2014年5月5日月曜日

スタップ問題に関する”どさくさ劇”と科学界の変質

 今日の5チャンネル(TBS系)の番組で、依然としてSTAP捏造疑惑を報道していた。この件は現在混乱を極め、理研の調査委員の論文調査にまで話が及んでいる。理研もマスコミと政府文部科学省の両方をにらみながら、戸惑っている様子である。関係の無い研究者たちは、お笑いの領域に入った事件を薮睨みしている感じかもしれない。しかし、社会の不浄な関心により科学に危機が訪れようとしているのかもしれない。
 
 前にもブログで書いたことであるが、一般に、科学論文は学会が評価することであり、所属機関が審査することではない。そして、信用のない論文は評価されないために総説にも単行本にも引用されず、いずれ研究者の記憶から消えるだけである。
 小保方氏から共同研究者の若山氏に渡された細胞の遺伝子が、本来のものでないことを若山氏が知ったことをきっかけに、STAP細胞に関する論文における捏造疑惑が大きくなった。その実験結果が(つまり小保方氏が)信じられない為、論文を取り下げるよう若山氏が主張した段階で、STAP論文の価値はなくなっている。写真の切り貼りなどは、論文の信用を低下させることにはなるが、決定的ではない。決定的なのは、共著者が論文取り下げを主張していることと、その理由となった実験試料の受け渡しの段階で、細胞の遺伝子が変わっていたことである。

   STAP細胞があるかないかは、理研の調査が明らかにすることではなく、次に誰かチャレンジしてその作成に成功して論文を書くまで、あのNature論文が投稿される前の段階にとどまる。ただ、Nature論文が取り下げられない限り、それにエネルギーを注ぐ研究者は他のグループには出ないだろう。そして、今のような情況で論文を取り下げなければ、その研究に拘った人の科学界における信用は無くなるだろう。(注1)また、信用のない研究者を抱えることは、理研が科学を研究する機関ならば、研究資金の無駄使いである。

 科学は、研究者間の”同好会的な付き合い”によって発展してきたのであり、論文の内容に関する著者の法的責任などという問題とは遠い世界に存在した。(注2)しかし、科学的成果が技術とそれによる社会における経済活動と密接に関係する様になって、科学を取り巻く環境が世俗的になった。学会にも世俗の風が吹き、科学の世界が異質なものに変わりつつある。インパクトファクターとかでの雑誌のランク付けをすることや、著者として含まれる論文の数とそれらの被引用回数などで、研究者評価を数値化することなどもその例である。また、学会誌発表よりも新聞やマスコミに発表することに熱心な著者が多くなったことも問題である。マスコミも評価する能力もないのに、その研究の価値が判らないまま著者の宣伝を鵜呑みにして記事を掲載している。これらについて、異常だと聞こえるように発言する研究者があまりいない。これらのこと全てが、科学界の変質を証明している様に思う。(注3)

   科学を大切な人類の文化と考えるのなら、マスコミは面白半分で、この問題を含めて科学的研究の紹介を何処かから得た情報を鵜呑みで取り上げるべきではない。また、今回の疑惑の件、最初の一報以外に取り上げて放送することは何も無いはずである。
 
注釈:
1)笹井氏が論文を出版することが成果100%とすると、論文を取り下げることは、成果ゼロになるのではなく、-300%になることであると言った。しかし、疑惑が深まった段階で取り下げに同意しないことは、それまでに蓄積した科学研究者としての信用が全て無くなることになるのである。
2)法的云々に直接関係するのは特許である。しかし特許は、研究論文として公知になった段階で申請できないので、科学の問題ではない。より下流域に存在する技術分野の話である。
3)科学と経済は昔は仲良しだった。経済の援助で、多くの人間がお金を使って科学研究ができた。しかし近年、経済や一般社会が科学に期待するものが大きくなり、且つ、経済と科学の対等関係が無くなった。その結果、科学界の人間の数が多くなり、質が低下して、金と名誉に汚い世界になったのである。

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