれに至るまでのここ2、3日の出来事で明らかになった。

もしクリントン政権のとき、米国が北朝鮮を先制攻撃しておれば、その犠牲者数は米韓両方で数十万人だったいう。(補足1)https://www.asahi.com/articles/ASKCS7QSWKCSULZU011.html その数は、John Hopkins大学の現在の状況下でのシミュレーションにおける死者数より一桁少ないが、それでも平時の政権が耐えられる数字ではない。https://iwj.co.jp/wj/open/archives/407691

①の方法は、解放された3人の米国から派遣されていた半島系人物のケースで判るように、継続的に努力していただろう。それも、今は事実上不可能だろう。従って、現在はまさにデッドロックの状況にある。しかし、後に述べる様に、少し近くの回り道に金正恩にとって安全な道があるような気がする。

このような状況は、訪米した文在寅韓国大統領とトランプ大統領の会談(5月22日)において、トランプから米朝会談の中止もあり得るとの発言があったことから予想されていた。文在寅が「金正恩の北朝鮮も米朝首脳会談成功への意思は明らかだ」と言って見ても、リビア方式に近い形の合意を北朝鮮が忌避し、且つ、米国がそれに拘れば(二週間前に書いた様に)早期会談の中止となるのは当然である。

なお、米国に独自に情報元を持つという青山繁晴氏は、これまでのごまかしの合意はあり得ないと2-3日前のyoutube動画で発言している。(虎ノ門テレビの番組だろう)https://www.youtube.com/watch?v=b9nLWXIlQ5A

その中で、青山氏はそれでも米朝会談は交渉ごとであるから、何らかの妥協があり得、その隙間を利用して北朝鮮は核兵器またはその技術を隠し持つことはあり得るので、日本は注視する必要があると言っている。

2)6月12日予定の米朝会談の中止で、北朝鮮の体制保証などを含む一定の譲歩はあるものの、米国トランプ政権はこれまでの歴代大統領のように、この問題を先送りする策を取らないことが明らかになったと思う。(補足2)

その理由の一つに、北朝鮮の核装備が米国の安全をも揺るがすレベルになってきたことがある。更に、もう一つの理由は、トランプはこれまでの米国支配層には従わない方針を掲げて当選した大統領だということである。

北朝鮮問題においても、そのトランプ政権の性質を中心にして考えるべきであると強調するのは、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏である。そして、馬渕氏は国際金融資本とその支持下にあるネオコンが、これまで北朝鮮の核開発を助けてきたというモデルを掲げている。https://www.youtube.com/watch?v=De8U0tm8ad4

上記youtubeで馬渕氏は、中国の朝鮮半島支配は終わること、そして、米国の親中政策の終焉についても言及している。そのトランプ路線の根本にあるのは、国際金融資本が勧めてきたグローバリズム路線の変更であり、それと表裏一体であった米国政府の枠組みを、ナショナリズム的方向に変化させることである。(補足3)

以下は、素人である筆者の考えを書く。グローバリズム的展開を減速するのに際して、米国はその勢力範囲を明確化する必要がある。その東アジアにおける境は、いわゆるアチソンラインだと思う。そこと中国やロシアとのバッファー領域である朝鮮半島を安定化するのが、今回の朝鮮戦争の終結と北朝鮮および韓国を安定に固定する方針だろう。(補足4)

米国が朝鮮半島の安定化を考えているのなら、半島を不安定にする北朝鮮の核兵器に関して、完全に米国に廃絶の方針に従う様に金正恩が舵を切れば、完全なリビア方式をとったとしてもカダフィのように殺されることを危惧する必要なないと思う。

逆に、あまりにもリビア方式を国家の威信を傷つけるような要求だとして撥ね付ければ、金正恩の安全にとってむしろ有害だろう。つまり、金正恩体制は、徐々に米国側に姿勢を変更することで、安泰となると思う。これまでと違って、急に中国寄りの姿勢を取るのは、時代に逆行することになると思う。

以上、一素人が自分のメモとして記事としたものです。

補足:

1)国家が冷静な状況であるとき、そのような決断はできない。しかし、発狂状態になれば、そのような決断が下されることはあり得る。

2)私は、二週間前には今日の米朝会談の中止は当然であるという趣旨の文章を書いたが、それ以前はどうせ中途半端な合意をして、問題を先送りするのだろうという趣旨の文を書いてきた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43643050.htmlそれは、トランプ大統領を疑いすぎた結果なのかもしれない。

3)この舵取りの変更は、これ以上の米国の国際収支の悪化は、ドル崩壊を招く可能性が高いことと関連していると私は素人ながら思う。強い米国の背骨は強いドルであるが、米国の財務は非常に脆弱である。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43416690.html 米国連銀の総資産の半分程度は米国債だから、このままの延長線上を歩めば、米国は破産しドルは紙くずになる。グローバリズムからナショナリズムへの方向転換は、当然のことだと思う。

4)馬渕睦夫著「国難の正体」には、グローバル展開のために米軍の海外展開の理由づけに朝鮮戦争は利用されたと書かれている。グローバル化を減速するのなら、一旦この戦争を終わる必要がある。ただ平和条約を締結して半島を安定化したのちでも、両国の完全な政治的統一はもう少し遠い先の問題だろう。朝鮮戦争の継続は、米国のグローバル展開を支えるためであり、ナショナリズムの方向に舵を切ったトランプには不要である。

2018年5月24日木曜日

人類は、言葉が通じる世界を失いつつある

近代文明は人類を豊かにした。そして、我々は一旦平和な時代が来るとの期待を強くした。何故なら、過去多くの戦争は貧困を背景として起こったからである。しかし、世界の経済を豊かにする上で強力な武器となった自由主義経済という方式は、何ステップかのメカニズムが介在するが、政治を嘘の支配へと堕落させた。

つまり、金(資本)と言葉(真実)は互いに緊張関係にあり、現代社会では経済の発展に伴って前者が優勢になってきたということである。双方が純粋な形で共存すれば、緊張関係は保たれるだろう。しかし、前者が後者を侵食するようになりつつあるという風に見える。

言葉は力となって政治装置をつくる。金つまり資本は、政治の制限を受けつつだが巨大化する。そして、現在、資本は間接民主制の影に隠れて政治を支配しつつある。その代表は、世界の金融を支配する国の政治である。その国では、資本がマスコミや運動資金を通して選挙に介入するような仕組みを作り、そこを足がかりにして、政治を支配している風に(私には)見える。

