2017年9月13日水曜日

政治を大衆に任せて良いのか?

1)現在多くの先進国は、民主主義政治を採用していると言われている。民主主義とは英語のdemocracyの翻訳であり、普通の人々が国を統治するシステムのことである。(補足1)

“複雑で高度な社会構造をもつ現在の国家を、どうして民主主義という大衆に最終権力を置く統治方法で運営できるのか?”と言う疑問に対する答えを見つけようと考えても、あまり優秀でない頭の所為か、どうしても見つからないのである。半年前にニーチェの“アンチクリスト”を読み、その感想をブログに書いた。その中での議論を少し繰り返すところからスタートする。

人間は自然と三つの異なるタイプに分かれる。精神が優れた少数の人、筋肉や気性が特別に強い人、それ以外の大多数は凡人である。ごく少数の選ばれた精神に優れた人には「幸福」、「美」、「善意」などを地上に実現させたり味わったりする義務と特権がある。一方凡人には、社会が定めたルールに従う義務と、自分たちの生命に基づく醜さを鋭く捉える眼、社会に対して不満をいう“特権”がある。

もっとも精神的な人間は、自分の立場に対する自覚を持っている。所謂ノブレスオブリージュ(noblesse oblige)である。彼らは、担う重い課題を、自分たちの特権と見なす。彼らは人々(社会)を支配するが、彼らがそうしたいからではなく、彼らの存在がそもそもそういうものなのである。その下に、支配を行う時のゴタゴタした問題を引き受ける人(専門家)が存在する。

このように人間が区別され、其々に義務と特権があるのは自然である。何故なら、人は社会を作って生きる遺伝子を持って生まれ、高度な社会は必然的にピラミッドの様な構成を持つからである。これら全ての人は、社会の歯車になって働くのは自然であり、何かをする能力があると感じる幸福感がそれを支えている。その共通した特性は、社会を作って生きるヒトの遺伝子に由来する。ニーチェの批判の対象は、その健全なる社会に、悪しき平等の原理を多数の下層の人間に教え込み、この自然な社会を破壊する宗教であった。

ところで、全く同様の記述を別の著者の本にみた。オルテガ・イ・ガセットの「大衆の叛逆」である。そこにはこう書かれている。“ある少数者たちが、全ての人間は生まれたと言うだけの事実によって、ある種の基本的な政治的権利、つまり、いわゆる基本的人権と市民権をもっているものであり、その為には何ら特殊な資質を備える必要がないこと、しかも、それら万人に共通した権利こそが存在しうる唯一の権利であることを発見した。

かくして、特殊才能に関連した他の一切の権利は、特権として非難されることになった。”(大衆の反逆、P28)前節の語尾“発見した”は、オルテガがその少数者とは別種の人間であると主張しつつ、批判的に述べていることを示している。(補足2)

2)文明が飛躍的に発展した18-19世紀において、人類は新しい社会を探すための旅を開始した。しかし、目的地が明確でないため、古い社会の否定の反跳とする他なかったのだろう。ニーチェは、共通の時間座標に於いてキリスト教を批判するのではなく、過去においてキリスト教の果たした役割を認め、その退役すべき時が訪れたと書くべきだったのだろうと私は思う。

オルテガの本に戻るが、そこには以下のような記述(要約)がある。“我々人間の生とは、あらゆる瞬間において自分の可能性を意識することである。そして、そのあらゆる生の可能性を集積したものが、世界である。つまり、世界とは我々の生の外周である。”(同PP54-55)

文明の飛躍的発展(19世紀)以前の民衆にとって生とは(経済的にも肉体的にも)重苦しい運命だったのである。生まれながらにして、生きるということを耐え忍ぶ以外方法のない障害の堆積という風に感じ、それら障害に適応する以外に解決を見いだせないままに、自分たちに残された狭小な空間に住み着く以外に仕方がないと感じていたのである。(同P77)

これらオルテガの人間の生に関する思想を受け入れ、その上で上記一神教を考えると、それは大昔に「選ばれし智者により考え出された大衆のための物語である」との結論を得る。つまり、それには重苦しい運命を耐え忍ぶ大衆のために壮大な物語を提供して、生きる勇気を与える役割があったと私は考える。

科学技術文明の飛躍的発展は、人の生を飛躍的に増大させた。つまり、上記選択肢としての世界の拡大である。自分たちの生の外周を十分意識するまでに至っていない人間は、“今日の人間が古い伝統をもった文明の真只中に突然飛び出した原始人といった感じを与える”ことになったのである。

換言すれば、科学技術文明は大衆に近代生活の技術しか教えず、大衆を敎育することはついにできなかったのである。大衆はより強力に生きる道具は与えられたが、偉大なる歴史的使命にたいする感受性は授けられなかった。(同、P70)

つまり、精神的少数者により考え出された至上の特権である、人権と市民権を持ちながら、その行使の方法をしらないままで大衆は主権者の位置に座っているのが、現在の民主政治の形だと思う。20世紀にその不安定な社会の政治制度は、大衆に悲劇をもたらした。共産主義やファシズムの誕生と戦争による社会の破壊である。

その失敗と並行して作りだされたのが、世渡りに長けた人たちによる、慎重で欺瞞的な国家支配の方法である。現代という時代は、それら支配者が大衆に主権者という幻の椅子を提供し、大衆にマスコミを用いて民主主義の劇を見せることで、大衆の怒りと不安を最小にすべく統治のシステムを改良するという保守主義の時代なのだろう。

労働時間の短縮と高等教育の浸透が行き渡った現在あるいは近い将来、上記“歴史的使命に対する感受性”を獲得することはありえないだろう。何故なら、人(つまり大衆)は益々傲慢になり、与えられた人権と市民権に酔っているように見えるからである。最近も話題になった、「保育園落ちた、日本死ね」の言葉はそれを暗示している。

その中で新しい政治システムの実験が中国で行われている。一部エリート層が政党をつくり、そのなかで支配者を選ぶというシステムである。このシステムは共産主義から鬼子的に誕生したため、その経験から脱却できる期間が必要である。現在は、大衆を支配する大きな力が必要だが、それが暴力的なものから法や規則によるものに変化して、成功をおさめるような気がする。

(正直言って、大衆の反逆は読了していない。読み終わった時に必要を感じたなら、再び書いてみたいと思っている。)

補足:
1)democracyは語源としてdemos(普通の人々)とkratos(ルール、力)を持つ。普通の人々が国家権力を構成し、統治する意味になる。
2)微妙なレトリックであるが、同種の用法として「コロンブスはアメリカ大陸を発見した」がある。つまり、ネイティヴ・インディアンはアメリカ大陸を当然知っているのだが、文章を書いた主は彼らを別種の人間と認識しているからである。つまり、オルテガは精神的に優れた人として、この本を書いていると言う意味である。

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