2017年12月5日火曜日

フラットな社会に安定国家は成立しない(国家は、高貴な階層の人間を必要とする)

1)現在の社会はフラットであると言われる。総理大臣も一介のサラリーマンも社会的には差はない。言葉も同じであり、趣味も何もかも大してかわらない。その傾向は、米国にも出現しており、大統領の言葉と下町の言葉に大差ないことが話題になっている。

二年程前のあるテレビ番組(Sokomade I.I.)で、左翼のある女性(YT)が、「天皇ってかわいそうだよね」と発言した。人権も自由もないという類のことをその理由として喋っていた。しかし、それは根本的に間違っている。日本人の中で天皇は特別な存在であり、天皇には我々庶民が俗っぽく考える自由な振る舞いはあり得ない。そして、天皇は我々庶民には超えられない天井の上に存在し、そもそも世界が違うのである。

西洋にはnoblesse obligeという言葉がある。このフランス語は、「高貴さは(義務を)強制する」と訳される。上記の発言は、特別に高貴な天皇としてのobligeを不自由と感じる貧しい心が生んだのである。自分の思考における不自由がもたらした発言であることに気付かないのは、その女の人が完全に左翼信仰に染まっているということである。(補足1)

その“noblesse oblige”(英語でnoble obligationという)を感じる人が、日本にも世界にも殆ど居なくなった。貴族は通常金持ちではあるが、金持ちということは貴族を意味しない。貴族は金銭に支配されないという点で、経済的に豊かな人達は貴族の候補ではある。“貴族階層”の中の本当の貴族は、有史以来各種の俗な欲望以外を(も)考え追求してきた人たちである。その階層は、貧困層が混沌の中に停滞している中で貴族の文化を形成し、その中から近代文明が生まれた。

しかし、現在の金持ちの殆ど全ては、俗世界の経済活動にむしろ積極的であり、金に支配されている。それは、現代の日本社会(多分世界も)が単一の階層からなるフラットな社会になり、貴族と貴族文化が存在しないからだろう。(補足2)

数年前、ある新興金持ちのM氏が、「金儲けは悪いことですか」と喋ったテレビの画面が今でも目に浮かぶ。現在の金持ち達は、貴族階級を形成できずに巨大になり、世界の文化も何もかも破壊する最前線を担うことになっているように思える。そこから、調和的な新しい社会を構築する処方箋を人類は未だみつけてはいない。

2)太古の昔、「ヒト」は野生の動物であった。そこから社会を造って生きる「人間」となったプロセスを、再構成するシミュレーションは、社会の今後を考える上で参考になるだろう。

ヒトが人間になるまでに得た最も本質的なものは、言葉である。(補足3)その言葉は、社会構造の複雑化(発展)に伴って、より複雑(高度)な言語となっていく。つまり、社会と言語が密接に関連しながら発展し、そこに文化が生じる。例えば、武士の社会には武士の言葉があり、そして武士の文化が生まれる。また、農民には農民の言葉があり、農民の文化があっただろう。更に女性も、“部分社会”をつくり、特有の言葉や文字もあった。勿論、用事があれば話をするわけだから、言葉の構造や用法には共通の部分が多いだろう。

それらの部分社会の地位に自然と上下ができるが、それを階層と呼ぶことができる。例えば、武士の文化は、国(その社会集団)を守り安定化するために適したものだっただろう。国を守ることが、全ての住人の生存に必須であるので、武士階級は高い地位を自然に得たと思う。そして、それら各階層の文化は、社会を分業して担うのに重要な役割を果たした筈である。

我々は、それぞれの階層で身につけた知識や価値観、つまり、武士階級で言えば戦士としての勇気や、対面した相手に対する端正さなどを、身に纏う服の様に考えがちである。しかし、その喩えは部分的にしか正しいとは言えないだろう。服なら着替えが可能だが、その武士としての性質は、着替え不可能な皮膚の様なものであると思う。従って、成人した武士、農民、職人、商人は全て「別種の人間」といえるだろう。