資本が政治を支配する方法は、自由主義や民主主義の中に介入することである。自由主義は資本を握る一部の人間の自由であり、民主主義は資本が支配するマスコミと選挙を通した間接民主主義である。その結果、人々の意思は一部資本家の意思となり、真実も一部資本家の真実となった。

人間は言葉を発する動物である。言葉とそれを話す人間は、言葉に込められた内容を真実として受け取ることを前提に出来ている。それは遺伝子的なものだろう。しかし、真実を知るための作業がどの様に厳しいかを知る人は一部である。その遺伝子からも金からも一定の自由を獲得するのは、その訓練を受けた人のみである。

人間社会で、言葉から自由を最初に獲得したのはお金だろう。(補足1)お金に支配された人間は、真実を話さない可能性は、古来よく知られている。近代経済の下で、お金は大きな束になって資本と呼ばれ、大多数を占めるそれほど知的でない人たちを対象にしての話だが、言葉の上でその本性を隠すことに成功した。

それら大多数の人たちを味方にするには、マスコミと間接民主制があれば良い。そして、資本を支配する一部の人は声高に叫べば良い。「自由を守るための急進主義は、いかなる意味においても悪徳ではない。そして、正義を追求しようとする際の穏健主義は、いかなる意味においても美徳ではない」と。(ウィキペディア、新保守主義参照)

自由とは誰の自由なのだ。正義とは誰が定義するのだ。上記は、そんなことを心配する層を元々相手にしての言葉ではない。

その言葉から自由になる風潮は、大多数の人たちの正常な言葉を話す習性:「自分は真実を語り、他人の言葉を信じる」を破壊しつつある。(補足2) バベルの塔の崩壊の近代版だろう。バベルの塔とは、世界の近代科学技術文明であり、より具体的には自由主義経済および民主主義政治である。

補足:
1)お金が言葉から自由を獲得したのは、お金がゴールドから、ゴールドの預かり証となった時に始まった。その預かり証の発行権限を独占したのが、英国ロスチャイルド家であり、その末裔が現在世界のお金を支配している。ネイサン・ロスチャイルドは、ナポレオンがドーバー海峡をわたり、英国を支配するという情報を得たかの様に、英国の公債を投げ売りした。暴落したあと、それを買い集めて巨万の富を得、その結果英国銀行の経営権を国王から獲得した。

2)森友問題、加計問題、セクハラ疑惑、などなど、現在の日本の表舞台では嘘が大股で闊歩している。

2018年5月21日月曜日

「和を貴ぶ心」は、日本文化の良き伝統なのか、それとも病的側面なのか?

1)安易な妥協はこの国の悪しき慣習である。安易な妥協とは、真実を明らかにせず、問題解決のための努力を避け、取り敢えず争いを中断して、日常に戻ろうとすることである。(補足1)

日本人のこの習性は、大昔の厩戸皇子(昔、聖徳太子と言っていた)が作ったとされる17条憲法の第一条にある、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」を、宗教のように学校などで教育した結果だろう。

その大元にある聖徳太子は、実は存在しなかったという説が有力である。聖徳太子が実在しないのなら、17条憲法も日本書紀を書いた人間の創作だということになる。(ウィキペディア参照)日本書紀が、今日我々が持つ西欧的な歴史観によれば、研究資料として意味がない。それは岡田元次著の「歴史とはなにか」に書かれている通りである。

日本書紀を日本の歴史であると主張する側と、それを受け取る民との間の安易な妥協が、そのようなイカサマ歴史を定着させたのだろう。つまり、真実を明らかにせず、安易な妥協を続けてきた結果が、この日本の体たらくである。

現状の和が貴いのではなく、和を保つことが尊いのである。和を保つ為に、不断に生じる争い事とその大元にある真実を明らかにし、それを取り除かなければならない。そのためには、一定のレベルの争いは絶えることはないだろう。 

その争いを、「忤ふること無きを宗とせよ」は、封じている。一旦本当の和に達したとしても、その状態はしばらくして偽りの和に変化する。なぜなら和をもたらす状態は、時間とともに変化するからである。 

そんなことも理解して来なかったとしたら、この国の民は哀れである。  

2)名古屋にゴミ屋敷がある。そこの住民は、父親が経営する会社の常務であったという。その父親が死去して以来、家族内で生じたゴタゴタの結果、居場所がなくなったようである。一種の精神疾患に罹ったこの家の主は、15年前位からゴミを集めだし、元はお洒落できれいな三階建の家をゴミ屋敷としたようだ。http://www.jprime.jp/articles/-/11218 

このゴミ屋敷をなんとかしてほしいと、市役所に相談が持ち込まれたのが2008年だというから、その後10年間行政は何もしなかったようである。上記サイトには、経緯がかなり詳しく書かれているが、最後に書かれている結論は間違っているだろう。

関西大社会学部教授の池内裕美という方の、「そのゴミ屋敷の持ち主は、ホーディング・ディスオーダーという病気です」を紹介し、今後の市役所の対応に期待するかのように書いてその文章を閉じている。しかし、病気なのはそのゴミ屋敷の主人だけではない。

日本国は、ゴミ屋敷を10年間大都市の真ん中に放置するという重病なのだ。(補足2)安易な妥協を許さず、行政も乗り出して一悶着起こしておれば、1−2年で解決していただろう。それがこのような記事を書く場合の結論でなくてはならない。仮に、「和を以て貴しとなす」を1000年以上も神聖視してきたとしたら、日本文化は病的だということになる。 

補足: 

1) 森友問題と加計問題、ともに内閣と事務方の安易な妥協の産物である。安易な妥協の社会は、ごね得の社会でもある。外交においても、自国の利益を最大限にする努力は、安易な妥協の国の外交官にはできないだろう。

2)近所の住民はトラブルを避けて、何もできない。行政も、ゴミ屋敷の私権を強引に制限して、ごみ撤去命令と強制執行などをしない。ゴミ屋敷の主人の甘えも一種のごね得である。

2018年5月19日土曜日

政治は巨大なチームでの戦いである:官僚の体たらくは政権全体の機能不全の一側面

1)政治は巨大なチームでの戦いであり、政治家には大勢の官僚の組織的な助けが付く。そして、チーム戦に勝つには上からの適切な指示と下の忠実な実行が不可欠である。そのためには、下に位置する人間が上を高く評価し、上の人間が下を信頼するという、チーム全体の仕事上の関係が必須だろう。(補足1)

