2015年7月15日水曜日

権力と権威:天皇という宗教的権威の役割

(1)国家の権力は、国民等を国家の指示に従わせ、その為の法等を制定する能力である。一方、政治的権威は、国民が権力を信用して自発的に従う様にさせる能力、或いはその能力の印である。安定な統治は、政治的権力と政治的権威が同居する場合に実現する。(別表現:政治的権力は政治的権威を抱き込んで完成する)

武士の出現以来、天皇が戦闘などで力を証明した者に対して、政治的権威を儀式的に与えることで、日本の統治システムは機能してきた。その伝統は周知の様に一部現在まで残っている。この、政治的権威を与えるという、天皇の持つ“儀式的権威”は、宗教的なものとして確立されており(注釈1)、昭和前期まで揺らぐことはなかった。政治的権威は、天皇から権力者に授与されるのが普通であるが、時として、天皇も実際上の権威を持つ場合があり、その場合は天皇に危険が伴うことも多い(注釈2)。

天皇から権力者に与えられた政治的権威の例として、江戸幕府まで続いた征夷大将軍がある。政治は、征夷大将軍が行なうので、天皇は当然政治的責任をとらない。そのことが、千数百年間日本の頂上に天皇が存在し得た理由だろう。

この日本に特有の政治的権威のあり方、つまり継続的な天皇の権威付与能力は、日本国という継続した政治枠を国民が信じることを可能にした。また、その事と関連して、人種的には幾つかの民族とその混血から成り立っているにも拘らず、日本人は単一の民族からなりたっていると思い込むことを可能にしている。

(2)時代とともに移動する政治的権威の中心に天皇が位置するシステムは、権力と権威が容易に分離し得ることを意味し、日本の歴史が複雑な経緯を示す理由でもあったと考える。例えば、幕末の時代、外国との和親条約や通商条約の締結がスムースにいかなかったのは、時の天皇が条約締結の詔勅を出さなかったからである。ほとんど形式的な手続きと幕府が看做して来た、天皇の許可つまり詔勅を得るプロセスが、幕府による日本統治のアキレス腱だったのである。

このプロセスが円滑に進まなかったことは、政治的権威が部分的であっても天皇により奪回されたことになる。そして同時に政治的権力も、長い歴史的時間スケールから考えれば一瞬にして、江戸から天皇を中心とする京都と幕府の存在する江戸の間に、空中浮遊することになったのである。

風により舞い上がった凧を奪い合う様に、朝廷、幕府、薩長を中心とする外様雄藩などがその権力をめぐって争うことになった。日本中で、攘夷や黒船などの言葉が“空気”を支配し歪め、雄藩や朝廷も足元が定かでなくなったようだ。そして、最下層に近い者ほど、○1地面に近いために足元がしっかりしていること、○2それまでの不満を大きなエネルギーに変換して持つこと、○3下層故に持つ何でも出来るという強み(道徳も品も武士道も無視し得るという)を持つこと、などから、結局実権を握ることになった。それが、明治維新の進行だったと理解する。

勿論天皇側の意見としては、「米国やロシアなど異民族が、日本国に深く入り込むことにもなりかねない通商条約を結ぶのは、“征夷”大将軍の仕事ではない」ということになるだろう。また、現実の政治において、天皇が権威を主張出来たということは、既に幕府の実質的権威と権力が低下していたということだろう(注釈3)。

(3)天皇が権威を取り戻し、薩摩などの外様雄藩の力を利用することになれば、権力者としての徳川幕府の地位が揺らぐ。しかし、天皇周辺が政治や外交に殆ど知識を持たないため、混沌とした時代に入りかけた。それに着目して、徳川慶喜は天皇を抱き込む戦法に切り替え、それが殆ど成功したかに見えた。実際、一橋、会津、桑名で政治の中枢となった京都の実権を握った。

その体制に対抗する意味で薩長同盟が結ばれたが、最新兵器と西洋式軍隊で最高の武力を持っていたとしても(注釈4)、それのみでは権威も権力も得られなかっただろう。正統性がなければ薩長の志士達でも権力を得ることは難しいのが、天皇という権威の持つ底力だと考える。その壁を破ったのが、孝明天皇の暗殺だったかもしれないのだ。この件についても注釈3に引用の竹田氏のブログに解説されている。

この権威と権力の分裂状態は、日本文化に定着してしまっているのではないだろうか。つまり、どのような組織でも、力のある者でも権威を持たない(得られない)場合が多い。権威は人間性という訳の判らない価値(宗教的価値)で評価された者に与えられる。(或いは、人間性ということばが権威の印となる。)(注釈5)
この権威と権力の分離の目的は、幕末の皇室がその方針とした様に、そして島国であるが故に許されて来た、何事も先に進まないようにする、究極の保守主義なのだ。

(7/17am 語句等一部修正;8/12朝一部修正)

注釈:

1)日本人の宗教は神道であり、それは汎神論的自然崇拝である。つまり、太陽、山、海などの自然を神として崇めるのが本来の神道である。建国の英雄を神にするのは、天皇家の発明によるものだろう。その神道を利用した権威により、武士の時代でも、天皇家は政治的権威を与える権威を獲得した。また、現在も日本国民の統合のシンボルとして存在する。明治からの国家神道は、戦争時に国民にたいして命の無償提供を強いるメカニズムとして、この新しいタイプの神道を利用したものだと思う。

2)天皇が政治的権威を保持することは、政治的権力を浮遊させることになり、危険が及ぶ。武士階級の出現以前は、当然天皇家も権力と権威を掌握する為に政治の前面に位置していた。この場合は危険の前面に位置することになる。天皇の暗殺事件については、旧皇族の竹田氏の頁を引用します。 http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu40.html

3)外様雄藩を政治から遠ざけるために、老中等幕府要職から遠ざけることは、諸刃の剣となったと思う。ただ、戊午の密勅と安政の大獄の後、幕府軍が京都にくることを天皇は恐れたということである。

4)薩長が鳥羽伏見の戦いなど戊辰の役で勝利を収めたのは、一度外国との戦いに破れ、西欧式武器と兵法のあり方を実地で学んだ事だと思う。元込式のライフル銃(スナイドル銃など)とライフル式の大砲(アームストロング砲)、そして軍艦などを購入し、西欧式の近代歩兵等からなる常備軍を創ったことである。その先頭にいたのは高杉晋作だろう。

5)かなり前になるが、相撲の取り組みのあと、モンゴル出身の朝青龍が勝ってガッツポーズをして、相撲協会の顰蹙(ひんしゅく)をかったことが記憶に残っている。最近では、同じモンゴル出身の白鵬が、勝ったときの懸賞金の受け取り方が、ガッツポーズ的でいけないと非難された。選挙でも、自分は知識能力ともに豊かであり、自分に委せれば上手くいくというタイプの、自己宣伝は日本のなかでは奥ゆかしさに欠けるとして嫌われる。かれらが組織のトップになるには、人間性を得るという脱皮のプロセスを経なければならない。

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