2014年12月19日金曜日

ザ・システム日本:「なぜ日本人は日本を愛せないのか」

 カレル・ウォルフレン氏著「なぜ日本人は日本を愛せないか」(和訳)を読んだ。文章は明快であり、多くの示唆に富む記述を含むが、途中から問題の本質を外しているではないかという感想を持った。

(A)日本人が日本を愛せない主な理由として、国民が自国の歴史に決着をつけていないことをあげている。つまり、第二次大戦の総括を行なっていないため、愛国心が芽生えないのだと云う考え方である。最初に結論を言うと、私には、著者の解析には無理があるように思えた。勿論、それも理由に含まれるかもしれないが、それよりも重要な理由は、日本が市民革命を達成して民主主義体制に移るという西欧の歴史の流れの中にないことだと私は思う。それは、以前のブログで日本人に愛国心は育たない理由として書いた通りである。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/11/blog-post_19.html (注1)

 西欧の人だけでなく多くの国の人々は、先の大戦は日本国民の主体的な体験であると考えているが、典型的な日本人の感覚ではそうではない。むしろ、最近の中国周近平主席の演説にあったように、http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM13H2D_T11C14A2NNE000/一部の軍国主義者(つまり、日本の支配階級が作る行政&官僚組織)の行為として解釈する方が正しい認識だと考える。従って、国民にその歴史の消化を強いることは出発点から間違っている。勿論、著者ウォルフレン氏もこの論理の存在について気付いている。

 この本の第二部の中頃226ペイジに「責任と悔恨」というセクションがある。そこで、「欧米国の多くの人は、日本人が過去の行為について何故ドイツ人の様に誠実さと悔恨の情を示せないか屢々不審に思う。(中略)そして、日本人が自分達自身をあの戦争の被害者のように感じていることに怒りすら感じる」とある。つづいて、「真に民主的な政治環境に育った欧米人にとって、ある国民に強いられて行なったことに関しては、その国民全体に罪があるとは言えない場合もある、という理屈を受け入れるのは、極めて難しいことなのだ」とある。

 また問題の本質は、「今日の日本と戦争中の日本政府とは全く別物だということを、世界に向けてはっきり表明できる仕組みがないのである」と分析している。しかし、今日の日本が戦争中の日本政府から改善され全く別ものであれば、著者の期待するような声明が既に首相より出され、問題は解決しているのではないだろうか? 

 つまり、マッカーサーが持ち込んだ新しい日本の姿は、単に戦前の日本に似非民主主義を上塗りをしただけではないのか?。マッカーサーの役割については、第二部において異なった角度から「マッカーサーの不幸な遺産」として言及されている。天皇を戦争責任論から遠ざけたことと、それを本国が了解する様に異常な憲法を制定させて、日本が国家になることを象徴的に否定したということである(180ペイジ)。現在の日本では、憲法により骨抜きにされたものの、元々の”国家の遺伝子”により戦前の日本型システムによる国の姿がしっかりと再生されていると思う。

 本来なら、敗戦の大きな混乱に乗じて、本当の民主主義を日本に移植するチャンスだったが、敵国の将にその義務はない。また、その後の形が定まらない内なら、国家の体を回復して市民意識を醸成できたかもしれない。戦後二十年間程過ぎれば、その可能性が消え去る。当時の自民党政治家たちが、現在の政治家より遥かに優秀に見えるものの、無能であったということだろう。

 何度もこのブログに書いた様に、太平洋戦争前後の歴史を総括することは非常に大切である。しかし、それは日本国改造の第一歩に過ぎないだろう。そして、その第一歩を踏み出しても、日本国民の大半は日本を真に愛する気持ちが生じてこないだろう。それは、日本国民の大半が理屈ではなく、感情として自分達がこの国の主人公だとは思っていないからだ。古代から現在まで一貫して、国民の大多数は披支配者でありつづけた。そして、この統治する側と統治される側の分離、水と油のような関係は、太平洋戦争で一銭五厘の葉書で招集されて一命をジャングルに落した人たちの家族や親戚達の記憶が残る、現在まで続いているのだ。

 第一部の中頃98ペイジにこのような記述がある。「もし貴方が市民でありたいのなら、あなたには、社会の行方に関心をもち、必要とあらば政治的活動に自ら乗り出していく義務がある。」これには全く賛成である。しかし、序論的部分でこの言葉が出てくる所に、著者の分析における限界を示している様に思う。一定の知性ある層にかなりのパーセンテージで市民意識の芽生えを期待するには、日本の権力機構の在処が明確になり、国民と明確につながる必要がある。しかし、この前提が成立するには、次のセクションでも述べる日本型政治社会システム(The System "JAPAN")が破壊されなければならない。安定した時代には、自己無撞着的なこのシステムから脱することは不可能に思える。