その際、上からの指示が適当でない場合も当然あり得る。その時には、上下で2-3回往復する意見交換が当然だと考える、環境(仕事場の人間関係)が不可欠である。そのことを田中角栄は、大蔵大臣就任時に官僚に向かって就任挨拶の中で訓示している。https://matome.naver.jp/odai/2148553888159033501

チーム戦では、成功や失敗はチームのものであり、一人の人間にその功績や責任を押し付けることは出来ない。つまり、政治において失敗があれば、それは間違いなく全体の失敗であり、トップが責任を先ず明らかにしなければならない。それがなければ、最前線で人生を賭けて仕事ができる筈がない。大蔵省のトップになった田中角栄は、そのように訓示したのだと思う。

その結果として、個人のレベルでの責任や栄誉が決定されたとすれば、それは納得の行くものだろう。その責任や栄誉の人事に於ける反映が、組織の新陳代謝となると思う。昨今の内閣のように、不適切な事がなされたかもしれないが、それは“忖度”により為されたことで、トップに違法性があったわけではないと言い張るのは、上記組織での戦いにおける尋常な姿ではないだろう。

仕事をチーム戦と捉える体制と、その各層が目的を共有して自由で現実的な対応をし、結果を生む政治が自由主義政治(リベラリズム)だろう。失敗を全て下に押し付けるのは、硬直した全体主義の特徴である。

そんな当たり前の図を、佐藤優さんのくにまるジャパンでの話を聞いて、思い出した。現在、日本は非常に深刻な情況にあることがわかる。https://www.youtube.com/watch?v=qdF4OfCXjS8&t=1007s

2)安倍総理がパレスチナ、イスラエル、アラブ首長国連邦など、中東を訪問した時、ネタニヤフ首相の晩餐会で、靴をデザインした容器にもられたデザートが出された。明らかに侮辱的な対応である。https://www.sankei.com/world/news/180508/wor1805080062-n1.html

その10日程経った5月14日、米国はイスラエル大使館をエルサレムに移した。その式典には、トランプ大統領の娘であるイバンカ氏が参加した。チェコなど米国に強く依存する数か国も代表を送ったが、日本は送らなかったようである。パレスチナ自治政府は、この式典に参加した国々から政府代表を引き上げさせた。https://www.jiji.com/jc/article?k=2018051700203&g=int

5月上旬にイスラエルを訪問したのだから、日本も米国のこの式典に参加したらどうか位のことを言われたのかも知れない。そこで快い返答が得られなければ、当然、靴のデザートくらいはあり得るだろう。何故、この微妙な時期にパレスチナとイスラエルを次々に訪問したのだろうか? 外務省はまともに準備を進めてきたのだろうか?

3)更に重要なのは、外務省は北朝鮮問題を巡る外交で、まともに仕事をしていないという指摘が佐藤優氏によりなされている。

米朝会談の後で、マティス国防長官が日本に来て、小野寺防衛大臣と会談するよう調整中だという。また、6月中〜下旬にトランプ大統領が日本に来るという計画もあるようだ。
https://mainichi.jp/articles/20180518/ddm/002/030/137000c 
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30438010T10C18A5MM8000/

しかし佐藤氏は、「米国から「重要な会談は終わった。その結果だが、日本にはこのようにしてもらうと決まったと、報告と要請を米国から受けるのでは、日本外交が機能しているとは言えない」と言う。

米朝会談において、朝鮮戦争の終結と北朝鮮の核廃絶に関してのみ話し合われるのなら、朝鮮戦争に関与していない日本に出る幕はほとんどない。しかし、核廃絶との絡みで、その条件となる筈の北朝鮮の経済支援とその後の東アジアの平和維持体制について議論されるのなら、日本がその話し合いの中に主要メンバーとして入らなければならない。相当の経済的負担が予想されるのだから、当然である。(補足3)

この重要な件で、日本が完全に外された格好になっているのは、外務省の不作為の罪だという。その様になった原因として、佐藤氏は二つ上げている。

その一つは、日本の対北朝鮮問題の考え方として、拉致問題の解決を前提に置いてしまっている政治姿勢である。この拉致問題の解決を前提におく日本の姿勢が逆に壁になって、拉致問題の解決どころか、日本の北朝鮮外交全体が動かないことになっているのである。それを、「日本外交が、拉致問題に拉致されている」とブログ記事で表現した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43642299.html(補足2)

そしてもう一つは、安倍内閣の行政を進めるため、「忖度」を含めて一生懸命にやっても、ちょっとうまく行かなければひどい目にあう可能性が高いので、官僚たちはふとんを被って寝ているのだと話している。つまり、日本政府が巨大チームとして機能していないということである。

このような状態では、安倍政権では肝心なところで政治停滞を生じるような気がする。以上、一有権者のメモです。

補足:

1)仕事上の関係であって、そこにプライベートな部分を混ぜるべきではないと、最近のブログ記事に書いてきた。

2)尚、この考え方については、一月前にも独立した記事を書いている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43631245.html

3)日本の経済援助は、1〜2兆円とも言われる。日韓基本条約では、韓国を朝鮮半島唯一の国家という合意の下に、経済協力が為された。従って、韓国が北朝鮮を併合すれば、そのような経済支援の根拠はない。その日韓基本条約との関係をどのように考えて、小泉政権のとき日朝関係の構築を目指したのだろう。そこから、レビューして、国民に明らかにすべきだと思う。

2018年5月15日火曜日

スター選手の生まれる理由から、集団の形成と機能化を考える

1)大谷選手は、今米国大リーグ野球で大活躍している。米国でも日本でも大変な人気である。その人気とは一体なになのか? 

自分自身が大喜びをしていながら、ふと「大谷が本塁打を打ったのを見て、いったい何が嬉しいのだろうか?」と疑問に思った。それは大谷選手の業績であって、自分の業績ではない。それなのに、何故大谷が大活躍して嬉しいのだろうか。そんな疑問を持ったのは、日本人だけでなく米国人の間でも、大谷が直ぐに人気者になったのを見たからだろう。

大谷が大活躍して、大谷の将来の推定年俸は大幅に上昇しただろう。その利益は、当然大谷周辺から流れ出る。その近くの人、例えば親や兄弟など、そして、大谷がよく買い物をする店などは、当然大喜びするだろう。そして日本人が勝手に、“我らがヒーロー大谷”と神輿に上げて大喜びする。そこまでなら、何時もあることなので何の不思議も生じなかっただろう。

しかし、テレビ報道によると、米国人も大谷翔平に興奮しているようだ。どうもスター選手の存在理由は、近くに見える利益以外にあり、人間の本性に由来するらしい。恐らく、無意識のうちに、そのスターの一部に自分がなって居る気分なのだろう。

