2013年8月27日火曜日

善と悪:再考

 善を尊び、悪を憎んで人間社会が運営できれば理想的である。しかし、歴史上現実の世界はそのようには運ばなかった。この理想と現実のズレは、本質的なものなのだろうか?
 元々、弱い生き物に過ぎない人間は、大きなグループ(注1)を造ることで個人の多様な能力の総和をとり、全体として大きな力の集団を形成する必要があった。その為には、グループへの帰属意識とそのグループ内での揺るぎない結束(=信用)を作ることが重要である。家族関係にない個体間にも、固い繋がりを可能にするための背景として、“善と悪”という価値(倫理)が創られた。(注2) その結果、他の生物を圧倒することが出来、人間がその生存を懸けて対立するのは、他のグループの人間ということになった。もちろん他のグループでも、同じ様に“善と悪”を背景に構成員が結束している。このグループの形は、相似形をなすため、“善悪”という倫理的物差は普遍的に人間社会に君臨することになる。(注3)
 ところが、マルサスの人口論にあるように、地球は有限であるが人口は急速に増加するため、他のグループとの生存競争が生じる。必然として、人の歴史は戦争の繰り返しとなり、敵を討つ事がグループ内で評価される。その為、善悪はグループ内だけで成立する価値となる。私は、この人間生存のメカニズムが、自然現象のように進んだと思う。その結果、平均的な人間は敵地において、善悪を始め多くの人間的価値を脱ぎ捨てる事となる。しかし、この善悪に境界があることを常に認めると善悪の価値が崩壊するので、人類にとっては公然の秘密である。(注4)
 現代、上記グループとして最も適当な領域は、国というレベルまで大きくなった。近代史において欧米の民主主義が世界を席巻し、その結果善悪に適用領域を設けないで生きることが可能な世界国家を目指しているように見えなくもない。しかし、国際社会というかなり獏とした権威により、戦争にも一定のルールができ、(一定の範囲の国の間では)外交の中に包含することが出来る様になったのが精々である。(注5)
   現代政治の世界において、この戦争行為を大衆に向かって正当化することは困難である。そこで、理想主義と現実主義という二極を設けて、その後に理想主義を退けるという方法で、上記善悪の適用領域という問題を避けて来た。民主政治の根本的困難は有権者一般が大きな世界を俯瞰的に把握することが困難なため、理想に高い価値を置き、政治の世界の現実主義を汚いものとして嫌うことである。その結果、政治の世界は巧妙に嘘を用いて、この困難を克服?して来たと思う。(注6) また、人類の創る社会は国家のみではなく、複雑な多層構造を創っていることである。日本では、会社や官庁の省庁まで、共同体的グループである。その結果、善悪がその境界の内外で不確かになり、社会の信用環境を損なっているといえないだろうか。一神教の国では、要するに神の戒めに従うことが善であり、それで善悪からは自由になる。つまり、善悪を神に返すことで永遠の命を得ようとしている。注3) その結果、宗教以外のグループの地位は低下し、相対的に個人は自立する。「一神教、個人の自立、民主主義の正常な機能」の一組は、切り離せないのではないだろうか。(注7)
  『注釈』
注1) 人間は家族関係、血縁関係、地縁関係といった重複した社会構造を持つ大きなグループを作る唯一の動物である。
注2) 更に、大きな国家レベルでは、その中に多くのグループが多層的に含まれてくる。そのため、厳密な定義と強力な執行力を伴う“法”を併用することになる。その場合でも、善悪は社会生活を送るうえで、重要な信用という環境を養っている。
注3) 創世記によると、善悪を知る木の実を食べたイブとアダムは楽園から追放され、死ぬ存在、つまり生身の人間となったのである。
注4)知る人ぞ知るという意味。親鸞(浄土真宗)のことば、”善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”は、悪を人間が生存する上での必然と見抜いてのことばだと思う。
注5) イスラムの世界やアフリカを見ると、そして、現在頻繁するテロリズムを考えると、これも一時の幻想かもしれない。
注6) 欧米の政治家は嘘がうまい。太平洋戦争開戦時の、米国のルーズベルトなどが良い例である。
注7) 小沢一郎氏は日本列島改造計画において、民主主義には個人の自立が重要であることを論理的に説明している。

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