2013年8月31日土曜日

「携帯を持ったサル」再考

 携帯を持ったサルは正高信男氏の著書のタイトルである。携帯電話を持て余しているヒトを表している。つまり、「携帯電話という先端技術製品の前では、サルに過ぎない人が多い」ということである。人が、ことばと論理を操ることが出来る唯一の動物であることは確かである。しかし、近代科学とそれに基づく技術文明の開花は、ある種奇跡的な現象であると思う。正高氏のことばを延長して、我々は「高度な科学技術文明を持ったサル」ではないだろうか。


 さて、この文明の基礎をなす科学が高度に発達した理由として、1)この世界は神が創造したので、緻密かつ美しく出来ている筈;2)従って、その構造は、“ことば”を用いた論理的考察により解明できる筈;3)人の和よりも真理に最高の価値をおくべき、の3つの信念をもち、この自然界の成り立ちを哲学する有閑階級の社交の場、つまり学会が存在したことであると思う。会う人毎、情況毎に異なったことを言う東アジアの文化の中では、このような科学は決して生まれなかった筈である。つまり、日本の科学文化は全く西欧キリスト教文化圏のものの模倣でしかない。この異なった文化圏或は奇跡的な文明の中でつくられたものに、(日本の)人は順応できるだろうか?という質問が、本稿の「携帯を持ったサル」という表題の意味である。



 ところで、携帯を持った"サル"は、日本の若い人が電車の中でもひたすら携帯と向かい合っている姿を見て得た着想だと思う。確かに、日本で顕著に見られる病状である。今の若者の集団において、携帯電話から発せられる電波がまるで、“場の空気”というより“場の電波”として、集団を支配するような情況になっている。河合隼雄さんは、日本は場が支配することとそのメカニズムを“母性社会、日本の病理”で分析している。また、その一つの現象として日本の“平等信仰”を指摘している。


 私流に例をつくってみると、人は皆平等という心理的縛りにあった社会は、例えば同じ質量の多数の玉(平等)が、同じ定数[フックの法則のF(力)=kX(Xは伸び)のk]のバネで結ばれた規則正しい構造に喩えられる。そこでは、瞬時に伝搬される電波で玉が運動を始めると、大振動となって全体が揺れるが、一部に少し差のある不純物的玉があると、そこで構造破壊(いじめなど)が起こる。そのようなことがないと、最初の運動を始めた玉の方向に、全体の集団的移動(そこの女子高生全員が超ミニスカートを着るなど)が起こるかもしれない。“携帯を持ったサル”は、猿にその知性を遥かに超えたものを見せたときの反応を観測した記録と言える。例えば、ネコに鏡を見せた時の反応;猿にロボットを見せた時の反応;そして、三流女子高生(失礼)の一群に携帯電話を持たせた時の反応、を併記すればその表題の意味が良くわかる。このような失礼な表題の本を、マスコミは叩かず、民衆はボイコットせず、長い間本屋に陳列されてよく売れたものだと思う。



 ここで書きたいのは、このようなことだけではない。日本の科学会のことで一言ある。上記のような病理は女子高生に限ったことではない。日本人全体、そして、知性の本丸と思われているかもしれない学会においても同じであるということである。つまり、西欧の伝統である“科学”の分野で、“真理”に最高の価値を置く社交界の“学会”において、三流大学教員から亜流研究所の研究員に移った研究者の研究を、そのまま物まねして科学研究費を申請し、仲間内の審査で通した後、その成果に学会賞を与えるというようなことも起こるのである。(参照)  また、スパコン開発に多額の予算を計上するように、”科学や技術の研究に必須だから”と、専門外の偉い先生が恥ずかしげもなく堂々とテレビの画面で訴えかけ、数百億—千億の予算を計上する文部科学賞の連係プレイの愚かさ(おっと!某企業のトライアングルだった)も、西欧の学会という制度を使えこなせない"サル"同然ではないだろうか。(参照)


 因に、上記河合隼雄先生の本では、“平等信仰”の日本でも、現実には社会が回って行かないので、「分」という概念を以て調和ととって来たと書いている。つまり、「身分という限界を生まれながらに持つものとして受け入れ、それによる不平等は運命的に受け入れる」(80頁)というのである。つまり、スパコン開発費計上は、理化学研究所の理事長や東大教授が仰せになることだから、認めるというのである。知性の本丸まで"サル"である。(これは、ホームページ付属のブログに6/2掲載したものを書き直したものです。)


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