そこで少し心理学の方の記事を見ると、自己同一化という言葉があった。これだと思い、大谷人気の謎が解けた思いになった。自己同一化は、恐らく群れる習性の動物が一般にもつ性格だろう。むしろ、群れる為に存在すると言った方が良いのかもしれない。 そして、そこから考えたことを以下に書く。オリジナルな部分を含む可能性もあるので、批判等あれば歓迎したい。

2)群の形成と機能化には、二つの力が原動力となる。一つは群れの結束を作る、個体間の共感であり、もう一つは群れリーダーへの自己同一化である。前者は、砂粒子の凝固と類似している。また後者は、上記スター選手への自己同一化に酷似している。

先ず、個体間の共感による集団化と砂粒の凝集との類似を説明する。石川啄木の歌集“一握の砂”に、次のような有名な歌がある。 「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」と、 「しっとりと なみだを吸へる砂の玉 なみだは重きものにしあるかな」である。

砂粒子だけでは、サラサラとして指にも引っかからない。その悲しき砂の粒子が、涙を吸収して玉のようになるのである。その涙の力を啄木は「重きものにしあるかな」と詠んだのである。人は一人では生きていけない、悲しい砂のような存在である。一人一人では何もできない、まさに乾いた砂の粒である。そこに、人同士の共感が加われば、集団となり生きることが容易になるだろう。

-------------------- 自然科学系の知識のある方のために、砂粒子の水分による凝集の原理を補足に解説する。(補足1)この知識から、アポロ11号の飛行士が月面につくったという靴跡が偽物である可能性が極めて濃いと、ブログ記事に書いた。興味ある方は参照してほしい。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html-----------------

一人が涙を流せば、隣も涙を流すだろう。一人が笑い出せば、周りも笑いだすだろう。他のグループの者を誰かが憎めば、周囲も憎むだろう。その集団に行き渡る感情は、目と耳と心で伝搬し共有される。それが言葉の助けを借りて、より広い範囲に伝搬するのが、山本七平の研究した「空気」だろう。いずれも非論理の世界の、人間の心理現象の本質であり、共同体を構成する原理だろう。

3)自己同一化は、集団の中からリーダーを選び出し、その集団を一つの方向に導くように機能化する。孤立した集団があり、且つ、リーダーが居ない場合、そしてその集団が危機的状況にある場合には、強い共感による集団化で、個体の境界さえ明確でないお粥のような状態が生じるだろう。

一旦は混沌状態となった群れの中から、自己同一化(或いは自己同一視)の作用により、ある特定の個体の周りに結晶化のように、リーダーシップが発生すると想像する。そのように機能化した集団は、鬼にも神にもなり得るくらいの強い集団となるだろう。全体主義的集団の発生のモデルである。

その自己同一化は、英雄への憧れの原理であり、英雄と行動を共にする心理を産むのだろう。生死を賭けて集団どうしが戦う古代史の世界における、宗教の発生メカニズムだと思う。(補足2)また現代では上述のように、個人の鬱憤や孤独感という限られた部分でのエネルギーを解消するための、英雄誕生のメカニズムだろう。

ここから日本の政治をこの視点で考えてみる。既に集団にリーダー予備軍がいるので、自己同一化と呼べないレベルの漠とした民意でリーダーが選ばれる。しかし、これまでの昭和の歴史が証明しているように、そのリーダーに本来の資質がない場合も多いので、政治集団はまともに機能化しないだろう。55年体制という事なかれ保守主義の体制が、米国の方を向いた官僚システムに政治を丸投げしていたように見える。

現在の日本のように、危機的状況とは程遠い状況下では、政治家は過去に形成された貴族階級(補足3)、スポーツやテレビタレントといった別の分野でリーダー予備軍になった者たちなどの中から、その階層内の順位に従ってリーダーが選ばれるのだろう。

その為、国民一般の自己同一化は、ほとんど生じて居ない。過去、小沢一郎、小泉純一郎、橋下徹、小池百合子などが、ブームを作りかけたが、結局国家を動かすレベルのリーダーにはなれなかった。貴族階級からリーダーが出る限り、そして比較的平和な時代が続く限り、国家が全体としてまとまるようなことにはならないだろう。

補足:

1)以下少し理科の方の専門的な話になるが、砂粒子はいくつかの種類の原子が多数集合して出来ている。カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、ナトリウム(Na)、シリカ(Si)、酸素(O)、炭素(C),などである。砂の内部の原子に比較して表面の原子は、エネルギーの高い状態にある。エネルギーが高いのは、それら原子が化学結合の不足により、例えば電子などの足らない不満足な状態にあることによる。粒子と粒子がぶつかれば、そのための多少の引力はあっても凸凹のある表面のために融合できない。そこで、次の瞬間には反跳する。しかし、そこに涙が注がれると、涙が境界面に沿って隙間を満たすことでき、その不満足状態が一部緩和される。それが砂粒子の凝集現象である。一般にどのような粒子でも、表面はエネルギーが高くなっており、面積あたりのそのエネルギーを表面張力という。

砂表面は普通親水性であり、それが硬く固まるには、通常水分が不可欠である。それが無い月表面で、アポロ11号のオルドリッチ飛行士がくっきりとした靴跡を残せるのか?というのが、アポロ月面着陸捏造論の根拠である。「足跡から足がつく」とはよく言ったものだ。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html

2)日本のアマテラスや、西方のヤハウェ神を想像するのは、恐れ多いことである。最近の全体主義的集団としては、オーム真理教がある。しかし、リーダーが誕生するまでは孤立集団ではなく、開放的集団として存在したので、このようなケースではないだろう。このケースで興味があるのは、奇跡がどのように集団形成に影響したかという問題である。

3)現在、日本の政治家には世襲制的な人が多い。日本では、政治空間が層状に出来ており、彼ら保守党の政治家たちは、封建領主のようにその地位を世襲している。その特異性を政治学の連中は指摘していないのだろうか。指摘しているとした場合、それが日本の政治に寄与しないのはどうしてなのか? この辺りは、自然科学系の私には全く知る由も無い。

2018年5月12日土曜日

パブリックとプライベートの峻別でセクハラは減少する

以下、昨日の続きです。別角度から考えてみました。

1)西欧の政治文化の特徴は、パブリックとプライベートの峻別だと思う。パブリックな空間を支配するのは法、真実、論理であり、プライベートな空間を支配するのは、情と利益である。

