2014年1月18日土曜日

日本語と日本教について

1) 「日本教について」と私の解釈:
 イザヤベンダサン(山本七平)著の「日本教について」は、非常に面白い本である。日本人の言葉が十分理解出来ないことがこの日本教と関係していると書かれている。本音と口からでる言葉が等しくないことは、洋の東西を問わずよくあることである。多くはうそとごまかしであり、人類に共通したものである。しかし、日本人(日本教信者)には、もう一つ自覚せずに用いる歪んだ言葉の用法がある。その言葉は対話のためではなく、本人と相手(或いは社会)の間に投げかけられる。山本七平氏によると、(日本語を母国語とする)日本人は、ほとんど全員が日本教の信者であり、そこで話される“言葉(日本語)”は、“実体語”と“空体語”(24頁(以下全て文庫版の頁))という異なった成分を持っている。しかし、“空体語”は”実体語”と違って現実的意味を持たない(“空名”である)にも拘らず、一定の影響(“応”)を持つ為に、日本人の言動や行動が西欧からみて判り難くなっている。なお、私の理解では、空体語の判りやすい例として社会に氾濫する標語がある。それら(空体語)は、現実から次元的に離れている点で理想でもない。(注1)

そこで先ず、日本教について私の理解した範囲をまとめてみる。

(第一条) 日本教の信者は、『人間』でなくてはならない。この『人間』は、言葉では規定されず、実体語と空体語の間にあって、これらの間で両者のバランスをとる支点的存在である。(46頁;内容をまとめている)

   日本教においては、ことば(日本語)を用いて事実と事実を結びつけ、有用なる論理的な展開は(しないし)出来ないとしている(20頁)。しかしながら、人間の生きる空間とそこでとるべき行動を、ことばを全く用いないで規定出来ないので、『人間』は現実に即した“実体語”とそれと対立する“空体語”という全く異なったタイプのことばを用い、その間で両方のバランスを採る様に立つべき位置を決める。これが、私の理解した”日本教”の中心的教義である。(注2)なお、人間に『』がつくのは、日本教の教義における人間という意味である。

(第二条)『人間』の純度はこの支点の位置にあり、支点が空体語に近いほど高くなる。(51頁)

   この教義は、『人間』の純度(=『人間』の価値)の定義である。この国では何かを主張するとき、先ず、現実に即した「実体語」表現で、目に見えた実利(自己或いは自己の集団の利益:私心(注1を参照))を優先した表現になる。一方、将来のそして直ちに明らかでないとるべき方向(道)を考える場合、論理のない日本語では、空体語を加えて選択の範囲を広げる必要がある。(注3)そこで、空体語に近い人ほど“現実の利益を優先しない純度が高い人”ということになる。  裁判所などを含め日本の全てのところで、純度により対象となる人(裁判所なら罪人)への待遇が異なるので、日本を「人間の純度による流動的アパルトヘイトの国」としている(文庫版77頁)。このアパルトヘイトの存在が『人間』の純度=『人間』の価値となる理由である。ただ、空体語(虚軸)での表現がそのまま具体的になった場合、自己の所属する集団(社会)の利益にならないばかりか、破滅的な結末に至ることも考えられる。従って、この教義と付随する上記流動的アパルトヘイトは、集団の破滅にもつながりかねない。長い時間軸でマクロ(広角的)な視点に立つべき政治家が、純度の高い人であると、現実を無視することで日本国に破滅的損害を与える可能性がある。日本経済を破滅に導くかもしれない「原発即時ゼロ」(注4)を主張する純度の高い人々を批難するのは、日本教の国では至難の業である。

(第三条)空体語は、空名(名だけの存在)であるが、名があるだけに、応(利用価値)がある。(64頁)

   空体語の私流の定義は既に述べたが、この概念を著者が提出するヒントになったのは、江戸時代の鎌田柳泓という人が書いた『心学奥の桟』中に使われている「空名」という言葉である。その『心学奥の桟』に、“がんらい神は、本質的には「空名」であるが、その名があることはすなわちその「理(存在理由)」があることで、その「応(レスポンス)」はまた空しくない。”(55頁)とあり、その「空名」を「空体語」と言い換えたとのことである。

 以上が、条文として明確に書かれた、日本教の教義である。社会の空気に満ち、大きな損害を招いた空体語として、例えば1960年の「安保反対」と太平洋戦争のときの「八紘一宇」が挙げられている。日本で歴史に残る多くの「暴走的事件」において、空体語が大きな役割を果たしたが、それらは単に「無私の心で発せられた無知に由来する言葉」が人々を翻弄した結果と言える。そのような空体語は、実際には役立たないために社会に蓄積してホルモン的な意味(注5)を持ち、大きな事件のエネルギーを産み出すのである。蓄積した「空体語」の重さに社会が耐えられなくなり、ある時点で人間と言葉の関係が破壊され、カタストロフィックな(言葉を超えた)歴史の進行が起こる。そして、その問題は実質的には解消(解決でなく)される。これを実体語、空体語、『人間』がつくる天秤のようなものがひっくり返ると表現されている(95頁)。

