2016年8月28日日曜日

空気の支配する国日本の弱点について:高畑淳子は何故記者会見を開いて謝罪するのか?

日本社会の特徴は、人と人の間に不可解な「空気」が濃く存在することである。その結果、ある集団の構成員の破廉恥な罪は、他の構成員に連帯責任がを強要する。また「空気」を過剰に意識し、支配された集団は、論理的に設定された筈の目標を見失って迷走する。それらは全て、個人の自立が大人になっても達成されていないことによる。その背景には、日本文化があると思う。

1)ここ数日間、ある俳優による強姦事件がテレビの報道バラエティ番組を占拠したように報道されていた。その異常とも言える報道頻度と時間は、日本の報道界のレベルの低さを示しているが、別の視点で見れば、日本社会がそれを要求しているからである。更に驚いたのは、母親が記者会見を行い、謝罪し、更に今後の俳優としての活動の自粛に言及したことである。

その事件と相前後して報道されたのが、埼玉県で高校一年生が殺され河川敷に埋められた事件である。この事件では、地元のカラーギャングが犯人で、その理由は連絡を取らなかったからというものである。http://mainichi.jp/articles/20160825/k00/00e/040/155000c

この種の集団は、個人では出来ない目立った行為や時として不法な行為を集団で行い、瞬間的な優越感に浸るのだろう。チーム内では”個人の壁”をある程度持つのはリーダーのみであり、あとの構成員は個人とは言えない筈である。殺された被害者はそのチームの使い走りたなって一週間ほどして、チームから逃れようとしたのだろう。個人としての行動をすれば、厳罰が下るのがその種のチームの姿である。

2)上記二つの出来事は同根である。人間は集団で生き、集団にはボスがいる。小さい集団では、集団の意思はボスの意思である。そこで重要なことは、その集団の意思を知ることであり、敏感に感じることである。日本社会というような大きな社会では、その意思は山本七平風にいえば「空気」ということになる。

最初の例では、高畑淳子さんは鋭敏に空気を察知して、謝罪会見を行った。もちろんそれは、将来の仕事と自分達の生きる空間の確保のためである。決して、自分が社会に対して責任を負うべきだとは思ってない筈である。悪いと思っているとしたら、片親という家庭環境しか息子に与えることが出来なかったことが、息子の性格に影響したのではないかとの思いだろう。

あの会見は、社会への謝罪の形をとっているものの、今後の社会によるイジメを回避するためのものである。そこでは論理的なことを決して言ってはならない。空気が嫌うのは論理であるからである。ひたすら、詫びて涙を流すのが正しいやり方である。

二番目の例は、もっと強く結びついた小さな社会の出来事である。この種の小さな集団は、社会からは浮いた存在である。そのため、常に構成員が社会に吸収されて集団が分解してしまう危険性があり、その危険の自覚がその小さな社会の結束力となっている。

その集団では構成員の間での互いの存在確認が頻繁にラインなどのスマホツールを用いて行われていただろう。準構成員とみなされていた被害者が、この集団から一般社会に逃避しそうになったため、集団のルールに反したことの罰と、(同じことであるが)その集団の団結力の確認のために、殺されたのだと思う。殺したのは個人ではなく、集団である。唯一個人として責任を負うのは、その集団のリーダーである。

3)中学校などでのイジメの典型でもあるこのような傾向は、人間である限り共通して持っている。しかし、特に日本でその傾向が強いのは、この国の人々は殆ど“個人の自立”を感覚的に理解していないからである。個人の自立とは、例えば独自の意見を自分の言葉で発言することである。

この国のどのような社会でも良いから、新参者(評価がプラスマイナスゼロである)が独自の意見を集会などで言ってみれば良い。その発言者はその社会でただちに孤立し、その社会の構成員に陰口の種を提供することになる。

「個人では構築し得ない深い論理的モデルを、集団での議論を通して構築し、難問を解決すること」は西欧が築いた一つの文化の形式である。この「万機公論に決すべし」と明治時代にうたった理想が、未だ実現していないことをすべての日本人は知っている。そして人々は、ひたすら“世間”の空気を読むことに専心し、その空気の支配を受ける。それが、あの大きな社会である筈の東京都議会で一人のつまらない議員が、ボスとして君臨できた理由である。ボスは空気を支配する祈祷師である。東京都議会は、日本国のモデルでもある。

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