前回のブログで明確に言えなかったのだが、最近の日本のセクハラ騒動の根底に、この国の文化におけるパブリックとプライベートの混在、或いは、パブリック空間での行動に不慣れな日本人の文化があると思う。それをより顕在化させた背景には、近代経済による社会変化、特に女性がパブリック空間で活動することが多くなったことがある。

パブリックな空間を意識することは、大人として行動することの中で教育されるのが普通である。しかし、その大人の世界に出ても、日本人は人と人との関係を深める方法として、プライベートな空間を共有する形の付き合いを多く使う。

その典型例は、会社帰りの飲み会などである。勿論、食事を共にするという方法で人間関係を深めるというのは、西欧でも主要な方法の一つだろう。ただ、一定の作法などにより食事会と言ってもパブリックな空間を互いに意識する範囲に置かれているのではないだろうか。日本の飲み会では、むしろ敢えて作法無視することがルールの様である。

セクハラが頻発する背景には、そのような日本人社会の文化もあると思うのである。

2)日本社会は、パブリックとプライベートの区別が不得意だとすると、その影響は主にプライベートな空間、例えば家庭などにも及んでいるのではないだろうか。つまり、我々日本人はパブリックとプライベートの間を自分の意志で移動する、所謂大人としての行動様式を失いかけている可能性がある。(補足1)

つまり、いささか言いにくいのだが、日本人は西欧の物差しで測ったとき、大人になり切っていないのではないだろうか。(補足2)

その典型例として、以前のブログで人気テレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯」を取り上げたことがある。日本の田舎を巡って番組を作るのだが、一度カナダかどこか外国で同じ調子の番組を作ろうとして失敗したのを見たことがある。そこでは、大きな60代位の男性に鶴瓶師匠が子供扱いされ、話が通じなかったのである。(補足3)

鶴瓶師匠の親しみある人柄と巧みな会話術は、互いの個人の壁を取り除いて、まるで子供時代からの友達のような雰囲気(空気)を短時間に醸成するのである。しかし、それは容易に子供時代の付き合いに戻ることのできる日本に限られるのではないだろうか。個人の壁が明確に出来上がっている欧米では通用しないのだ。”そのように記事に書いた。  https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42895338.html

鶴瓶師匠の田舎探訪は、プライベートな付き合いに田舎の人々を誘い込むことで、成立している。そのような会話法が、信頼できる人間関係醸成の方法であると日本では考えられていると思う。パブリックな空間での対人関係の基本は、言葉と論理で、利益を共有する付き合いでなければならない。そこにプライベートな関係構築を持ち込むのは、調味料程度にすべきなのだろう。

子供的な、肌と肌の付き合いを、人間関係を深める基本的手法と考える日本文化は、そのままセクハラを生む土壌である。そのように考えると、財務省次官の問題となった場面での言葉を少し変形すれば、母親と子供の光景を想像させる。以上、昨今の日本にセクハラ疑惑が多い原因として指摘したい。(補足4)

3)話が飛びすぎると感じる向きも多いだろうが、日本の晩婚化と少子化も、上記日本社会の変化と関係があると思う。雇用形態が終身雇用の年功序列制から変化したことも関係あるのだが、それには今回は触れない。

昭和初期までの時代には、地域共同体の中で適当と思われる相手を探し出して、一緒にさせるという結婚が多かった。共同体は、情の支配という点で、ここで言うプライベートな部分を多く持つ空間である。そのような社会では、若者の間に、例えば映画「太陽がいっぱい」の中でのような、女性を獲得するという男性の戦いはないだろう。(中年のドロドロとした事件はあるだろうが。)

そのような地域共同体は、近代工業化社会の出現により一部に残っていても形骸化しつつある。パブリックな空間の比重が増した現在の都市型日本社会の中で、男女が互いの配偶者を独力で探し出す文化が発生し定着するまでには至っていないのである。

晩婚化や少子化の背景にヒト固有の要因も在る。動物のオスには、タンチョウ鶴の優雅なダンスや、ライオンの激しい戦いなど、かなり厳しい成獣になる為の関門がある。一方、人間の男性には、一夫一婦制が敷かれると同時に、動物が持つ異性獲得の厳しい戦いは、社会での地位とか経済力などにおける間接的な競争はあるものの、消滅していると思う。

それに加えて、日本など徴兵制など通過儀礼的なものが、男性にはない。唯一就職という関門があるようだが、経済発展により生き残る上での戦いの場面も、あまりない。そのような環境で、世の男性達は精神的な部分において、益々小児化する傾向にあるのではないだろうか。それが少子化晩婚化の理由であり、先進国での人口減少の一つの原因のように思う。

補足:

1)社会学にゲマインシャフトとゲゼルシャフトという言葉がある。主に情で成り立つ共同体が前者で、利益を共有する機能体(機能社会)が後者である。ここで言うパブリックな空間というのは、ゲゼルシャフトの意味ではない。それら両方、つまり社会一般、における法(ルール)と論理の支配する部分を指す。念のため補足する。

2)マッカーサーの連合国司令長官を解任されたあとの議会証言でのことば、「日本人は未だ12歳である」を思い出す。

3)つまり相手にされなかったということである。翻訳は万全でも、言葉が通じない場面を始めてみたような気がした。その大きな白人男性は、子供同士の掛け合いのような鶴瓶師匠の調子に乗ってこなかったのである。

4)西欧のセクハラは、日本よりも件数は少ないのではないだろうか。しかし、より深刻なケースとして、摘発されるのではないかと思う。日本のケースでは、男性側で意識が薄弱なために起こるケースが多いと思うので、件数は多いのだが多くは灰色領域のものだろう。統計を取ったわけではないが、上記議論の延長から推測する。

2018年5月10日木曜日

近代社会の公明正大な運営は可能なのか:セクハラ騒動を手がかりに考える

昨今、男女共同参画が政治の重要課題として考えられるようになった。そして、女性の社会進出が進む一方で、セクハラが重大な社会問題となっている。ここでは、セクハラ問題を手がかりにして、社会の変化に追随できていない人類の文化について、その一端を考えてみたい。

1)これまで男女の違いは、男女分業という形で文化の中に取り込まれてきた。明治以前の日本では、女性は家事や看護に、男性はそれ以外の生産、経済、社会、政治などの諸活動を主に受け持ってきた。その男女分業の形態は徐々に破壊され、家事、看護、介護なども部分的には社会の中での経済活動に組み込まれることになってきた。

