2015年6月2日火曜日

政治問題を考える場合、もっと弁証法的手法を導入すべき

弁証法的手法は、ある問題について客観的判断を求める際に便利である。弁証法といってもここでは対話法と言い換えても良い位の意味で用いている。つまり、裁判の弁護側と検察側の様に、夫々の立場を代表する役割を二つのグループに与えて、その立場を主張させ、為政者を選ぶ国民や選ばれた為政者が、裁判官的視点でその議論からその問題についての判断材料を得るのである。

つまり、有識者会議を組織する場合、有識者に自分の学説や主張は別にして、二つの立場のどちらかになってもらう。例えば、「尖閣諸島の領有権を中国が主張しているが、それに対して日本はどのような対応をとるべきか?」という政治課題がある。それについて日本で聞くのは殆ど、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、中国の主張は全く根拠に欠けるものである」である。しかし、論客に自己の主張は一旦棚上げにして、双方の立場で議論してもらうと、もっと客観的な考察が可能かもしれない。(注1)

現在の様な世論で定着しては、それは誘導された世論かもしれないという不安が残る上に、今後の日中両国関係として、両政府間の対立と双方の国民感情の悪化しかないという方向以外に出てこない。それで良い筈が無いと思う(注2)。

過去の日本の歴史を見ても判るが、日本は一丸となって勝つか負けるかのどちらかであり、負ければ悲惨な数十年があり、勝てばそれが対日国際感情の悪化と将来の敗戦の準備となる。ここで、政府、マスコミ、知識人すべてが、双方に役割を割り振った形での対話を進めて、複眼思考が出来る国にした方が良いと思う。

前回の時事放談については既に前回ブログに書いたが、そこで藤井氏が屢々言ったのは、「あなたは判っている人だから、あなたと(議論を)やるのは嫌なんだが」という言葉である。日本人は、前にも書いたが、議論と討論と口論と喧嘩の区別がなかなか難しい言語環境にある。元大蔵官僚の藤井氏ですら、議論すべき最高の相手である筈の高村氏と、議論は嫌だと本音が出てしまう。

米国(西欧)では、サンデル教授の熱血講義を聞いた人は判っただろうが、議論はむしろ楽しむものである。何故なら、より高い理解に双方が辿り着くからである。一度、そのような議論を有識者でやってもらいたいものだ。中国の利益を代表する側の人も、そのような役割だから、右翼に狙われる危険性はない。

南沙諸島の問題でも、日本が戦時中占領しており、終戦後台湾の領有になったという経緯があると、何処かで読んだ。もしそうなら、台湾の領有権主張にはある程度根拠があり、台湾が中国の一部であるのなら、中国の主張にも微小かもしれないが、ある程度の根拠があるかもしれない。その件も、上記のような有識者会議を組織すれば、新しい理解が産まれるかもしれない。

注釈:
1)イスラエルかどこかで、全く反対の命題を二つ与えて、「それらの命題が夫々正しいと主張するよう、論理展開せよ」という試験問題があったという記事を読んだ。
2)共産党や社民党が居るではないかという意見があるだろう。しかし、かれらはアンチテーゼになり得ない。単に国会に於いて自分の議席を維持するという観点で主張しているからである。

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