2016年3月13日日曜日

日本経済と日本文化の関係

昨日の土曜コロシアムの経済についての議論は、アベノミクス批判に終始していたように思う。批判のための批判を繰り返すコメンテーターの言葉には飽き飽きする。日本経済の現状を安倍政権の経済政策だけで議論しているという愚かさに気づかないのか、敢えてそのように大衆を刺激する方向で番組をつくったのかどちらかである。兎に角、テレビなどマスコミの質の向上が、日本の政治経済にとっての体質改善に必須だと思った。

1)現在のデフレ経済の原因は、経済のグローバル化が進みすぎた結果であり、安倍内閣の経済政策の所為ではない。行き過ぎた円高を日銀の量的緩和で是正するというアベノミクスの第一の矢は見事に、77円のドル/円レートを110円以上の購買力平価から見て適当な値に戻し、多くの企業を(さしあたり)救った。ソニーやパナソニックなど大企業が軒並み、円高で青息吐息だったことを忘れてはいけない。

日本経済の問題を考える時に、経済のグローバル化の副作用に如何に対処するかの他に、この放置すれば77円という円高になった日本経済の体質についても考える必要があると思う。

日本経済はこれまで、個人は貯金する一方で、金を使うのは政府の役割のようなかたちで進んできた。その結果、公債残高が800兆円にもなっている。利払いが12兆円ほどであるから(財務省HP参照)まだ良いが、利息率が急上昇すれば新規国債発行はできなくなり、財政破綻する。M氏は財政支出を増やさなければ景気は回復しないというが、あまり簡単に言わないで欲しいものだ。

不景気の原因を国内で探せば、大きな借金を抱えている国よりも、多額の貯金を持っている一般国民が、投資であれ消費であれお金を使わないことが大きな原因の一つなのだ。そう思っている癖に何故言わないのだ。テレビに出て出演料を稼ぎたいという小さい根性が気に入らない。

法人減税を攻撃するが、日本のグローバル企業が競争力をなくしたら、日本経済は干上がる。そして、国家の富はそれら企業の競争力で決まる。安倍内閣の法人税(世界4位の高い負担率)を国際標準レベルまで下げる政策は間違っていないと思う。 http://ecodb.net/ranking/corporation_tax.html

日本人の暮らしがよくならないのが、日本人の実力なら、徒らに政府を攻撃するべきではない。また、解りやすいからといって個別に何かを取り出して攻撃をすべきではない。総合的に議論すべきであると思う。そして、社会の問題や文化の問題にまで、戻って考えるべきである。

2)国民は何故かセッセと預金をしながら、慎ましやかに生きている。その代わりに、政府がその金を使う役割をこっそり受け持ち、金を回している。何故、そのような損な役回りを一般国民はするのか?その原因は、アンケートをとれば明らかである。つまり、将来に対する不安であり、政府に対する不信、更に、最終的には誰も助けてくれないという孤独感である。その心理はどこから来るのか、本質的治療法はないか、そこを議論すべきである。

原因は、日本の政治および社会の文化にあると思う。日本の特徴は、攻めではなく高度に守り重点の社会であると言うことである(補足1)。更に原因を遡ると、日本は本質的に入口社会だということである。政治家や会社経営者などの支配層は、貴族であり従って世襲される。

人生を決めるのは生まれであったり、大学の名前であったり、会社の名前であったりする。そこに入った後、どれだけの実績を積んだかは問題にならない(補足2)。入った後の挽回はできない。今少しでも何かがあればそれを大事に守るしかない。

入口社会の特徴は身分の固定であり、システムの現状維持である。つまり、今持っている東大卒という勲章、何々家の出身であるという身分、何々という大物俳優の娘であるというコネ、何々会社社員という肩書き、などに物を言ってもらうしかない。それらを支えている現在の体制に変化があれば困るのである。

その結果、変化につながる全てに対して日本社会は抵抗する。変化につながるので、議論はなるべくしないし、現状維持の為に「和」を何よりも大切にする。一般庶民も今持っている貯金を非常に大切にする、今持っている健康を異常に気にする(補足3)。その性質は、貯金の量にも、身分の貴賎にも、健康の度合いにもよらない。

そしてその結果、未だに政府はお上であり、庶民は被支配者としての身分を甘受しているのだ。

その入口社会と対をなして、原因として日本文化の土壌中に根を張っているのが、議論を軽視或いは蔑視する社会の価値観(文化)である。それは同時に、出来の悪い日本語に対して美しい便利な言葉という評価を与え、国民に刷り込み、原状維持に努力する。

それらは、鶏と卵の関係にある。現状維持重視の”入り口社会”であるが故に、「議論は口論であり、口論は喧嘩であるから、議論は理屈屋の悪癖」という評価が定まったのである。それは、日本語の劣った情報伝達能力および論理展開能力と調和して、日本語の改善を妨げたのだと思う。また、そのような日本語を使い議論や個人評価を軽視するが故に、入口社会のままで、入ったあとの実績評価ができないのである。

日本語だけではない。東アジア全体が嘘つきと誤魔化しの文化圏(補足4)であるのも、言葉を軽視する文化と出来の悪い言語しか持たないからだと思う。言葉を軽視する文化、個人が自立しない文化、入り口社会は同根であると思う。

補足:
1)守りの姿勢は、人間一般或いは生命一般の性質である。ただ、過度に守りを考えると、守りのために攻撃するという非生産的な攻撃を生む。国家なら、防衛の為に戦争するのだが、その防衛ラインがどんどん外側に広がる。

2)正規雇用で入ったか、契約社員で入ったかによって、給与も大きく違う。入り口社会の特徴をこれほどよく表している現象はない。

3)「武士は命の使い方が大事である」の時代の人が聞いたら、水素水、マイナスイオン、ω-3脂肪酸、ヒアルロン酸、コンドロイチンで大金を使う現代人をどう思うだろうか?

4)あの悲惨な戦争を経験しながら、日本独自に議論を通して戦争の評価ができなかったし、今も出来ていない。その結果、GHQから憲法を作るよう指示されても、天皇主権制を維持した憲法草案(松本草案)しか作れなかった。そして、それが却下されGHQ民政局の作った草案が示された時、日本側の面々は茫然とし、顔は驚愕と憂慮の色を示していたという。
 内閣で議論してもまとまらず、結局再び天皇の聖断を仰ぐという情けない状態だった。そして幣原の後を継いだ総理大臣の吉田は、「これは自由に表明された日本国民の意思に基づいたものである」と国会で答弁することになる。(日本永久占領、 第4章参照)このあたりの吉田茂や幣原喜重郎など官僚政治家たちの系図の延長上に現在の政治がある。

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