この社会変化を別の視点から観察してみる。人間の活動の空間には二つある。プライベートな空間と、パブリックな空間である。(補足1)上記明治以前に女性が主に分担してきた仕事は、このプライベートな空間でのものであった。その女性の役割分担が、近代経済システムによりパブリックな空間に持ち込まれたのである。

その結果、プライベートな部分の縮小、女性の社会進出、セクハラの増加が、協奏的に進んだと考えられる。

パブリックな空間を仕切る物差しは一つであり、公明且つ平等であるべきである。そこには当然のことながら、エロ・グロ・ナンセンスなどの入り込む余地はない。一方、プライベートな空間では、夫々個人の嗜好や価値観がその行動などを仕切っている。全ての人の個性は、そのプライベート領域内で発揮される限り、問題とはならない。

そのように考えると、このままの社会変化の方向を受け入れ、且つ、社会の構造になんらかの工夫をしなければ、そして男女の役割分担の関係を考え直さなければ、社会、国家は弱体化するだろう。何故なら、セクハラ防止などの看板と役立たずの理屈屋だけの無能者が牛耳る空間に、このパブリック空間がなってしまう可能性が高いからである。 2)高度な文明社会の構築と維持には、当然多様な人材が要求される。分かりやすく例を上げれば、監察医や解剖医から哲学者や自然科学者、農耕など第一次産業従事者から高度な第三次産業従事者、兵士から政治家まで、幅広くその役割は分布する。多芸人間という型で、人間が量産されたとしても担いきれないだろう。それら多くの個性ある人々を一つのパブリックな空間に押し込み、其処からたまにはみ出してしまった個性的行動を犯罪として切り捨てる場合、社会が成立するだろうか?

早い話、「英雄は色を好む」のが仮に真実なら(補足2)、この国の運営者は英雄的人物を避けて、凡人の中から探すことにするのか?

その問題を考えないで、誤魔化してきたのが今までの世界である。誤魔化しの方法の一つは、上記パブリックとプライベートの社会の境界をボヤけさせる方法である。

日本では、その境界の一部をヤクザなどが崩れないように支えてきた。この件に関して、元公安調査庁の菅沼光弘氏が解説している。日本は古来ヤクザが社会の機能の一部を分担してきたという歴史があった。それは、米国のマフィアとは異なるという話である。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40

一方、もう一つの誤魔化しの方法は、ローカル・ルールと二枚舌である。その典型例は、ラスベガスなどの賭博やりたい放題の地域や、CIAなどの超法規機関などの設営である。(補足2)CIAが何をどういう理由でやったのかについて、一般の公空間に向けて説明するとした場合、二枚舌を使う以外にはないだろう。

以上、セクハラという問題から、「人間の本性がパブリックな空間にはみ出た場合に、それを切り捨てるだけでこの複雑高度な社会に生じた問題の解決が出来るのか」という問題提起である。これ以上の議論は、現在頭が回転しないので止める。ただ、近代文明の方向をこのまま進むのは何かと危険だろう。一度立ち止まって考える必要があると思う。

補足:

1)パブリックとプライベートは対の概念である。日本では「公の」とか「公共の」という意味だと訳されるが、ちょっと違う。Public=「公共の」と考えると、パブリック・スクール(イートンやラグビーなど英国の私立学校)やパブリケーション(出版)が理解できない。

2)普通の平職員に要求される基準でセクハラを”国家の英雄候補”に適用したとして、それで平職員をセクハラで失うのと同じプロセスで、国家を救う逸材を逃してしまっても良いのか?ということになる。もっと卑近な例では、相撲界での”可愛がり”がある。そこでも、事務職レベルの社会におけるパワハラや暴力を測る物差しをあてて、測って良いのかという議論ができるだろう。

3)CIAやMI6を取り上げるのは、ちょっと次元が異なるようなきがする。しかし、民主主義の看板だけでは国家の運営は出来ないということを、何かにつけても言いたいので取り上げた。

(19:00 編集)

2018年5月8日火曜日

米朝会談は本当に開かれるのか?

米朝会談の場所がシンガポールになる可能性が示唆されている。トランプ大統領は板門店での開催に意欲を示していたが、側近が第三国を主張しているということであった。https://news.yahoo.co.jp/pickup/6281517

金正恩が開催地に拘るのは、警護上の理由と面子の問題である。危険性は二つ、自身が暗殺される危険性と本国でのクーデターである。面子の問題は、国内に威信を示すためにトランプ大統領を半島に呼び込みたいと言うことである。

トランプ大統領が板門店で良いと考える理由は、朝鮮戦争の終結と講和での業績を、ノーベル委員会などにアピールしたいためだろう。元々米国を中心に考えるトランプ大統領は、核兵器が中東へ流れなければ、北朝鮮が持つこと自体をそれほど嫌がっていないと思う。しかし、側近はそうではないだろう。やはり、北朝鮮よりも遥かに工業力に優れた韓国や日本への核拡散を危惧していると思う。

側近が中国以外の第三国を主張する理由は、金正恩が警備上の理由で嫌がる理由の裏返しと、更に、中国や韓国に交渉の主導権を握られることへの懸念であると想像する。そして完全な査察付き不可逆核廃棄(CVID)の事前実施(リビア方式)に拘るだろう。

韓国大統領の文在寅が22日に米韓会談にワシントンで臨む事になっているので、金正恩の南北会談での宥和の感覚は薄れるだろう。そこで、南北統一の道筋とそれと相関した形での米韓同盟のあり方、北朝鮮の非核化が話し合われるのだろうが、米国側は後者に韓国側は前者に重点を置きたいのではないだろうか。

金正恩は北朝鮮による朝鮮半島の短期間での統一を考えているだろうし、文在寅は長期間での段階的な対等合併への道筋を考えているだろう。

このように、米国内部も不均一であり、金正恩の北朝鮮も万全な体制ではないだろう。また、文在寅も具体的プロセスになるとかなり金正恩と考え方が違うだろう。このように関係者が多く居て、外から見て明確に見える程度の基本的な思惑の分裂があっても、尚話が円滑な局面を推移する形で進むとは思えない。

その様に、米韓も金正恩も同じように考えている筈である。どうしても、上で述べた様に、ドラスティックな局面をトランプではなくその周囲が考えていると想像する。そして、それを金正恩も非常に警戒するのが当たり前である。本当に米朝会談は開催されるだろうか? 板門店ならともかく、シンガポールでは無理ではないのか?

