2016年5月17日火曜日

意識の発生についての解釈は、未だに宗教のレベルを超えていない

意識とは自分という認識であり、ニコラス・ハンフリーは “自分の心の中を観察する能力”と同じ或いは同居するものと解釈し、それを“内なる目”と表現した。つまり、自分の心の動きを見る能力と同時(或いは伴)に、意識が発生したということになる。「意識を持つ動物にとっては、あらゆる知的動作には、それに関与する思考過程の“自覚”が伴い、あらゆる知覚にはそれに付随する感覚が、あらゆる情動には感情がともなうだろう」と書いている。しかし、これで問題、つまり、意識の起源に対する疑問が解決したようには私には思え無い。

別の表現を用いれば、問題は「他の人間が自分と同じように意識を持って生きていると言えるかどうか」である。単に自分と同じように意識をもっているかの様に動く有機ロボットかもしれないのである。昨日のNHKの番組で放送されていたが、最近の人工頭脳は自分で学習し、製作者も予測できない応答(答え)をし、感情を持つ。そのタイプの人工頭脳を搭載した車は、他の車の行動を予測して、互いにぶつからない様に移動する。それは複数の車による社会的行動とみなし得る。その人工頭脳に意識が生じていないと言えるなら、(自分でない)他の人間が有機ロボットでないとどうして言えるのか?

それが、昨日投稿の「“内なる目”について:意識の発生&善と理想主義の系譜」において、「人間は”自分”という意識を持つ動物である。その意識とは何なのか、何処で生じるのかなどについては、ほとんど永遠の謎である」と書いた理由である。そしてハンフリーもこの根本的問題には回答を与えることはできていない。

昨日のブログにも引用したが、ニーチェが「ツアラトストラ」第一部の肉体の軽蔑者という節で、「自分は全的に肉体であって、他の何者でもない。そして魂とは、肉体に属するあるもの言い表す言葉にすぎないのだ」と書いた。これが正しいのなら、犬にもネズミにも、たとえハエにも、そして、最新型のロボットにも能力に大差があるとしても意識が存在しても良いことになる。ツアラトストラの言葉を参考にして意識を定義すれば、”肉体の知覚とそれに対する応答機能に関係する部分”の名称にすぎないとなるだろうから。

ハンフリーの本“内なる目”には、デカルトが人間以外のいかなる動物にも意識の存在を否定したのは、自動的に例えば猿の様に動くロボットのようなものの存在を想定したからであると書かれている。そして、人間のみが自分の思考プロセスを見る“内なる目”が存在し、それが意識であるとしている。

しかし、グーグルのα—GOに使われ、最近の自動運転車に使われた人工頭脳は、自分(車)の計算プロセスと他の車の反応を比較して、ぶつから無い様に移動するという社会性を実現しており、ハンフリーの言う“内なる目”をもっていると言えなくもない。また、昆虫にさえ社会性のある動物として、軍隊アリなどが知られている。移動する際に、大きな窪みがあれば、一部のアリが橋のような構造を作って、他のアリの移動を助けるのである。

他の動物や高度な人工頭脳における意識の有無は、最終的には宗教を否定するニーチェと宗教を肯定するデカルトとの間の論争だと思う。ハンフリーの説も、デカルト派から派生した一派を成すのだと思う。

この問題は旧約聖書の創世記にも書かれている。あの有名なイブが蛇にだまされて”善悪を知る木の実”を食べる一場面である。「女がその木を見ると、それは食べるのに良く、目には美しく、賢くなるのには好ましいと思われたから、取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰にまいた。」

この文章を見ると、木の実を食べる前にその木も実も見えていたのである。しかし、それを取って食べた時に、二人の目が開けて、自分たちが裸であることを知ったのである。この木の実を食べたあとに「目が開けた」と書かれていることが、意識の発生を意味しているのだと思う。要するに、意識の発生とそのプロセスなどについては、旧約聖書のレベルを超えることができていないのである。

つまり、昨日の最初に言ったとおり、意識の問題は未だに宗教の問題であり、科学的には永遠の謎のままである。

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