2018年5月21日月曜日

「和を貴ぶ心」は、日本文化の良き伝統なのか、それとも病的側面なのか?

1)安易な妥協はこの国の悪しき慣習である。安易な妥協とは、真実を明らかにせず、問題解決のための努力を避け、取り敢えず争いを中断して、日常に戻ろうとすることである。(補足1)

日本人のこの習性は、大昔の厩戸皇子(昔、聖徳太子と言っていた)が作ったとされる17条憲法の第一条にある、「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」を、宗教のように学校などで教育した結果だろう。

その大元にある聖徳太子は、実は存在しなかったという説が有力である。聖徳太子が実在しないのなら、17条憲法も日本書紀を書いた人間の創作だということになる。(ウィキペディア参照)日本書紀が、今日我々が持つ西欧的な歴史観によれば、研究資料として意味がない。それは岡田元次著の「歴史とはなにか」に書かれている通りである。

日本書紀を日本の歴史であると主張する側と、それを受け取る民との間の安易な妥協が、そのようなイカサマ歴史を定着させたのだろう。つまり、真実を明らかにせず、安易な妥協を続けてきた結果が、この日本の体たらくである。

現状の和が貴いのではなく、和を保つことが尊いのである。和を保つ為に、不断に生じる争い事とその大元にある真実を明らかにし、それを取り除かなければならない。そのためには、一定のレベルの争いは絶えることはないだろう。 

その争いを、「忤ふること無きを宗とせよ」は、封じている。一旦本当の和に達したとしても、その状態はしばらくして偽りの和に変化する。なぜなら和をもたらす状態は、時間とともに変化するからである。 

そんなことも理解して来なかったとしたら、この国の民は哀れである。  

2)名古屋にゴミ屋敷がある。そこの住民は、父親が経営する会社の常務であったという。その父親が死去して以来、家族内で生じたゴタゴタの結果、居場所がなくなったようである。一種の精神疾患に罹ったこの家の主は、15年前位からゴミを集めだし、元はお洒落できれいな三階建の家をゴミ屋敷としたようだ。http://www.jprime.jp/articles/-/11218 

このゴミ屋敷をなんとかしてほしいと、市役所に相談が持ち込まれたのが2008年だというから、その後10年間行政は何もしなかったようである。上記サイトには、経緯がかなり詳しく書かれているが、最後に書かれている結論は間違っているだろう。

関西大社会学部教授の池内裕美という方の、「そのゴミ屋敷の持ち主は、ホーディング・ディスオーダーという病気です」を紹介し、今後の市役所の対応に期待するかのように書いてその文章を閉じている。しかし、病気なのはそのゴミ屋敷の主人だけではない。

日本国は、ゴミ屋敷を10年間大都市の真ん中に放置するという重病なのだ。(補足2)安易な妥協を許さず、行政も乗り出して一悶着起こしておれば、1−2年で解決していただろう。それがこのような記事を書く場合の結論でなくてはならない。仮に、「和を以て貴しとなす」を1000年以上も神聖視してきたとしたら、日本文化は病的だということになる。 

補足: 

1) 森友問題と加計問題、ともに内閣と事務方の安易な妥協の産物である。安易な妥協の社会は、ごね得の社会でもある。外交においても、自国の利益を最大限にする努力は、安易な妥協の国の外交官にはできないだろう。

2)近所の住民はトラブルを避けて、何もできない。行政も、ゴミ屋敷の私権を強引に制限して、ごみ撤去命令と強制執行などをしない。ゴミ屋敷の主人の甘えも一種のごね得である。

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