 日本教についての私の感想を簡単に書く。私は、日本人の言動と行動は、主格が明確でない論理展開が出来ない日本語と、それと同根である蜜な集団で生きるという日本文化を出発点にして、(日本教という枠なしに)全て説明可能な様に思う。そこでは、一緒に生きる人の集団に最高の権威があり、「神」もその集団の権威の下に存在するのである。つまり日本人は、恵まれた天候と農耕に適した土地において、論理的な言語とそれを用いた厳しい議論なしに、高い純度を保持したまま生き残れた現実主義的文化を持った集団だと思う。この本質的に孤立した文化に、稀に外からの力が加わった時、現実的対応とそれに対する論理的な道筋を得ない否定が、それぞれ、山本氏が呼ぶ実体語と空体語に対応するのだろう。空体語は論理的なものではなく感覚的なものであるから、支点なるものは最初からないと思う。個人の問題なら支点という理解でも良いが、集団の問題に関しては、人により両者の間に立つ位置はことなり、混乱あるのみであり、従って支点という考え方は無意味だと思う。

2)日本文化についての私の考え:
 一神教の国々では、人は神と一対一の契約を結び生きている。契約であるから、「私」と「神」は明確にそれぞれ一点に位置する。その国の人たちが作る社会では、従って、私(一人称)が明確であり、その結果「私」の相手である、「あなた(二人称)」が明確になる。しかし、日本の様に自然を神とする国(或いは、神のない国)では、宗教は神との契約という形をとらないし、その結果、私の位置もそれほど明確でなくなる。神の前に「私の位置」が明確でないので、集団で生きる様運命つけられた人間は、集団からの疎外を一番の恐怖として意識する。集団から疎外されない方法は、集団全体のことを考える姿勢「無私の姿勢」をとることである。その結果、言葉は「私」から離れて、屢々空虚な響きでその集団に発せられることになる。集団としての行動決定が遅れると、これらの言葉は集団の間に浮遊蓄積し、場の「空気」のテンションを高めることになる。元々恐怖から始まったこれらの言葉に論理がある筈がない。それが、「空気」が支配する日本社会の特徴ではないだろうか。 つまり、「私」が明確でないことが原因となり、集団から離れて「私とあなた」も明確に規定できなくなる。そのような集団には論理的な言葉は発生しない。また、はじめに原始的な言葉が存在したとしても、論理的な言葉に成長しない。このような社会を、「お前」と「お前のお前」という二人称しかない存在しない社会と言うのだろう。(これは若干注意が必要である。注6)「私」はあなた(或いはあなた方)にどのように映っているかという視点でしか存在しないからである。このことは、既に森有正元パリ大学教授が詳細に議論していると、この本には書かれている(100頁)。

 しばしば言われるように、日本は西欧からみた場合特殊な社会にあるように見える。しかし私は、「私」と「お前」が明確に存在しつつ、集団で生きている西欧社会の方が異常(たぶん良い方向に)に見える。つまり、一神教の下で発展した西欧社会の方が特殊であり、そして、西欧で産まれた論理的空間と文化の発展は奇跡であると考えている。現在、西欧化した世界があり、文明を享受しているのであるから、日本的な社会を異常な前近代的遺物と考える方が良いのかもしれないが。しかし、人間が再度ゼロからスタートして、このような文明社会が出来るかと言えば、恐らく無理であり、精々古代中国の文明やインカ帝国の文明までが限界だと思う。何故なら、人類があらわれて50万年の内の、たまたま極最近の2−3千年間に近代文明は発展したのであり、これは必然とは思えないからである。つまり、人間の遺伝子には数十万年前から、この近代文明までに至る能力が刷り込まれているとしたら、もっと前に現代のような文明社会が出来ていても不思議ではない。(注7)一神教は、神が実際にカナンの地に現れたのでなければ、一つの密に集団として生きていた民族に降り懸かった極限的情況下で、その集団が奇跡的に産み出した天才的指導者により創られたのだろう。私はどちらかというと、この後者の筋書きが本当で、それが旧約聖書に物語的に書かれていることだろうと思う。その後、ギリシャ文明と結びついて、奇跡的に現代文明として開花したのだろう。

3)日本教という考え方の限界:
 私は、日本人の言動が説明困難なのは、我々日本人は、人称が揃った、そして、十分に体系化された言語を持たないことが原因の第一にあると思う。(注8)その言動や行動を、西欧の一神教文明に投影した時に、「日本教」というモデルがこの本の著者に現れ出たのではないだろうか。「一向宗徒になろうとして成れず、また、キリスト教徒になろうとしてなれない」というのと、「日本人は論理的な言葉を持っていないが、一定のパターンで行動する」の二つから、「その人格の底に既に日本教があるからだ」と無理に結論付けされているように思える。私は、「日本人は神を持たない」(注9)と「日本人は非論理的な言語しかもたない」ということと、その背景にある「蜜な集団で生きて来た歴史をもち、そして(個人ではなく)集団に最高の権威がある」ということで、日本人の行動や言動は説明可能であると思う。つまり、論理的でない言語を持つことと「空体語」が存在することは、原因と結果(或いはその逆)の関係であり、一体として考えるべきだと思う。そして、それは日本だけに限らず、東アジアに共通だろうと想像する。中国などの標語を多用して社会に訴える方法は、その一つの証明だと思う。