書きたいことのエッセンスはこれで終わりだが、以下に、表記本の感想を著者の文章を引きながらより詳細に最初から書く。

(B) 現在、多くの日本人は自国に対する不信感を持っている。また、この国家の将来に、大きな不安感を持っている。知的で有能な人ほどこの傾向が強く、その絶望感や無力感がこの国の将来に対する関与を躊躇わせている。目がよく見え人とほど、目の前の巨大な壁の立ちはだかる様が良く見えるのである。その原因とも結果とも言えるが、日本という国を十分に愛する人が、十分な数だけこの国にいない (p21)。これには、この国の文化とともに、この国のこれまでの歴史が関係している。 

 この様な状態から脱するには、多くの真の愛国心をもつような人材を育てる必要があるのだが、著者はその為に、“日本国民が自らの過去に決着をつけなければならない”(p27)と書いている。そして、それがこの本の第二部(pp147-252)の主題である。著者が“過去に決着”で意味することは、第二部の内容から察するに、主として太平洋戦争前後の日本の歴史的事実を日本自身が明らかにし、それを正しく評価することである(注2)。 

 著者によって指摘された”日本人が受け入れるべき過去”には異論がある。先ず、太平洋戦争時の戦争犯罪として南京の大虐殺や従軍の“性奴隷”について、中国や韓国の宣伝をほぼ認めているのには同意しかねる(注3)。また、太平洋戦争の日本側の原因である、軍事官僚(関東軍)の暴走の原因は、良く言われる様に明治憲法において、日本軍は内閣の下に無かったからである。そして重要なことは、「日本には人民が政治に参加する機会も経験もなく、国を治める側と治める対象である民衆は過去から現在まで分離したままであり、西欧諸国のようにそして米国のように、市民が民主主義を獲得した訳ではない」ということである。

 つまり、決着をつけるべき政治的過去は、日本の国民一般(人民或いは市民一般)には元々存在しない。国民一般が歴史への関与として重要なのは、市民革命的経験の無さをどう克服するかと言う点だと思う。

 第一部と二部に夫々次のような記述がある。“多くの米国人は、国が何をして何をしないかを決めているのは、最終的にはその国の人民だと信じている。一方、日本人の多くは、自分達の個人的行動が日本の統治のあり方に変化をもたらすことはあり得ないと思い込んでいる。”(p71)そして、真に民主的な環境で育った欧米人にとって、ある国民が強いられて行なったことに関してはその国民全体に罪があるとは言えない場合もある、という理屈を受け入れるには極めて難しいことである(pp228-9)。重ねて言うが、“過去に決着すること”が日本国民一般にとって困難なのは、それは自分の体験では無いためである。敢えて決着を付ける為には、新たに創造しなければならない。それが、ドイツと違って、日本での戦争再評価が困難な一つの大きな理由だと思う。

 統治する側は、江戸時代では幕府であり、その下の藩主を中心にした“官僚組織”である。その官僚組織が明治時代には天皇という冠を頂いた軍官僚であり、戦後はマッカーサーを中心にした米国官僚であり、そして、平和条約以後は霞ヶ関の官僚組織である。日本の何処にも何時の時代にも、人民や市民という階層が実際に力をもったことは無かった。この市民に統治する側にたった経験を欠いていることが、皮肉にも戦後民衆が、敵国の将であるダクラス・マッカーサーを新しい統治者として歓迎したことにつながる。

 この統治する側と統治される側の分離、水と油のような関係であり続けたのには理由がある。それは、この日本の統治機構が、統治する主体と統治主の委託により行政を行なう側が建前と本音で逆転するという(特性を持つ)ということである。そしてそれが、日本の統治機構の無責任体制の原因でもある。つまり、行政を行なう側は官僚組織であるが、それには本来説明責任つまりアカウンタビリティー(注4)がない。説明責任があるのは建前上の統治主体である政府である。しかし、官僚組織は本音の世界において統治主体であることを自覚しているため、説明すべき行政の経緯、つまり歴史資料を、日常書類の様に数年後には焼却するのである。それが、官僚組織が歴史の敵となる(P156)理由だと思う。

 このようなシステムになったのは、それが本当に統治する側と建前で統治の主体である側の双方にとって便利だからである。説明責任が無いのだから、何か特別なことが起こらない限り統治する側に居続けられるからである。その結果、統治機構の廻り全てが、それを前提に最適化するようになる。そしてそれらは総合して日本型政治社会システム(The System "JAPAN";日本という政治社会システムの方が良い命名かも)を作っている。 これは島国だからこそ可能になった、世界に類を見ないものだと思う。そして、このシステムはグローバル化した時代に日本が適応する際、その障害となるのだ。