2018年5月5日土曜日

「他の命は厄介なもの」という視点と戦略的外交

1)人は他の人と協力して生きる社会的生物である。その方法として、自分を大切にする感情を他人など他の生命の上に投影する特技をもっている。対象が人間ならば、それは人間愛という言葉で表現することになるし、動物なら動物愛護となる。

それを道徳に一般化した「命は尊い」という言葉があり、普通それが絶対的道徳(又は真理)のように言われている。しかし、それは文明が作り上げた一つの思想であり、自然の原理からは普遍的ではない。「命は尊い」は、単に上記人間の社会性を誤って普遍化したものだろう。

例えば、自分以外の命は、自分の利益を侵害するまで近づいた場合、厄介な存在となる。そして、その「命は尊い」という思想が具現化していない場面が常にどこかで発生している事実に、意外と人は無頓着である。つまり、「命は尊い」の部分で普遍的なのは、「自分の命は尊い」に加えて、「自分と利害を共有する命は尊い」の部分だけである。

例をあげると分かりやすいかもしれない。「人を殺してはいけない」はモーゼの十戒の中の6番目に書かれている。それは旧約聖書では神との契約としてある戒めであり、従って、基本的に同じ神の下にいる人間を対象とした話である。聖書にはいたるところに、異教徒に対する戦争が出てくるのは、従って不思議でも何でもない。

また、他の生物の命の危機を対象にして、普遍的な道徳基準としての「命は尊い」を持ち出すのは、大きな間違いである。その感情は冒頭の「自分を大切に思う感情を他人など他の生命の上に投影する特技」の自然な(しかし正常な)副作用に過ぎない。つまり、他の生物の命の危機を見て、自分の存在が危うくなる場面を連想するという作用である。誰でも、自分の命が軽視される場面を見たくないからである。

  命は自身の存在を主張し、そこに障害になるものが現われれば排除しようとする。私が他の命(例えば人)の障害になったのなら、目の前の他の命は私が消滅すれば良いのにという感情や欲望を持つ筈である。その命が何故尊いのか?その言葉を金言のように言い伝えるのは、少なくとも論理に生きる近代人にはふさわしくない。 

2)命は、他の命を厄介な存在だと見做す。それが自然な姿である。鯨が哺乳類でその命が尊いと考え、捕獲して食べる他国人の文化を攻撃し、捕鯨船に体当たりをする人間が西欧諸国でもてはやされた時期が続いた。西欧が其の愚に気づくのに、長い時間を要した。 http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51887652.html

自分の命を大切に思う感情を、近くの動物園の可愛いイルカに投影することの方が、恐ろしいチンギス・ハーンに似た、見知らぬ東洋人を対象にするよりも簡単だからである。それを悪意に解釈すれば、「歴史的にも厄介な存在だった東洋の異国人の命よりも、近くの動物園で芸をするイルカなどのクジラの命を大事に思う感情があったからである」となる。 

我が国の人間にとって、生存上ライバルとなる他国の人たちは、第一近似として鬱陶しい存在である。その逆も正しい。その考えを「善隣友好なる普遍的国際道徳に反する」という理由で、門前払い的に否定しようとするのは愚かなことである。その感情は正常であると認める一方、それが行き過ぎると互いに害をもたらす可能性が大きいので、現実的な利害調整で抑えるべきである。 

ここ数年、韓国が主張している徴用工問題も慰安婦問題などと並んで鬱陶しい話である。何故なら、日韓基本条約締結後には、問題としては最早存在しえない話の筈だからである。「元徴用工には日本政府に対して個人としての賠償権が存在する」と主張する文在寅大統領の非論理的な姿は本当に鬱陶しい。 

しかし、先ずすべきは「生命の原理から考えると自然なことである」と、相手の愚行に対する冷静な理解である。つまり、幼稚だが自然な行為であるという理解である。その次に、近代法治主義に反する韓国の上記企みを破壊する上で、日本は諸外国を味方に着け易い有利な立場にあると考えるべきである。 

そして、国際的な場を積極的に利用し、戦略的外交の展開により彼等の思惑を破壊すべきなのだ。それが出来ないとしたら、それは韓国の責任というよりも、日本の無能力の所為である。 

徒に感情に走り、戦略を忘れてはならない。韓国と反対側の日本の隣国にとっても、生存上競争相手となる日本は、本来鬱陶しい存在だからである。日本が戦略的に無能なら、韓国のバカな企みに、上手く相乗りされてしまうだろう。日本に正論を返されたなら、「韓国が、近代法治主義の原理に反して主張していたことなど知らなかった」とシラを着られるのが落ちである。

補足:

上記は、人間一般が関係するマクロな話である。それと、以下の例のようなミクロな話とは混同しないでほしい。

人間は、「自分を大切にする感情を他人など他の生命の上に投影する特技をもっている」と書いた。その特性により、特別な事情のときには自分の命を犠牲にできる唯一の高等動物だとも言える。例えば、小説「大地の子」中の、日本人残留孤児の主人公を連れ、養父母が共産軍の設けた関所(チャーズ)を抜ける際の話が印象的である。主人公の中国語がおかしいと思った守備兵に対して、養父が「自分が残るから、自分の子供を通してやってくれ」と頼み込んだのである。チャーズを抜けなければ死を意味するので、その覚悟を見て兵士は三人を通した。

(一部編集、補足追加、5月8日13時)

2018年5月3日木曜日

文在寅は米軍を朝鮮統一まで傭兵として使うつもりだろう

1)文正仁韓国大統領特別補佐官が、米外交専門紙「フォーリン・アフェアーズ」への寄稿文で「北朝鮮と平和協定が締結されれば、在韓米軍の存在を正当化し続ける事は難しい」と主張していた。

昨日のニュースによると、文在寅大統領は、文正仁特別補佐官にそのような発言をしない様にと警告するとともに、南北朝鮮との間で平和協定が締結されても、在韓米軍の韓国内での在留は米韓同盟の問題であり、両者は無関係であると述べた。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180502-00000030-jij_afp-int

米軍の韓国駐留は明らかに朝鮮戦争の再開に備えたもので在り、文特別補佐官は本来の筋論を言っているだけであり、何の間違いもない筈である。それに警告を加えることは、文在寅大統領が本来の筋論以外を考えていることになる。

つまり、文在寅の発言は在韓米軍に対する別の意図を示している。それは、米軍を韓国の傭兵として用い、核兵器を隠し持つ可能性の高い北朝鮮が、韓国と平和裏に統一できる体制になるまで、米軍を利用したいということだろう。

