2015年1月27日火曜日

戦略的思考の無い国日本:伊藤憲一著の「新・戦争論」を参考にして

===以下は表題の本などを読んで、個人の意見として書いたものです。====

伊藤憲一氏は「新・戦争論」(注1)の中で、クラウゼビッツの戦争論(1832年出版)の中の言葉、「戦争とは他の手段を以てする政策の延長に過ぎない」(第一編24-26、日本語訳本44頁)を引用し、国家の政治戦略の中に外交戦略と並行した形で軍事戦略をもたねばならないと書いている。昭和初期の日本では、軍閥が政治家の上に君臨し(注2)、その結果、日本国は国家戦略論不在の状態で戦争に入り、悲劇的な敗戦に至った。

国家の重要問題などを考える際に、二つの思考の枠組みがある。それらは、「法政的思考、観念主義、戦術的アプローチ」と「戦略的思考、現実主義、戦略論的アプローチ」である。日本人の思考を支配しているのは前者であり、その結果日本人は、例えば「日本の船が太平洋を安心して航行できるのは、米国太平洋艦隊があるからではなく、国際法が航行自由の原則を規定しているからである」などと考える傾向が強い(第一章)。

戦前はともかく現在も、政治家を含めて殆どの日本国民は、戦略的思考があまり得意ではないと思う。例えば、現在の総理大臣は、日本国は独立国であるという面子(だけかも知れないが)を何処かに置き忘れ、“米国と協力した形での積極的平和外交”を看板に掲げている。他国の手先になって自衛隊を使うことは、35年以上も前に三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で配布した檄文(注3)の中で激しく攻撃したことである。

また、過去の自民党政権は、空しく国会議員や内閣の椅子を占拠して、憲法改訂の機会を逃し、交戦権の裏付けのない外交を「金のバラマキ」という形で行なって来た。朝日や毎日などの新聞社も大きな障碍になったかもしれないが、日本社会党による「平和憲法による軍国主義復活阻止の論理」など、国の将来を思いつつ下野する覚悟があれば、論破出来る筈である。しかし、自民党政府はそこまでやらなかったし出来なかった。そのような無能な与党が国会を抑えていることは、もし軍国主義が興ればそれを抑えることも不可能なことを示している。つまり、野党を自認する日本社会党の”平和憲法護持”の主張は、自民党や国民にとっての憲法改正のための資格試験として正しく働いたと言える。

上記、新・戦争論は、世界から戦争が無くなる可能性が高いという結論で終わる。それは、経済的なグローバル化から政治的なグローバル化により、国家が独立性を失いつつある。それは、国家=国民=民族という等式で表わされるナショナリズムの時代がおわりつつあることを意味する。そのような環境になった現代、日本は”口先平和主義”でなく、”積極的平和主義”に舵を切るべきであるというのが、伊藤憲一氏の考え方である。

ただ、日本では「戦略論」が長い間タブーであり、2007年の時点で、日本全国の全ての大学において「戦略論」という講座はなかったという。その時点で、戦略論の学祖であるクラウゼビッツのクの字もふれない大学教育が行なわれているのは、世界中でも日本だけだ(新・戦争論、第一章)そうである(注4)。

私は、日本が積極的平和主義に舵を切ることは、現状では無理だと思う。大学教育で戦略論を学んだ政治学を専攻する学生が日本中に広く分布し、日本の憲法改正に隣国が賛成するような国際環境を醸成する智慧、つまり戦略を持つ政治家が、その中から何人も生まれるまで待つべきだろうと思う。

注釈:
1)「新・戦争論」新潮新書、2007年刊:この小さい文庫本は、一貫した論理により書かれた素晴らしい本だと思う。
2)「大日本帝国憲法第11条 天皇は陸海軍を統帥す」による。

3)NHK教育テレビ「日本人は何をめざして来たか:三島由紀夫」(2015/1/24放送)檄文は、http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html参照
4)クラウゼビッツの戦争論が芙蓉書房から出版されたのは2001年であるが、この本の表紙には、「訳:日本クラウゼビッツ学会」と書かれている。バイブルではないにも拘らず、このような学会が存在することも不思議な現象に見える。
補足:上記本は内容が濃く勉強になることが多く含まれていますので、再度感想文を書くつもりです。

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