2016年12月25日日曜日

テロと死に関する雑感

1)ドイツのベルリンで、チュニジアから来た男の運転する大型トラックがクリスマスマーケットに集まった買物客めがけて突っ込み、多数の死傷者を出した。ISISは今朝、犯行声明を出し、更に、その男の遺志を告げる動画を配信した。その中で、「十字軍の豚どもをやっつけろ」と語る男の姿があった。http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122300334&g=int

また、トルコでは駐在するロシア大使が警察官により暗殺された。テレビで放映された銃撃後の男の様子は、高揚しているのだろうが狂気には程遠かった。「俺の命はここで終わる」「アレッポを忘れるな」と叫んでいた。

NHKニュースは犯人と呼んでいたが、そう呼ぶことで真実から遠ざかるような気がする。犯人というのは、社会の掟に背いた人に対する呼称であり、その社会そのものを認めない人に対してはふさわしくない。その暗殺者の行為は、犯行ではなく戦争のように見える。その一方で、死に場所と動機をISに求めた自殺にも映る。それはまた、宗教のための殉死のようにも見えなくもない。

広い心で難民を受け入れようとしたメルケル首相の悲しそうな姿が眼に浮かぶようである。空き地があるのなら、新しい人を迎え入れることもできるだろう。しかし、地球はもはや狭くなり、人を十分受け入れる余裕を無くしつつあるのではないか。その前触れのように見える。

2)人の命は儚く、死は忌み嫌うものであると考える人がほとんどである。昔、武士は死ぬべき時と場所を考えた。自分の命を民族の繁栄か何かのために使うという発想で、死を乗り越えた人たち。その死は、武士という誇りと表裏をなすと考えられる。誇り高い人がほとんど居なくなり、且つ、そのような人が嫌われる今日、死は”忌み嫌われること”以外の解釈を失った。

難民や移民を、人道的見地から受け入れようというのは簡単である。問題が深刻化すれば、テロリストを攻撃するという道が残されているのだから。テロの解決や防止を考える人たちは大勢いるが、問題が深刻化してからもそれを考え続ける人はほとんどいないだろう。対立は悲しいことだが、ある意味必然のような気がする。“自分か相手かどちらかが地球上に住む切符を争う”ということの連続が歴史を作ったのだろう。(一つ前のブログ)

3)NHKで放送されるプラネットアースの予告編を見た。それには、必死に荒れ狂う海に漁に出て、子育てのために命を賭けて餌を得るペンギンの姿などが放送されていた。ペンギンに食われる魚のことを少しでも考える人はテレビの前にほとんどいないだろう。また、目も眩むばかりの険しい土地に住むことで身を守る山羊とそれを狙う狼のような生き物も映していた。生まれて間もない子ヤギがその動物に狙われたが、子ヤギは10m以上の崖を飛び降りる力を持っていた。その子ヤギの助かった陰で、その狼のような動物の子供の飢える姿を想像する人は稀だろう。

また、他の番組で、水ダコという巨大な蛸が、10ヶ月の間何も食べずに、卵が孵るまで外敵から守り続ける姿を映していた。親蛸は、子の孵化とともにその場で死ぬのである。神は、生き物を創造して、このような悲しい姿を見たかったのだろうか?

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