朝鮮戦争を終結し平和協定を締結したのちでも、韓国と北朝鮮は直ちに統一できるわけではない。北朝鮮がそのような体制になるまでに相当の期間を要するので、それまで北朝鮮が愚挙に及ばないように、米軍を韓国に在留させておきたいのだろう。

もう一つの目的は、当面米軍が韓国に在留することにしておけば、仮に北朝鮮の核廃棄が完全でなくても、韓国右派も心配しないで南北平和協定の締結に賛成できるのである。韓国全体が統一して北朝鮮との和平に動く為には、当面米国と米軍は必要なのだ。

「朝鮮半島の非核化と朝鮮半島の統一」という南北首脳会談の合意は、「北朝鮮の非核化」という米国をはじめ世界が注目している現在の問題を、徐々に「統一朝鮮の建設」へとすり替えるための仮目標だと思う。目標地点において、「非核化目標」を雲散霧消させる手品のテクニックである。

文在寅も金正恩も供に、非核化すべきなどとは思っていない筈である。

2)北朝鮮の経済状況が良くなり、北朝鮮国民も政府も、平和共存の雰囲気になれれば、朝鮮半島統一が可能となる。その際、どちらの体制が変化するのか?それによって、米国や米軍との関係も変わる。

北朝鮮の体制が変化すれば、米韓同盟は米国と統一朝鮮の間の同盟となり得る。韓国の体制が変化すれば、米韓同盟は廃止され米軍は半島から撤退することになるだろう。それは、半島全体が中華圏に入ることを意味する。

このどちらになるかは、中国や米国、そして米中関係の今後の状況次第だと考えているのだろう。そのように現実的に考えているとすると、文在寅は相当の戦略家だと思う。

その鍵を握るのが、中国ではないだろうか?中国が今後米国のような地域の派遣国として、軍事力とともに経済力もつけることができるのかどうかが問題の鍵だと思う。

どちらにしても、核兵器の保持は、統一朝鮮をひと回りもふた回りも大きくすることができる。中華圏の国であっても、米国との友好関係を保持することになっても、統一朝鮮は名誉ある国際的地位を持つことになるのである。

「核兵器あって初めて真の意味での独立国になり得る」ことは、「軍事力が外交力の背景である」を別の角度から言い換えたに過ぎないのだ。

金正恩は自由主義経済の方が有利であることを知っている。文在寅も金正恩も、大国への隷属関係は国内を腐敗させることを知っている。既に、真の友人関係を建設しているのではないだろうか。もしそうなら、日本にとっては、非常に手強い反日の隣国と今後付き合って行かなければならないことになる。大変な時代になると危惧する。

2018年5月1日火曜日

トランプはノーベル平和賞を最優先?

昨日配信のyoutubeに、みのもんたさんの司会する番組での、青山繁晴氏や武藤元(前)駐韓大使らをゲストを交えた南北会談を読み解く主旨の議論が、アップされていた。https://www.youtube.com/watch?v=IiQLSe2btBA

そこで参議院議員の青山氏が、米軍関係者に南北会談の感想を聞いたが、かれらは怒り心頭だったという話を紹介していた。そして、議論は五里霧中状態で、北朝鮮問題の解決において何の進展もないという不満だけが結論だった。そこで、以下のコメントを書いた。

「青山さんは、南北会談のときに米軍の意向を聞いたとおっしゃるが、どのレベルの方なのか?米軍の意向ではなく、トランプさんの意向を聞かなければ何もわからない。

この会談をどうするかについて、南北朝鮮はトランプ政権と打ち合わせができていたと考えるべきでは?何故なら、北朝鮮と米国は、ポンペイオ(当時CIA)が北朝鮮に泊まり込んで、既に綿密な話し合いをしている。更に、南北会談をトランプは評価しており、米朝会談にも自信ありげである。」

つまり、彼等は一応政治又は政治評論などでプロの筈だが、今回の朝鮮南北会談の評価において、その会談のみをクローズアップして見てしまい、その背景など含めた広い視野を取ることを忘れている。(補足1)ポンペイオの名前すら出てこない。それに、現場の軍の意見を聞いて、それでミスリーディングなことを青山氏は言っている。この人は米国軍に話をするコネを持っているのが自慢の人である。

昨日別サイトに書いたが、トランプは北朝鮮の核よりも朝鮮戦争の終結に感心がある。それをやれば、ノーベル平和賞に繋がるからである。そして、選挙に勝てるからである。そのため世界の目を、北朝鮮の核廃絶問題に対し米国が今後するであろう甘い対応から目を瞑らせることを考えた。それが、あのような一見感動的な南北宥和の場面のテレビ番組をプロヂュースした理由ではないのか。(昨日投稿の記事)

今後米国は、抜け穴だらけの北朝鮮の核廃絶を決めるだろう。元々民主党などには、北朝鮮の核兵器など認めれば良いという意見もあった。中国の核を認めたのと、同じである。金正恩は決してキチガイではなく、優秀なリーダーだと分かった今、敢えて核兵器をリビア方式で剥ぎ取るという危険なことをする必要などない。いい加減な形で核廃絶を演出しても、日本が核武装する危険性も全くない。

その後、韓国は北朝鮮との宥和路線を経済破綻しない形で行うという大変な仕事が残る。金正恩も”米国が怯んでいるのだから武力で南北を統一する”なんて、バカなことは言わないしやらない。南北朝鮮が連邦的になって、最終的には韓半島から米国を追い出し、日本には今後核兵器をちらつかせながら賠償金相当の経済支援金を脅し取ることになるだろう。そこに、金正恩も文在寅も、希望をもっていると思う。

トランプは、ノーベル平和賞をもらって万々歳だろう。中国や日本を経済戦争の相手にする可能性もあり、日本は泣きっ面にハチということになる可能性もある。日本政府は、国家存亡のときに、拉致問題を国防問題としてではなく(補足2)、西欧的人道問題と考えて北朝鮮問題の最重要課題のように扱った。その馬鹿げた政府のやり方のつけである。 
   ( 以上、素人の一有権者の意見として書きました。)

補足:
1)ものごとの評価には、マクロとミクロの二つの視点が最低限必要である。すぐ後にある米朝会談の準備に、国務長官になるCIA長官が訪朝して綿密に打ち合わせをしたことなど、最低限考慮すべきことである。

2)国防問題なら、憲法改正と国防軍創設が、拉致問題解決の最初に考えるべきことである。米国や韓国に、北朝鮮が拉致被害者を早急に返す様に交渉の一部を依頼するのは、単に人道問題として考えているからである。