2016年5月2日月曜日

言霊信仰と教条主義

1)英雄の言葉と言霊信仰:
言霊とは言葉に宿る霊である(補足1)。言霊信仰とは、発せられた言葉に現実が影響或いは支配されると信じることである。言葉に霊が宿るのであるから、その霊の力を利用するには、その言葉を発すれば良い。日本人の多くは気がつかないレベルかもしれないが、言霊信仰を持っている。その証拠に、受験生の前では、「落ちる」という言葉を用いてはいけないし、法事などでは訳の分からない経を仏前であげて納得している。

経は、死者の霊に供養(プレゼント)する為に唱えるのである(補足2)。その際、言葉そのものに霊力があるのだから、例えば般若心経の意味など理解する必要はない。その般若心経であるが、当時の思想的英雄である釈尊(ガウタマ・シッダールタ)が弟子の舎利子に伝えた思想のエッセンスである。もっとも古くてオリジナルな仏典であるが、漢語に翻訳されているのでどこまで原語に忠実に訳されているか分からない。

釈尊でも救世主イエスでも、英雄の発した言葉には当然特別な力がある。それに従って行動することで、その英雄に導かれた大衆は大きな利益を得る。それは指導書としてまとめられ、聖なる書として常に携帯されるかもしれない。その民族は、幼少時にその言葉を暗記する為に、なんども復唱するだろう。

英雄にとっては、大事業を仕上げるための方針が頭の中に集積されている。そのエッセンスを言葉にしたのが、その聖なる書である。その英雄に続く勇者は、その聖なる言葉に自分の知的解釈を加え、具体的且つ個別にその勇者に従う大衆のための指針を作り出す。舎利子も、釈尊のことばを用いて、苦しむ衆生の迷いを取り去ることができただろう(補足3)。聖なる書の言葉を既に大衆が暗記しておれば、大衆にそれを引用して誤解なくそれらを伝達できる。

しかし、時代が下り、遠方にその聖なる言葉が伝達された場合、理解が十分でなくなり、所謂教条主義が現れる場合が多い。

2)聖典と教条主義:
教条主義とは、現場の情況や諸条件等を組み込んで、具体的で正しい指針を作り出す能力の無い者が、その何条かの聖なる言葉(教条;補足4)を、機械的・短絡的に適用する態度である。例えば、親鸞の悪人正機の説が広まった鎌倉時代、親鸞の教えを受けたことの無い人の中に「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という者が現れたという。これも教条主義の一つだろう。共産主義社会の建設が失敗に終わったのも、教条主義の結果であると言われる。

教条主義には言霊信仰の萌芽が見られるが、同一ではない。しかし、ありがたい教えが国を越え、何人もの解釈を経て遠くに伝達された場合、教条主義の段階で消えてしまわなければ、最終的に言霊信仰が残ると思う。例えば、仏典は最初パーリ語で書かれていたと思う。それが中国語に訳された段階で、既に論理が一部破綻している(補足5)。そして、それが日本に輸入され、言霊信仰の対象となったと思う。

マルクス主義の過激派学生の中では、弁証法の言葉や、革命とか反革命などの言葉が、言霊を伴って発せられていたと思う。論理的空間に居るという錯覚と言霊の両方に支配された人々は、ゲバルトの世界の住人となる。

3)言霊の国際的悪用について:
経済の発展により少なくとも表の世界では、民主主義という大衆化がグローバルな政治的趨勢となった。しかし、大衆には多くの前提と多くの要因、更に、歴史的経緯などを考慮した論理的考察は不可能である。そして、教条主義或いは言霊信仰と言っても良い現象が広く見られるようになった。例えば、自由、人権、環境などの言葉があたかも言霊を持つかのように、政治の表舞台の主人公となったのである。

少なくとも先進国社会において、無上と言っても良いくらいの価値を置くことで、裏の政治を操る勢力にとっても、便利な武器となり利用されている。ひと昔前には、そして、ひょっとしてちょっと先の未来世界では、更に、先進諸国からは陰となっている地球の一部では、何の価値もないものかもしれないのである(補足6)。

オーストラリアに鯨の命を日本人の命よりも重視する人たち、シーシェパードという団体に所属する人々がいる。彼らにとって環境はそれ自体で無上の価値を有する言葉であり、彼らはまさに言霊に支配されているとしか言いようがない。 また、軍国主義ということばが戦前の日本に対して用いられる時、西欧や日本以外の極東アジアの人々などにとっては、言霊で帯電させたかのように用いられている。

日本の軍国主義については、戦った相手の極東軍司令長官のマッカーサー将軍が、対日戦争とその後の朝鮮戦争の現場指揮官としての経験から、日本の戦争の動機は自衛のためであったと、米国で議会証言した。そのことでもわかる様に、その時代背景などを考慮すれば、単純に悪の権化のように言われる筋合いのものではないのである。それは、ナチスのホロコーストとは全くことなる。また、無責任な売国奴的人間が考え出した従軍慰安婦ということばも醜悪なる言霊を帯びさせて、現在もっぱら反日プロパガンダ用のことばとして用いられている(補足7)。

補足:
1)霊とは、①肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい。霊魂;②計り知ることのできない力のあること。目に見えない不思議な力のあること、また、その本体。(広辞苑第二版)
2)死後霊は、極楽か地獄かに生前の行いの良し悪しに従って、振り分けられると考えるのだろう。経は、その霊を良き方向に清める為なのか、裁きを司る仏に対するプレゼント的なものなのかは判らない。このあたりは、西欧的論理など無用の領域である。
3)聖なる書は大抵英雄の弟子が作る。新約聖書ではマタイやヨハネなどがイエスキリストのことばを聖典にまとめた。
4)色即是空、空即是色ということばは、そのままでは集合論的に論理破綻していると思う。一切皆空、つまり、色(形ある物)全てが空(実体のない物)であるとしても、空が色の形容であるなら、このことばは論理的ではない。もし、空が色に全く等価なら、釈尊の存在は何なのか?
5)教条とは、教会が公認し、信者に信仰させる教義を、箇条として表現したもの。(広辞苑第二版)
6)アフリカではアルビノの人たちが虐殺され、その骨が売買されているという。ちょっと場所が変わるだけで、自由や人権も無力な言葉となるのだ。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6199672
7)貧困の極限的条件と生死をかけた戦いの時代という背景でもなお、戦場の置屋の門を潜るのは自分あるいは親族の意志に基づくように徹底していた。本人が強制された事例はあるだろうが、それは置屋までの業者や親族により、更に軍人が関与している場合は犯罪的行為としてなされたことであり、日本政府や日本軍の直接関与ではない。

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