2017年1月12日木曜日

米国ニクソン大統領が佐藤総理に日本の再軍備と核装備を勧めたという話

1)米国の対日政策は一貫して、日本国の「骨抜き」を目的としていると考えてきた。つまり、非武装を定めた日本国憲法の制定や有能な人間の公職追放など、マッカーサーの戦後の占領政治の延長上に現在もあるということである。しかし、それとは若干異なる歴史的事実も存在したのである。

以前のブログでも書いたのだが、片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)において、佐藤栄作の首席秘書官だった楠田實著の「楠田實日記」(中央公論社、2001年、776頁)を引用して、米国ニクソン大統領が憲法改正と核武装を1967-1972の間に何度か佐藤栄作総理に勧めたことを書いている。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html

この片岡鉄哉氏の本を読んだ時には十分消化吸収できなかったのだが、今回江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画を見て、納得できたので、その講演の資料を参照して少し追加する。

米国は、1962年10月の“キューバ危機”において、ソ連との悲壮な決意で臨んだ交渉の結果、核戦争の危機を脱した(補足1)。また、ベトナム戦争において、1965年には最大16万人を派兵しながら、勝利には程遠かった。ニクソン大統領の提案はそのような情況下でなされたのである。その冷戦時の米国の焦りを前提にすると、再軍備と核装備の勧め、および、冷戦における米国への積極的協力を、日本に要請したことが理解できるのである。

2)1967年10月、ニクソン大統領は外交専門誌foreignaffairs誌上で、ベトナム戦争に疲弊した米国は、もはや世界の警察官としての役割は十分には果たせないので、同盟国は「中国の野望」から自らを守るために、より一層の努力が必要であると述べた。1969年11月ニクソン大統領は佐藤総理に、沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製に変えるように促した。

1972年1月、訪米した佐藤総理に対して、ニクソンはアジアでの日本の軍事的役割の拡大を主張したが、佐藤総理は「日本の国会と国民の圧倒的多数は、核兵器に反対している」と反論した。これは、ソ連と中国の脅威に対して、日本はアメリカと共に戦う意思はないと表明したことになる。しかし、日本は日米安保条約をあてにしないわけではない。日本は、この子供の論理から戦後四半世紀経っても抜けていないし、抜ける努力もなされていないと最高指導者は言ったのである。

ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官(のち国務長官)らが、冷戦に勝つために恐らく並行して考えていたと思われるのは、日本の軍事面を含めた協力とソ連と中国の分断である。当然、後者の作戦において中ソ国境紛争(補足2)が米国の味方となると、そして、日本が米国に一人前の国家として協力しないのなら、日本を売り渡すことは大きな取引材料になると、ニクソンらは考えた筈である。

1972年2月に訪中したニクソン大統領は毛沢東との会談で、日米安保条約は「日本が軍事ナショナリズムに走ることを阻止するためのものである」と主張した。そして、2月28日の米中共同コミュニケにおいて、中国側は「日本軍国主義の復活と対外拡張に断固反対し、中立の日本を打ち立てんとする日本人民の願望を断固支持する」と書き込んだ。

その後は、1976年三木内閣の防衛費GNP1%枠設定、1982年鈴木善幸内閣での教科書問題事件で、歴史教科書に日本の「侵略」を明記することの約束など、現在の日中関係が出来上がった。

3)日本が何故、このような半国家のような状態になったのかは、戦後、経済復興を最優先したからという言い訳はありえる。しかし、経済発展は国家あってのことであり、そのような路線は極短期ならともかく将来に禍根を残すことは、誰でもわかった筈である。

その戦後政治において、日露戦争後日本が受け入れた多くの中国人留学生が、大きな働きをした。共産主義思想を日本で学び、その後中国共産党員として日本の工作に関わったという。特に、中国共産党の下に位置した(補足3)日本共産党など左派勢力に大きな影響力を持ったというのが、江崎道朗氏の講演「中国共産党の対日工作」の主題である。

前回のブログに書いたように、その工作が与党である自民党の主流派にまで及んだことが、日本の半国家化に大きく寄与したということになる。そのもっとも大事なポイントは、過去の戦争を侵略戦争と位置付けて、それとの関連で日本の再軍備や日米安保条約に反対するという筋書きである。その考え方に日本の国立大学の学生たちの頭脳が完全に支配されたのが、60年および70年安保闘争である。

日本が主権回復後に、大学等の英知を集めて過去の戦争を詳細且つ客観的にレビューして、その作成した報告書をにおいて正当化すべきところを正面から主張しておけば、このようなことにはならなかったと思う。その趣旨の記述は、半藤一利氏の昭和史などにはない。むしろ、韓国人のキム・ワンソプ氏の「親日派のための弁明」で述べられているのは情けない限りである。

補足:

1)キューバ危機:
共産主義が自由主義に勝つのではないかという恐れをかなりの人が持った時代の出来事である。米国民の事情に詳しい人のかなりは、共産主義の波が米国を飲み込むのではないかと本気で思っただろう。J.F.ケネディは就任後すぐに、キューバで誕生したカストロ政権を牽制する意味で、キューバの経済封鎖を発表した。その翌月、5月にベトナムに正規軍を軍事顧問団の名目で投入する決断をした。その同じ5月に、宇宙開発とロケット技術での遅れを取り戻すため、議会において月面に人を送る計画のスピーチを行なっている。
その翌年の10月にキューバに核基地が出来つつあることを米国は発見した。その対抗策である海上封鎖を、ケネディがテレビで米国民に知らせた時、彼らの共産主義に対する恐怖は頂点に達したと思う。キューバ危機は、ソ連のミサイル撤去という形で幕を閉じた。その代わり、米国はキューバへの不介入とトルコに配備していた核ミサイル撤去を約束した。両方の駆け引きは、一流の指導者ならではと思わせるものである。互いに、取りうる選択の余地を残して交渉できたのは、互いに相手の力を評価していたからだろう。

2)つまり、1969年3月ウスリー側の中洲を巡って武力衝突をし、その後もアムール川の中洲などで衝突を繰り返すことになる。しかし、ソ連のコスイギン首相はベトナムのホーチミン国家主席の葬儀のあと北京に立ち寄り、周恩来首相と会談を行い政治解決の道を探るために問題を先送りし、軍事的緊張は緩和された。

3)コミンテルン執行委員の佐野学は、コミンテルンより日本共産党に対する活動資金及び各種指令は、中国共産党の手をへて伝達されることが多いと、供述したという。

0 件のコメント:

コメントを投稿