2017年8月29日火曜日

言葉の記述には時間的空間的限界がある:一神教の人たちと言葉の無限適用

1)「言葉」の伝達範囲には、時間的空間的に一定の限界がある。つまり、言葉には刹那的な言葉や永遠の言葉、自分や家族の範囲の言葉や全人類に向けた言葉など様々な言葉が存在するということである。それら範囲は通常言葉の中に示されているか、受け取る人間が容易にそれを感じ取る。

例えば、ジョンレノンの歌にイマジンというのがある。「想像してご覧、天国なんて存在しない。地の下には地獄など存在しないし、上には(天国ではなく)空があるだけ」で始まる。3番の歌詞で「あなたは私を夢を語る人だというだろう」と歌う通り、ジョンレノンは夢を語っている。

それは:
Imagine there’s no Heaven (all the people living for today)
Imagine there’s no countries (Nothing to kill or die for)
Imagine no possessions (Sharing all the world)
国家なんか存在しないとしたら、殺したり殺されたりの戦争などない。何かを所有するということがなくなれば、皆が世界を共有すれば良い。

このジョンレノンの言葉は、広い範囲を対象にし、長い時間を生きる言葉である(ただし、未だ訪れていない時が起点であるが)。勿論、それが価値の証ではない。

井上陽水の有名な歌に、「傘がない」がある。
都会では自殺する若者が増えている、
今朝来た新聞の片隅に書いていた。
だけども問題は今日の雨傘がない。
行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ、
君の町に行かなくちゃ、雨に濡れ

この歌詞は、ジョンレノンの歌と違って、言葉は自分の中だけか、或いは広くても「君」までしか存在する空間は広がらない。意味を持つ時間も今日だけかもしれない。しかし、だから利己主義で刹那主義の価値の低い言葉という訳ではない。

言葉は、本来の存在すべき空間と時間の中で解釈すべきであるし、そのように限定されていれば問題は起こらない。しかし、その範囲を超えて主張したり、働いたりしては問題の原因となりうる。前者のジョンレノンの歌では、イマジン(空想)の世界に限定されるべきであり、現実の世界に出てくれば大きな問題の原因となる。また、井上陽水の歌では、二人の間に存在する限り、その言葉は生き生きと若者の気持ちを表し伝達する能力を持つが、広い社会の中に出てもらっては困る。

そして、これらの言葉を発する(歌う)人は、それを十分に理解しているので、実際には問題にはならないし、立派な芸術作品として後世に残る。それは暗示的に、これらの言葉には時間的空間的限界があると示されているからである。

決して明示的ではないとしても、言葉の時間的空間的限界を、それを話す人間は意識しなければならないというのが、ここで言いたいことである。(補足1)

2)ところがこの言葉の暗示的“原理”を全く受け入れない立場が存在する。それは原理主義に染まった人たちや一神教を信じる人たちの立場である。

一神教の場合、教祖の言葉にもそれが発せられた時には、同じ限界があった筈である。それにもかかわらず、信者たちはその限界を時間的にも空間(人間社会の)的にも無限大に拡大して理解している。それは信者個人の問題ではなく、宗教の本質である。

また、社会主義思想や民族主義などを信奉する原理主義の人たちの立場がある。これも思想や主義に問題があるわけではなく、それを永遠不変の真理と考えてしまう無理解がそのような立場の原因である。従って、国民全てを対象に政治を考える議会の席に、これらを信奉する人たちは席を得る資格などない。

具体例を挙げると、人間社会の中で善と悪という重要な言葉がある。社会の偉大なリーダーが善と悪について語ったとしても、それはその時代のその地域或いは人たちの間の善と悪であり、他の民族や他の時代にはそのまま通用するとは限らない。

その結果、そのリーダーに率いられた部族は、他の部族などにより迫害を受けることになる。古代はそのような部族衝突の時代であり、部族の生き残りはリーダーの資質と戦略的思考力に懸かっていただろう。そこで、道は二つに別れる。迫害を跳ね除けて、自分たちの善と悪の基準を死守するか、或いは、迫害するものと平和共存を選ぶかである。

非常に優れたリーダーに率いられた部族は、前者の道をとる可能性が高いだろう。そして、その教えは信者の団結を一層固くし、心と頭の中に絶対的真理として徐々に変質するだろう。それが多くの一神教の発生の原点ではないだろうか。

つまり、教祖は一神教の種ではあるが、本体ではない。キリスト教の場合、イエスが教祖だが、パウロとその一派がそれを協会という組織を持つ大きな宗教に育てたのだろう。(補足2)

多くの宗教において、教祖とされる人は一般に聖典を残さない。聖典はその後その宗教を育てた人が、教祖やその教えを語る弟子の言葉をまとめて作るのが普通である。何故、教祖は聖典を作ったり作らせたりしないのか。それは教祖の時代には、その考え方は宗教にまで成長していなかったからだろう。

つまり、一神教は常に戦いの中にあった、或いは戦いの中で一神教が発生し成長したのではないだろうか。(補足3)その一神教の戦いの遺伝子が、豊かな時代の現在でも残る多くの戦いの重要な原因なのかもしれない。

3)全ての異教徒とその言葉の多くは、彼ら信者の中では悪の中に放り込まれ、自分たちの言葉は永遠の言葉、地の果てにまで通用する言葉と考えるのである。極端な言い方だが、人間としての条件が同じ宗教の信者であることなのである。従って、異なる宗教の者や全く土着の宗教の者は、人間では無いという感覚があるのだろう。(補足4)

神が決める善悪は、永遠普遍であり、変更の余地はない。それに従わないものは、暴力で従わせる以外に方法はない。それが一神教の世界で、争いが絶えないことと関係がありそうである。一方、日本では何が善で何が悪かは、人が決めるのである。従って、善悪は時代によって変化する。17条憲法の第一条の「和を以て尊しと為し、さからうことなきを宗とせよ。人みな党あり、また悟れるものは少し」の部分は、まさにそれを言っている。

北朝鮮問題の主なる原因も一神教の世界の人たちが作った。(補足5)事情がわかった人たちが仲介に入らなければ丸くは収まらないだろう。「島根、広島、高知の上空を通ってミサイルと飛ばす」という言葉の中に、「日本よ仲介を引き受けてくれ」という意味が含まれていると私には思えるのである。

一神教の方達は、議論という戦いが得意である。どんなに偉大な国の人達でも自分が受け持つのは弁証法の片方(テーゼかアンチテーゼ)であり、統合する役者が居ないと話がまとまらないようだ。

補足:
1)このことを考えれば、自民党議員たちの多くの失言は、その発言の場所を考えれば(正確に報道すれば)問題にすべきでないケースが相当含まれている。
2)ニーチェ著「アンチクリスト」ブログ、3月31日の記事参照(3・31)
3)武田邦彦氏の動画、私はこの考え方に反対(コメントと残した)だが、この方の知識は我々より遥かに多いので参考になるかもしれない。 https://www.youtube.com/watch?v=J1c-5SzzfGk
4)日本人は、米国人を猿やゴジラといったことはない。しかし、彼らは日本人のことを黄色い猿としばしば言った筈である。聖書の中の異教徒という響きは、同じ人間という考え方には共鳴しない。
5)今年5月18日に朝鮮問題を解決する第一歩は、米国が踏み出す義務を持つという記事を書いた。

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