2015年3月25日水曜日

三重女子中学生殺害事件の軽い判決:裁判官は刑罰の意味が分っていない

昨日の表題事件の判決は、異常に軽いとしか言い様が無い。裁判官などの関係者は、現代までの社会の変遷も考えて、犯罪処罰の役割を根本から再考すべきであると思う。情報化社会にあって、犯行に及ぶ18歳未満の者は、少年法の存在を承知の上で重罪を犯す場合も多いと聞く(注1)。精神的発達の早い昨今、少年法も改正を早急に議論すべきである。

犯罪処罰の役割であるが、それは1)社会の枠組みを防衛すること、2)被害者とその家族の報復権の代行、の二つであると思う。前者には、社会の他の構成員に対して戒めを与える意味と、現犯罪者を放置した場合に予想される更なる犯罪の防止、という二つの意味があるだろう。後者について:国家と言う枠組みがなければ、被害者家族は自然的権利として、武器を持ち報復を試みるだろう。その権利を国家に引き渡すことで、社会は安定を維持する。加害者の少年(当時は高校三年生)の「更生の可能性」は次の問題であると思う。裁判官は、判決を下す上での罪状の次に最重要な要件として「更生の可能性」を考えて、上記2)の報復権を無視しているのは、専門バカだからだろう(最後の節参照)。

古代のハンムラビ法典でも、聖書にある戒律でも、死に至らしめた者は自分の命でそれを償うのが基本である。それら、「目には目を、歯には歯を」の原則は、それ以上の刑罰を戒める為につくられたのである。つまり、古代から犯罪は直接的被害の他に被害者親族や社会にも被害を与えるので、目には目以上の罰を下すのが多かったことを示している。それが、「更生の可能性」という謎のことばで、刑罰を「目には睫毛を」レベルに引き下げる慣習が出来上がった。それは、素人の私にはわからない理不尽なものに思える。

勿論、社会が複雑になり、その中で生きる人間の不適応症状を全て、ハンムラビ法典流に重罰に処すことは、社会を不安定にし、社会の活動を下げる可能性もある(注2)。その場合には、加害者側の犯罪に至る状況を考え、情状酌量の余地ありという形で刑罰を定める際に考慮される。

しかし、「更生の可能性」という謎のことばは理解できない。更生の可能性は死刑か有期刑か(終身刑は日本にはない)という判断のみの問題であり、懲役5-9年という短期の懲役刑を課す場合の減刑理由であってはならないと思う。“100万円の借金を踏み倒したのだが、若くて更生の可能性があるので、80万円の返還を命令する”のような不合理を感じる。

裁判官が判決後犯人に向けていった言葉は、「他人の痛みが分る人間になってほしい。事件と向き合うことが被害者への謝罪とあなた自身の立ち直りの第一歩だ」であった。この言葉は判決の一部をなし、私的な言葉ではない筈だから、その考えが判決の上で考慮されたことを意味している。これが、「更生の可能性」という謎の言葉の正体なのだ。現在の日本における裁判の根本的問題を示していると思う。 何故なら、
1)他人の痛みが分るかどうかは問題ではない。他人の痛みがさっぱりわからなくても、法律に禁止されたことをしないことが大切なのだ。(注3)
2)死亡した被害者に謝罪は出来ない。
3)立ち直るかどうかは、裁判官の仕事の範囲にはない(注4)。

裁判官も日本病に罹っている。

注釈:
1)少年法が定められた昭和23年当時よりも人間的にも精神的にも成長が早く、欧米では既に18歳から成人として扱う国が多く、日本でも少年法の改正が議論されている。尚、18-19歳の量刑は、成人と同じである。
2)その例として、セクハラ裁判がある。あまりにも女性側の敏感な視点で裁かれると、男性は町の中に出られなくなる。少なくとも満員電車には出来るだけ乗らないとか、エレベーター内に女性を見た時、他に男性がいなければ乗り込まないなどは常識的になっており、男性の社会での活動効率を下げている。
3)ニューヨークだけでも10万人くらいのサイコパスの人がいると言う。日本人にも100人に1-2人居るだろう。それらの人は元々被害者の痛みなど分らないし、その意味で更生の可能性などないのだ。そんなこと、裁判官はしらんのだろうか。
4)私は理系の元研究者であり、法学に関しては素人である。文系、特に法学系の人に批判してほしい。ただし、法理論的にではなく、1人の人間として、自分の哲学を披露する形で。

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