2016年8月22日月曜日

信仰の自由はどこまで政治の場面で主張し得るのか?

世界の国々でも日本でも、信教の自由が憲法に定められているケースは多い(補足1)。信教とは宗教を信じることであり、信教の自由とは特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。また、宗教とは、超越的絶対者や神聖なるものへの信仰(補足2)である。更に、信仰とは信じ仰ぐことであり、自分をその教えに従属させることである。

宗教に関して、もう少し詳しく我流解釈を書くと次のようになる。“宗教とは、世界と人間の理解、そして人間の行動と精神のあり方に関する、其々教祖の言葉や聖典の文章を、信者である個人が尊び受け入れることである。” それは、聖典や教祖の言葉にある記述に関する限り、精神における個人の自由はないと考えられる。(つまり、他からその人の精神の一部が、完全に予測可能である。)

一方、民主主義の原則は、有権者である個人が政治信条などにおいて独立を保ち、自分の意思でもって政治に参加することである。そこで、教祖や聖典の言葉が政治的判断に直接的に影響する場合、その宗教を信じる自由と民主主義を含むあらゆる政治体制とは、まともな形では両立しなくなる(補足3)。

大日本帝国憲法は、「社会の安寧秩序を妨げず、臣民に与えられた義務に背かない限りにおいて」と、条件付で信教の自由を認めている。非常に大まかな縛りの文章であるが、上記問題に関して考慮済みである(補足1b)。実際日露戦争のとき、良心的兵役拒否したキリスト教関係の人は、逮捕収監された。

日本国憲法では、それに相当する文言は「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない。」である(補足1a)。この文言では、個人の信教の自由による行為には踏み込んでいない。宗教団体は地下に潜ることは可能であるから、現行憲法はこの点に関してかなり防備が弱いと思う。

一神教の敬虔な信者である外国人を移住者として受け入れる場合、上記問題は難しい事態を招く可能性があると思う。「国家か神か」という選択になった場合、一神教の信者は神を選ぶことになるからである(補足4)。現在、国際政治の場における参加主体は、国家であり宗教でも民族でもない。従って、この種の問題は国際政治を不安定にする。

キリスト教圏などにおいて、信教の自由が政治と衝突しないのは、政治に積極的に参加する層に宗教心が薄く(補足5)、且つ、宗教において高い地位にある人が、政治と宗教の関係に深い理解をもっているからだろう。

補足:
1a)日本国憲法第20条:  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2: 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3: 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
1b) 大日本帝国憲法第28条:日本臣民ハ安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス及臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
2)広辞苑第二版では宗教を以下のように説明している。“神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会を営む。”
3)宗教の聖典に書かれた思想や教祖の口述による思想が、そのまま信者全体に採用され、其々が個人の考えという衣をかぶって政治の舞台に出てくる。
4)同じ宗派の敬虔な信者たちが、二つの敵対する国家に分断された場合などのケースで、この種の問題が生じるのではないだろうか。
5)「神は死んだ」と言っても、その方の身に危害が加えられたとは本などに書いてない。

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