2017年11月16日木曜日

日馬富士の暴行事件について:言葉の暴力と身体的暴力

1)ここ二三日、一番話題に上っているニュースが、横綱日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件である。モンゴル出身力士の懇親会で、貴ノ岩が非常に失礼な言葉を横綱に対して浴びせたことが暴行に至った原因のようである。法的な処罰は、違法行為を行った日馬富士が受けることになるだろう。

この事件はテレビなどで頻繁に放送されているが、その捉え方は、相撲協会の隠蔽体質だとか、相撲協会や所属部屋の親方の責任や謝罪などに、拡散している。しかし、この件は個人的犯罪であり、今後責任問題に関係するのは、基本的には被害者と加害者の二人と、法的処分をする国家だけだと思う。相撲ファンや相撲部屋の親方の介在する余地はあまりないと思うし、そのように問題を広げるのは日本の悪習であると思う。

今朝のとくダネ!でも、司会を補佐する人間が、親方が相撲ファンにまだ謝罪していないことを問題視していたが、そもそも親方に謝罪する義務など全くない。モンゴルでも報道されており、一部にはモンゴル人の横綱が多いので、日馬富士を追放する陰謀だと言う意見を紹介しているものもあると報道されていた。兎に角、報道機関というのはどの国でも、煽って視聴率を稼ぐことばかり考えているようだ。

この国では、組織に属する人間が個人的な事件を起こした時でも、組織のお偉方が揃って頭を下げる場面がよく放送される。そのようなテレビ放送を見る度にうんざりした気分になる。普通、謝罪とは責任を認めることであり、責任を認めることはそれに対する償いの義務を負うことと捉えるだろうが、この国では問題を小さく治めるために謝罪するのである。(補足1)

この件も、手続きに従って処分をして、あとは当事者に任せることで十分だと思う。そして、今後相撲で頑張って欲しいと思う。彼ら当事者にサジェストするとすれば、今後閉鎖的な場で、アルコールは飲まない方が良い。

また、横綱もそれ以下の地位にある相撲取りも普通の人間であり、大相撲を殊更神事と考えることは時代錯誤的だろう。相撲協会が、それらの刑事事件を隠蔽することがあったとしたら、それは無くすべき古い体質だが、それを殊更相撲協会全体の問題と考えることもまた無くすべき別のタイプの古い体質である。

2)この事件だが、一方的に日馬富士の方に非があったとは言えないと思う。つまり、貴ノ岩の言葉の暴力が、日馬富士の物理的暴力となって返されたのだろう。言葉のやり取りが、傷害事件に発展したことは、彼ら二人には本意ではなく不幸なことだったと思う。

似たケースで思い出すのは、セレブ達が集まったパーティー(米国)で、デビ・スカルノ夫人によるフィリピン大統領の孫娘だったミニー・オスメニャに対する暴行事件である。https://matome.naver.jp/odai/2139040955692250701

デヴィ夫人は喧嘩の原因として、「ミニーが自分を娼婦(Whore)呼ばわりしたため」と主張したという。失礼な発言をした方はその瞬間はスッキリするだろう。しかし、それを許さないでシャンパングラスで相手を殴ったデヴィ夫人の気持ちも分かる。

現在の法制度では、そのような発言があったとしても、それを処罰する法令はない。しかし、言葉であっても、個人の尊厳を汚した人間には処罰が加えられるべきである。その場合、自分の尊厳を守る意味で国家による処罰を覚悟して、相手を殴るしか処罰の方法はない。

つまり、肉体的な暴力は絶対にいけないが、言葉の暴力はやりたい放題ではない筈である。勿論、喧嘩両成敗が正しいのだが、現行制度でも暴力を振るった方が刑事罰を受けることで、解決すれば良いと思う。ただし、その後加害者に関係する組織が他の罰を加えるには、慎重に考えることが条件である。

日馬富士と貴ノ岩のケースで説明すると、日馬富士がうける処罰は、貴ノ岩の痛みと怪我と九州場所からの欠場という損害とバランスが取れれば良いということである。それ以外のところに、大きな痕跡を残さない様にすべきだと思う。相撲協会が受ける損失など計算できない部分の責任も、事件化した日馬富士が負うべきだろうから、相撲協会が出場停止などの処分をするだろう。それだけをルールに従ってすることが、相撲協会の仕事だと思う。

因みに、言葉の暴力は現在ハラースメントという範疇に入れられている。ハラースメントだけでは法的に罰することは難しい。法的に罰せられない悪事は、普通、社会から例えば人事面での冷遇などの法的でない処分を受ける。

閉鎖空間では、そのような処分が期待できないので、ハラースメント的暴言が炎上的に連続して、最終的に物理的犯罪に至る場合が多いと思う。従って、トラブルが考えられる人の集まりは、閉鎖空間に閉じ込めないで、出来るだけオープンな空間を利用することだろう。

言葉でのハラースメントとそこから発生する上記のような事件は、完全に無くすることは不可能である。従って、言葉は場合によっては相手の尊厳を汚す暴力となること、従って、個人的な話題に関しては、相手の情況などを考えて慎重にするべきであることなど、年少時によく敎育すべきであると思う。

勿論、社会についての基礎を敎育すべきことは言うまでもない。それらは、現在の社会は独立した個人によって成り立っていること、個人の間の信頼は社会のインフラであること、言葉でも身体的なものでも、暴力はそれらを破壊することである。

(以上、17日早朝に加筆修正しました。オリジナル・バージョン(11月16日)は、https://ameblo.jp/sakizakimademo/entry-12328800176.htmlに残します。)

補足:
1)この国では多くの場合謝罪と許しがセットになっている。従って「こちらがしっかり謝罪したのに許さないあいつはけしからん」という、会話が成立する。

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