 最初の方に書いたが、日本人の社会的行動における特徴を日本教の用語を使ってまとめる。
1)論理的な言葉をもたない『日本人』は、現実的&直接的な言語表現である”実体語”で問題の解決を図る。しかし、複雑な問題の解決法を語る言葉を構成する言葉がないので、”実体語”表現で漏れたところを”空体語”という直観的な言葉で表現する。
2)”空体語”表現と”実体語”表現は、(議論などという論理的プロセスがないので)対立したままであるため、問題が致命的に拡大した時に、革命や戦争といったカタストロフィックなプロセスで解消するのである。以上は、用語は「日本教」のものを用いているが、日本教の教義は用いていない。
 

注釈:
1)“実体語”は現実に即して表現したことばであり、現実的であるが故に汚れ(或いは穢れ)があると考えるらしい。“空体語”は現実離れしているが故に、純粋であり穢れがない。その中間に人はバランスをとる様に立っているというのである。純度の高い『人間』(数行下)は、空体語に近い点に立つ人である。空体語は、異次元にあることばとでも説明すべきだと思う。例えば、数学で言う複素数空間の虚軸上にある言葉と言えば判りやすいかも。
2)これは、日本人と日本社会における実体と様々な言語表現との関係を述べているのであり、教義を述べているのではないと思う。日本語は非論理的言語であるので、論理を辿って執るべき正しい方向を探すことができない。そこで、直感に訴え異次元にジャンプして探し出したもう一つの方向が、”空体語”での表現なのだろう。 “空体語”と“実体語”との中間の然るべき位置に『人間』は立つという表現は、そのプロセスを記述したモデルではないだろうか。
3)江戸末期開国も止むなしと悟りながら、島津藩などは攘夷を叫んだ。それ(攘夷論)は実体語(開国止むなし)とのバランスをとるための空体語であったと言う記述がある。(26頁)
4)ローマクラブの未来予測(1972)などを考えると、原発の廃止は未来のエネルギー政策の柔軟性を破壊する。更に、発電用ガスの輸入などで経常赤字を継続すれば、円安から経済破綻に陥る可能性が高いと思う。例えば:このサイトを読んでみてほしい。
  5)人体モデルで社会を考える。人体は、脳から神経を経由して伝達される電気信号(動作と一対一の関係)と代謝エネルギーを全体的に調節するためのホルモン分泌という二つのプロセスで制御される。社会において、”実体語”は実態に即した直接的制御に用いられる言葉に対応し、”空体語”はホルモン的な制御に対応する。後者は日本独特の“空気”を媒介とする支配であり、西欧的近代社会からは全体主義的或いは非論理的として批判されるだろう。
6)二人称しか存在しないというが、本当は二人称も明確ではないのである。私という一人称が明確でないことを言い換えただけであると思う。「空気」が支配する社会も、同じことを言い換えただけであると思う。
7)中国にも個別にはいろんな発明があっただろう。日本にも2000年近く前に、製鉄の技術が大陸から輸入されている。北半球で文明が発展したのは、人間の生活に適した温帯の土地が、一万キロに渡って存在したからだという説がある。つまり、古代中国の文明もその一万キロの幅の中で、そこに住む人間の交流があったから生じたのだろう。ただ、現代文明のような形にまで発展するとは思えない。西欧医学と漢方とを比較すれば、判ることである。
8)このことは別に書いた。
日本語で、人称代名詞の数は無数にあり、場面毎にことなる。それが、「人称」或いは主語が明確でない(明確にしたくない)ことの証明である。あなた、お前、貴様、おぬし、君などの”二人称代名詞”の変化は、目の前の人と私とがある関係で混合し、その混合のレベルが異なる為に生じたものである。同様に”一人称代名詞”も、目の前の人との関係により決定される。つまり、「あなた」も「私」も言語空間内の一点に明確に存在するのではないと思う。
9)日本の神道の神は、人格を持つ一神教の神と違って、大きな山などの自然が神体である。自然に対する恐怖が産み出した神だと思う。(岡谷公ニ著、神社の起源と古代朝鮮(平凡社))天照大神などを祀る形の神道は、大規模な戦争が歴史に現れた後の変形された神道である。
(以上は理系人間の戯言かもしれません。批判議論等お願いします。今後、改訂する予定で、これは暫定版です。2014/1/18;1/20;1/21;1/24)

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