2013年8月18日日曜日

日本における善意と恨みの同根性

 一ヶ月ばかり前だったか、JR南浦和駅で、列車とホームで挟まれた女性を、短い時間で集まった約40人の人が32トンの列車を傾かせ、救出した。その様子が海外にインターネットで流されると、一瞬で出来上がった協力体制の素晴らしさに対して、驚きと感動のメッセージが返された。この出来事は、日本国に生きる人々の協調性の大きさと素早さを表していると思う。

 一方、山口県周南市金峰で、10戸ばかりの山中の集落で暮らしている人のうち、5人が撲殺され家が放火される事件があった。犯人は逮捕され、そこでの異常な人間関係が徐々に明らかにされている。逮捕されたとき、ある女性へのインタビューが放送されていた。その女性は、「これでやっと普段の生活が出来る様になり嬉しいです」と発言していた。わたくしは、このコメントに非常におどろいた。何故なら、人里に迷い込んで暴れるクマが、射殺された時のコメントの様だったからである。

5人を殺した人を庇う訳ではないが、そこまで追い込まれた人がパンツ姿で捕まった事実を想像すると、クマ出没の事件より、数段恐ろしく悲しい気持ちに襲われる。つまり、この女性を含め人の想像力というのはこの程度であるということである。

 この犯人は、以前、一人暮らしの老人の家の修理をしてやり、非常に親切な人だったとのコメントもある。また、学生のころ、いじめられた同級生を庇ったという話もあり、多少腕力に頼る傾向があるものの普通の人間だった筈である。( http://danshi.gundari.info/山口5人殺害%E3%80%80「あの優しかった男がなぜ」%E3%80%80事.html )

また、実際犯人は、“自分は村八分にされた被害者である”という意識があるということである。 (http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20130727-1163781.html

 日本人とくに田舎では、日常作業も互いに協力しなければこなせない情況にあった。例えば、昔、“結い(田植えの協力など)”や“講(伊勢講など)”などという協力体制がどこでもあった。つまり、隣人は互いに協力すること、またそれを実現する為に、互いに善意で接することを前提に生きる文化があった。そうは言うものの、人は自分の受けた親切行為と自分の行った親切行為の質と量を自分なりに計算している。その差引勘定に敏感な人もいれば、わざと鈍感になる太っ腹な人もいる。

善意で何かを行う為には、相手に何が不足しているかを想像する力が必要である。その想像力には個人差があり、通常、人は自分側の事情は良く見えるが、相手側の事情は想像力を働かさないと見えてこない為、殆どこの勘定を赤字と見る場合が多い。つまり、濃厚な人間関係の中で、その赤字勘定の不満を飲み込んで生きて行くことになる。また、それが善であると人々は幼少時より教え込まれる(調教される)のである。その為に、「和を以て貴と為す」とか「沈黙は金」などの箴言が多く用いられた。

 しかし、あるメンバーがこの赤字勘定が破産的に膨大になると感じたとき、その人は怒りをあらわにし始める。しかし、廻りの人々には同じ勘定が赤字には見えず、身勝手な奴という烙印を押すことになる。そこで村八分、強力な圧殺行為が、その他の集団の協調関係を維持するために行われるのである。これはまた、上記勘定を無視すること、つまり我を抑えることが如何に大切かを他のメンバーに教えることになる。ただ、その場合には少ない確率であるが、今回の山口事件や八墓村のモデルになった津山事件などが起こるのである。

 以上の考察で判る様に、この種の事件は稀な事件ではあるが、強力な協調的隣人関係を持つある種コストと考えられ、論理的に起こりうるのであり、その意味で異常ではない。(区切りを入れるなど、内容以外の編集をおこなった。2017/10/22)

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