2013年11月2日土曜日

再び体罰について=体罰と暴力の違い

 今年の一月、大阪の桜ヶ丘高校バスケット部での体罰について、本ブログでも書いた。(注1)その中で、日本の文化として教育者と披教育者の間でのビンタ程度の体罰が、1)当事者間に了解(暗黙の了解も含む)があり、従って、2)その場で私憤が無ければ、許容されていると書いた。
 本日中部地方で放送された“激論コロシアム”というTV放送で、体罰の問題が議論されていた。しかし、なかなか要領を得ない議論に終わり、結論を得なかった。その中で、”体罰は悪というには、体罰と善悪の定義が必要だ”という言葉が戸塚ヨットスクールの校長からあったが、その中身についての議論がなかった。その点について、少しここで書く。
 もっと解りやすい譬え話を用いると:病院で外科医が手術台に患者を縛り付け、ナイフで開腹することは、暴行や障害にはあたらない。それは、病院において医者と患者という当事者間で、それらは病気を治す目的で行なう行為であるという同意があったからである。(注2)従って、了解の範囲にない手術で患者が不利益を被った場合は、業務上過失が問われる場合もある。ここで、“病気の治療”を“教育或は矯正”に置き換えれば、学校での体罰事件を考える上にヒントになると思う。例えば、戸塚ヨットスクールで、30年以上も前に体罰事件が立件されたのは、そこが学校と病院の中間に位置するからであると思う。しかし、戸塚ヨットスクールは今も存在し、病気とは言えないまでも”病的”と父母により判断された生徒が、更生のために在籍していることが、社会的に一定の機能を果たしていることを証明している。戸塚校長により体罰を無くすることで、更生までの期間が延び、経費的にも親の負担が増加することになったという。これらを考えあわせると、上記病院の譬え話が学校での体罰のあり方を考える良いヒントになると思う。
 以上から、体罰が暴力とは異なるところに、”教育”及び”先生と生徒という上下関係”を用いて定義出来ると思う。
つまり、生徒は一人前ではなく、潜在的に持つ全ての人権を顕在化出来る存在ではないとする。親権者と教育者(機関)との間の同意に基づいて、生徒にたいする先生による一定の範囲での物理的罰(体罰)が許容される。私憤は、一時的に生徒と先生の関係を破壊するものであるから、それに基づく物理的力は暴力と看做される。この様に定義すれば、大阪桜ヶ丘高校で起こった悲劇をどのように処理するか、そして避けるべきかについて考察することが容易になる。つまり、40発にも及ぶ平手打ちは、一定の範囲を超えるので、私憤に因ると判断され暴行として処罰する。また、教育者と披教育者という“当事者間の関係”を事前に解消すること(桜ヶ丘高校のケースではバスケット部からの退部)を、学校の他の職員(上司)や両親が仲介すべきだったと言うことになる。
 尚、教育基本法では体罰を禁止している。従って、上記は理想論かもしれない。荒れる教室で授業が体を為さないとしても、教育者の責任ではなく立法府の責任ということになる。そして教育熱心な先生も、行政からお叱りを受けるので、怠けた方が利口である。社会的トラブルの責任は最終的には政治にあるということになる。(11/2投稿、11/3; 11/4改訂)

注釈:
1)http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr 2)手術前に書面で同意を明確にすることが多くなった。

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