2017年1月21日土曜日

学歴社会は欠陥社会である

1)共通一次試験が先週末行われた。その際、スマホなどの持ち込みが厳しく制限されたが、それについてyoutubeの動画で経済評論家の上念司氏が面白いことを言っていた。それは、「スマホなんか持ち込み可にすれば良いのではないか。どうせ調べればわかることを暗記するなんて、意味が無いではないか」という内容であった。

この言葉には一理ある。大学で学ぶのは、社会に出て実務についた時の為の能力をつけるためである。そして、その時には辞書もスマホもパソコンも手元にある。法律家が仕事をするときには六法全書を手元に置くし、文筆家は辞書を手元に置くだろう。本当の能力はそれらを使いこなす能力であり、それらの中身を暗記していることではない。だから、大学入試は単なる知識をテストするよりも、それらを使っての問題解決能力をテストすべきではないかと言うのである。

例えば、一時期流行った漢字検定なんかも、いったい何の意味があるのか不思議である。パソコンで何時でもチェックすることができるのに、何故難しい漢字まで覚える必要があるのか。役に立つのは、芸能界に入ってテレビのクイズ番組に出演する時くらいではないのか。

日本の大学が世界の目から見てレベルが低く、大学ランキングでも中国やシンガポールなどの後塵を拝するのは、入ってから学生が勉強をしないからである。暗記や過去問の練習で毎日数時間潰せば、勉強なんか嫌になるのは無理ないだろう。その苦しい勉強に耐えた奇特な人の中から“人格優秀”なのが社会の重要なポストにつくのだろう。大学の先生方もその中に含まれる。

つまり、学歴社会というものの、その学歴は大学入試までのもので、大学で何を学んだかについてはあまり問題にしない。それでは、優秀な人材が不足するのは当たり前である。そのような学歴社会に適応した人種が勝ち残るのでは、日本は世界の中では勝ち残れないだろう。(補足1)

2)もちろん、新しい発想は記憶していることから生じるので、記憶は大事である。しかし、それは断片的な記憶ではなく、消化され自分の知識として頭脳に張り付いた体系的な知識の記憶である。それは、スマホを持ち込んでもにわかには身につかない。

昔、中国の科挙は難しい試験だったようだが、それを勝ち抜いた”優秀”な官僚たちがいても、中国はモンゴル民族や満州族に乗っ取られった。今、韓国の人たちも猛烈な学歴社会を勝ち抜いて、国家の行政や司法を担っているのだろうが、現在の韓国政府は国際的常識すら持ち合わせていない。

実社会で必要な能力には、問題を与えられれば解くという能力もあるが、問題を発見する能力もある。後者はペーパーテストなどでは測れないのである。更に、問題の大きさや質を正しく把握するのは、感覚であり知識では無い。(補足2)ペーパーテストで測れるのは、人の能力のほんの一部なのだ。

それを理解しない伝統があるので、学歴社会を作ってしまうのである。つまり、学歴社会は、社会の欠陥である。

補足:
1)官僚も会社も、どうせそのような基準で採用しているのだろう。それが20年間のデフレとも関係していると思う。新しい分野はほとんど全て米国やヨーロッパから生じている。新しいテーマを発見する能力のない人たちが、社会のトップにいる証拠である。
2)常識という日本語がある。その単語で相当する英語は、通常コモンセンス(common sense)である。このsense(感覚、勘)という人間の重要な能力が、芸術分野など以外では日本であまり重要視されていない。(勿論、common knowledge common practice なども並列的に辞書に記載されている。)

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