 上記最適化は、self consistentの意味であり、見慣れない言葉を使って良いのなら”自己無撞着化(注5)”と言うべきかもしれない。例えば、三権分立の原則は何処かに消えて、最高裁判所は行政の後を追うだけになっている。具体的には、自衛隊は憲法9条に照らせば、違憲であることは明確であるが、しっかりした軍事力として存在している。また、大きな一票の格差も違憲である。こちらの理屈付けは、「違憲状態であるが違憲ではない。従って、行なわれた選挙結果は有効である。」という、言語的に支離滅裂なものである。マスコミも上記システムと敢えて対立するのは、企業とし得策ではない。従って、裁判所の発表通りに報じるので、国民は法律をお経のように難解なものと考えて納得する。更に、暴力的な人たちのグループも、日本独特のヤクザという組織を作ることになる。ヤクザは従って、一定の社会的役割を果たすとともに警察や公安と一定の距離をとって、共存或いは協力してきた(注6)。それらを含めたシステムは、巨大且つ強大であるが故に、ほとんどの人はそこにすっぽりはまり込むか、遠く距離をとるかのどちらかの態度をとる。これが、島国の社会全体を巻き込んで自己無撞着化したThe System "JAPAN"(ザ・システム ジャパン)の完成された姿である 。因に、元公安調査庁の菅沼氏によれば、21世紀初頭の暴力団の収入額は当時のトヨタの利益と同じ程度、一兆円に近いレベルであったとのことである。

 日本におけるこのシステムを解体し、日本国民に市民意識(シチズンシップcitizenship)を植え付けるチャンスは大戦後にあったかもしれない。しかし残念ながら、或いは、当然かもしれないが、マッカーサーは日本の事よりも自分の名の方が大切だったのである(pp188-192)。マッカーサーは日本に向かっては、新しい国を産む苦しみよりも甘い飴玉を与えて徹底的に幼児化する方針をとった(注7)。また、戦争の原因を好戦的な日本人による軍国主義によると評価する一方(東京裁判の人道に対する罪)、それを防止する為の安全装置としての憲法9条を、米国や諸外国に向かっての説明材料としたのである。ここが、この本の中で特に重要で日本人必読の箇所であると思う。
その結果、日本に伝統的な行政システムが官僚と政治貴族との間に保存され、一般国民は統治される側として下に沈んでいる状況は不変のまま残された。

 以上から、何度も繰り返すが、日本の知識人が政治に参加しない原因、愛国者が育たない本質的な原因は、日本に市民革命の歴史がなく、また、それを近くで学ぶ機会がなかったからだと思う。そして更に、日本という社会システムが巨大化複雑化した為(ザ・システムジャパン)、チャレンジするには高すぎる壁となって前に立ちはだかるからであると思う。しかし、全くそのような愛国者が出てこない訳ではない。著者は例として、江戸時代の安藤昌益や植木枝盛などをあげている。私は、最近出来た日本維新の会の橋下氏をあげたい。知識人の一人として立ち上がり、政治家となって果敢に政策を実行している。ただ、平時にそのような人が多数あらわれるだろうか?私は何らかの危機的状況が日本に起こらない限り無理だと思う。

注釈:
(1)書かれている内容を熟読すれば、このような内容もあると言えなくもない。しかし、それが中心的であるような明示的な指摘はなかった。
(2)勿論歴史全体について書かれている。しかし、その中心に太平洋戦争の国民としての"消化"がある。戦後は民主主義国家であると著者は考えているから、著者の考えにおいて『国家として』は『国民として』に等しい。そして、そのプロセスを戦後の政権は妨害しているのである。何故なら、第二部の最初の方に以下のように書かれている。「自民党の政治家たちは、歴史の問題に正面から取り組むのを避けることによって、党内の潜在的な問題から逃げて来た、つまり、かなり多くの自民党政治家、とりわけ1950年代、60年代の彼らは、1945年以前の抑圧的政府の内部に大きな位置を占めていた人々だったという問題から、逃げなければならなかったのだ。」
(3)「南京大虐殺の虚構」という類いのタイトルを持つ本は、たくさんある。また、性奴隷については、米国の日本による戦争犯罪に関する調査資料には、強制連行などの記述は全くなかったことが最近明らかにされている。また、それを発表した朝日新聞の記事は周知の様に最近取り消されている。しかし、これらは日本国あげて再調査し、これらが事実であれば或いは新たな事実が見つかれば、新たな補償等検討すべきである。
(4)アカウンタビリティーは説明責任と訳される。ある政策が立案されたとして、その必要性や実行方法、そしてその結果や評価などを説明する責任である。
(5)自己無撞着というのは、システムが与えられた条件を全て満たして、矛盾を生じない状態をいう。私個人は、量子化学の用語(self consistent field)でこの言葉を知った。
(6)引用したサイトで、元公安調査庁の菅沼氏が、ヤクザの社会的役割について講演している。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40
(7)国家の中心にあった天皇に戦争責任を問わないで、温存した。また、日本企業の米国内での経済的活動の自由度を大きく認めた。また、日米安全保障条約で日本の防衛を米国が主に行なう体制をとった。
(12/23; 再度編集)    

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