2016年2月25日木曜日

和を貴ぶ文化は高度な組織には向かない:日本陸軍の暴走について

1)「和を以て貴しとなす」は聖徳太子の17条憲法の第一条である(補足1)。日本の文化の特徴として頻繁に引用されるこの言葉は、現実的でなくイデオロギー的である。人と人の和は大切であるが、この条文だけではどの範囲の人を含むのかわからない。例えば、ある人ともう一人の人の間の和が、三人目の不和を含むなら、それは和の達成にはならない。

最も強固な社会の枠が、家族から、部族、民族、国家と拡大したのが、人類の歴史である。したがって、社会のあり方に関する法やルールは、その社会の枠内で一定の期間を通して、普遍性を持たなくてはならない。「和をもって貴しとなす」は家族や部族までの社会では普遍性を持ち得ても、複雑化した現代社会では普遍性を持ち得ない。つまり、17条憲法第1条など、この社会での何かを語るのに持ち出すことは間違いなのだ。

取って代わるべきは何か?国家全体の長期に亘る利益につながるものは、和ではなく真理だろう。真理は動かず、思考の原点になり得るからである。その原点から思考を開始し、何が国家にとって得かを論理を尽くして考え、道を導き出すのが為政者の仕事であると思う。

2)しかし、日本社会は17条憲法第1条の呪縛にかかっている。最近昭和史の本を少し読んでいるが、あの英米と戦争を始める際、データを元に(補足2)強く反対した冷静な意見は、熱くなり思考停止に陥った連中の楽観論に打ち勝たなかった。そんな時に標語となるのが「精神一到何事か成らざらん」である。そして、予定通り敗戦となり、その後も和を以て誰も責任を問われることはなかった(補足3)。

この時陸軍が主導的な役割をするが、その陸軍の組織としての特徴がノモンハン事件に関する本、「ノモンハンの夏」(半藤一利、文春文庫)に書かれている。このケースでは、和の範囲は陸軍でさえなく、関東軍限りになったのである。和の範囲が狭まると、思考力はないが親分肌の人間が座を支配し、自分たちにとって有利な楽観論が狭い空間での空気を支配する。

参謀本部の方針は、国境紛争不拡大だったが、関東軍司令部はそれとは全く逆の「満ソ国境紛争処理要綱」を将軍たちに示達した(1939年4月)。それはソ連軍の力を軽視した楽観的な分析を前提としており、広範な議論を経ず、関東軍司令部作戦課に集まった数人によりまとめられた。彼らは、陸軍大学を優秀な成績で卒業して恩賜の軍刀をもらった秀才たち、好戦的な辻少佐や服部中佐などである。(ノモンハンの夏、57頁)

盧溝橋事件から戦闘に入った対中国戦争で手がいっぱいの陸軍にとって、ソ連(外モンゴル)との戦争は避けたい。東京の参謀本部のこの方針を実質的に無視して、大敗する結果となった。秀才が集まった関東軍作戦課だったが、和を重視する文化の下での限られた議論では、数人の楽観論に収斂する危険が高いのだ。

辻参謀の「前後を通じて、当時の関東軍司令部ほど上下一体、水いらずの人間関係はなかった」という言葉は(同上、56頁)、“水入らずの人間関係が国を危うくした”ことを示している。辻氏は戦後、代議士となった。“和をもって貴しとなす”原理の支配下にあるこの国では、業績の客観的評価など期待すべくもない。

補足:
1)一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 口語訳:一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことに順わなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
2)英米と戦争すれば、石油はとまる。石油備蓄量から考えても、戦えるのは1年半くらいであった。(半藤一利、「昭和史」平凡社文庫308ページ)
3)東京裁判は敵国によってなされた戦争処理のようなものである。国内では、国民の署名と国会での議決に基づく、戦争犯罪者の釈放、処刑された者の公務死認定、靖国神社への合祀が全員を対象になされた。

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