2014年6月24日火曜日

東京都議会でのセクハラ騒ぎと安倍総理のピンぼけ謝罪

I) 東京都議会で自民党の鈴木議員が、みんなの党の塩村議員が「女性の妊娠・出産に対して都がもっとサポートすべきではないか」という質問中に、「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というようなヤジを飛ばした。それがセクハラになるとのことで、散々マスコミに報道され、5日経った23日鈴木議員が直接塩村議員に謝罪することになった。また、鈴木議員は都議会での自民党会派を離脱することで責任をとることになった。私はこの件について既に書いたように、下品なヤジであることはその通りだが、何故そんなに騒ぐのかさっぱり判らない。例えば、若い男の議員の質問に、塩村議員が同じヤジを飛ばしたらどうなっていただろうか?だれもセクハラだとはいわないだろう。だとしたら、鈴木議員のヤジをセクハラということが、すなわち女性差別でありセクハラではないのか?

II) それは兎も角として、今日24日、何を思ったのか、総理大臣が塩村議員の所属する「みんなの党」の浅尾氏に謝罪するまでに、波及範囲が拡大した。このようなことば狩りの狩人達が闇から狙っている社会では、地方議員であっても議会や委員会では、なるべく不要かもしれない様な発言はしないようにしなくてはならないと思うだろう。将に”沈黙は金”の社会である。そのような社会は、所謂”空気が支配する社会”になり、その社会は全体として迷走や暴走するようになる。今回のセクハラ事件に対する報道などもその一つであると思う。そして、このような社会の特徴は、全体主義的国家が出現する必要条件なのだ。終戦間際に、国家トップ層の”一億玉砕してでも戦うべき”という考えが、国民の間にも広く流された。こんな無茶苦茶な考え方は、上層部の何処かで止まる筈だったとおもう。恐らく、国家中枢にいた人はにこのことを終戦後問いただせば、「あの当時の空気では、一億玉砕をオーム返しするしかなかった」と言い訳しただろう。この「空気の支配する国」日本は、その当時から何も変わっていない。

III) 謝ることを、日本語では謝罪ともいう。安倍総理にどのような罪があって、あやまったのか。謝ったからには、何らかの賠償をするつもりなのだろうか?これが、国際的な言語感覚をもつなら、安倍総理の謝罪から生じる疑問だと思う。
 何か小さいトラブルがあると、日本人は簡単に謝罪をする。この場合の謝罪は、本当の意味の(西欧的な)謝罪ではなく、単に「その事実を確認している」と言う程度の意味しかない場合が殆どである。安倍総理の謝罪発言の後、安倍総理が何らかの責任をとるとか賠償をするとかについての話はなかったようだから、謝罪に関する国際的な感覚を持っていないことは明らかである。
 一般に、上記のような日本人の謝罪は、その後その件に関しては何も言わないで、双方が”水に流す”ことを阿吽の呼吸で了承するのが普通である。もし、「罪をみとめたのだから、賠償しろ」と言えば、「謝罪させた上に、賠償金までとろうとするのか、人でなし!」と怒りだすのが普通である。
 村山富市元総理や河野洋平元官房長官が、東アジア諸国に戦争の際に迷惑をかけたという趣旨の謝罪を行なったのは、相当の重い意味を持たせただろうが、それでも日本的感覚の謝罪であっただろう。一つには、米国が終戦間際に行なった原爆投下や都市部空襲に関して、一切謝罪しないという事実と比較すれば、明らかである。更に、慰安婦を名乗る女の方が河野談話の発表後に現れて、日本国に補償を要求したことがあった際、日本国内の反応は、日韓基本条約締結後の賠償要求はあり得ないとして、怒りの声が上がった。つまり、その後河野談話にあるような慰安婦が現れ補償を要求するのなら、韓国政府がそれに答えるべきである、との考え方が支配的であった。もし、賠償問題については解決済みなら、何故その後あのような謝罪をするのか? つまり、村山談話や河野談話における謝罪も、上記の日本式謝罪であったのだと思う。水に流して終わりにしなくて、それを外交のてこに用いようとする国、法が西欧社会のように機能しない国を相手に、あのような謝罪をするのだから、政界の人間にも国際的感覚のない人が多い。
=6/24/22:00; 6/25/6:30修正=

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