2015年10月21日水曜日

大学の改革は内閣の仕事ではない

内閣は、大学への助成金を手綱に使って、大学にくだらない介入をしている。大学はそれに答えたような形で、組織をいじくる計画書を書く。一体何が変わるというのか?

行政が大学の経営に口出しをして、社会に役立つ人間をつくろうとするのは、非常に貧弱な発想の結果である。大学には自分の力で改革して、自己責任で生き残るようにして貰えば良い。

そのために、大学への交付金は何年か先に全廃して、現在使っている交付金相当額は全額奨学金にするという案はどうだろう。当然、授業料はアメリカ並みに高額になるだろう。しかし、優秀な学生はそれを支払うだけの奨学金を手にすれば良い。

優秀な学生に恵まれず、卒業生が企業から見向きもされない様な大学は滅びれば良い。更に、大学をいじくる内閣の担当者が不要になり、予算の削減ができる。更に、交付金をチラつかせた大学への天下りもなくなる。

大学は必死になって、優秀な教官を世界中から探して採用するだろう。そして、自分の大学からの安易な採用をやめるだろう。その結果、教官の質は上昇するはずである。

大学は知の創造の場でなければならない。少なくとも後半2年間は、学生と教官が真剣な議論を講義の場でするようにならなければ、To teach is to learnにはならないし、教室は居眠りの場になるだろう。大学院では世界を相手に、実戦に参加できる能力をつけなければならないのだから、その準備を大学でするのは本来大変なはずである。

役立つ人間を作るのは、分野の再編や予算の重点的配分ではない。日本全体の学生が必死になって勉強しなければならないと思い、教官とともに努力するような雰囲気の大学をつくることである。

もちろん、上記のような学生が必死に勉強する大学にするという考え方は間違いかもしれない。ゆったりカリキュラムで、優秀な人材を育てる策を思いつく大学もあるかもしれない。要は、自由な競争を大学に持ち込んで、優秀な人材を育てた大学が生き残れば良いのだと思う。

そのような激しい競争は、過去に高校の段階であった。全く無名だった高校(例えば、京都の洛南高校)が、全国有数の進学校に変身したのである。そのような競争を大学に持ち込めば良いと思う。

高校の競争は、有名大学に入学させるための詰め込み教育だろうし、それは必ずしも最終的には良い人材を社会に送り込むことにつながったかどうかは明らかではない。しかし大学の競争は、社会で活躍できる優秀な学生を輩出するというものであるから、社会には即プラスになる筈である。

そのような優秀な大学に入学できる高校生を多数卒業させる優秀な高校は、現在の偏差値を上げる教育のスタイルを変えなければならないだろう。日本の教育環境が一変する可能性が高いと思う。

補足:上記は学問の分野などを一切考えないで、一つの考え方を”見本”として示したものです。大学補助金は全廃ではなく、現在の半分程度にすべきとか、工学と理学では教育のあり方が違うとか、いろんな意見があり得ます。

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