逆に、人間社会で育た無かった野生のヒト、例えば狼に育てられ、狼の群れの掟の中で育ったヒトは、人間社会の基本を身につけることは最早不可能であり、いかに学習を重ねても服を着る様には人間にはなれない。例えば:http://karapaia.com/archives/52147667.html

上記の事実が示す重要なことは、「誕生間もないヒトは高度に可塑的な粘土のようなものであり、それを人或いは人間に成型するのは、社会の文化でありそれを身につけている両親や周囲の人達である」ということである。もし、適当な時期に相応しい形に成型しなければ、社会で生きる人間にはなれず、理解不能な無秩序な、或いは、奇異なヒトに成長するだろう。

この事実は少年犯罪における保護観察処分などの制度には、深刻な欠陥が存在することを示唆している。そして、異る文化圏にある国の間では、本当の意味で言葉が通じることは期待できないことを示している。言葉は翻訳できるのだが、通じないのである。また、同じ国でも、過去の歴史の出来事を現在の言葉や感覚で理解することには、本質的な壁が存在することを示している。(補足4)

3)ほとんどの日本国民にとって、現在最も大きな運命共同体は日本国家である。それは殆どどの国でも同じだろう。全ては国家あってのことである。その国家の複雑な構造の中で、人々は分業を行ってそれを支え、生きている。 

  その安定と繁栄は、各構造の力で決まる(勿論、ある弱い構造が全体を決める場合もある)。あらゆる構造を担う人材の育成、及び適材適所の配布は、国家の繁栄と安定に必須である。上記は当たり前の論理だが、ただ「人材の育成」には特別の意味を持たせたい。それは、人をパソコンに例えて話をすれば、単に各分野に相応しいソフトウエアをインストールしなければならないと言っているのではない。パソコンの基本設計から、そのインストールソフトを意識して、行わなければならないのである。  

特に高度な専門職、各構造の整合的な働きを実現する総合職(=国家の中枢を担う人材)などは、昔の貴族的な特別な教育が必要だと思う。それは、敎育現場の環境だけでなく、その中で生まれ育つ社会環境から、それら人材の育成に相応しい環境が必要だろうと思う。つまり、現代でも国家の中枢を担うような人材の育成には、そのための特別な階層或いは”部分社会”(相応に閉鎖的な社会)が必要なのではないか。  

最初に述べた皇室もその代表かと思う。天皇はその家系に生まれるという意味で、生まれながらに天皇としての準備ができており、その後成人までの環境は最も高貴な人を作り上げる為に必須の役割を果たしていると思う。また、日本の政界などでも、一国の宰相となり相応の活躍ができるのには、素材としての能力(上の言葉では可塑性)だけでは不可能だろう。 

フラットな世界では、何処で切り取っても同じ社会であり、そこで家族だけが特別であっても、国家を担うレベルの宰相は出来上がらない可能性がたかい。また、それを支える知的集団を、他国を真似て造ってみても、俄には機能しないだろう。  

我が国と比較して、高度な国家中枢を作る準備を整えた国がある。それらは米国や英国のなどの西欧諸国、それに中国である。中国は共産党という階層を作り、その中から人材育成をしている。ただし、共産主義思想は権力者による国家統治という考えと矛盾するので、共産党の階層が権力者的な国家の宰相を育てる環境となり得るかどうか今一つわからない。  

米国の場合、政治貴族は大金持ちの企業経営者とその周囲に一定の閉鎖性のある社会を作っており、政治を支配する階層となっている。エール大学などのアイビーリーグが作るエリート層(その中の特別な組織、スカル&ボーンズなど)などがそれである。その構造の中にCFR(外交問題評議会)やCSIS(戦略国際問題研究所)が組み込まれているのだろう。英米政府がこれまで国家をうまく操縦してきた様に見えるのは、そのような社会の構造があったからであり、表向きに標榜している民主政の所為では無いと思う。  

その民主という表の思想と裏の支配構造との暗黙の了解が崩れ、民主が前面に出かかっているのが現在のトランプ政権の成立のプロセスの可能性がある。それを揺り戻す動きが、政権内外で起こっていると思う。 

(21:50編集あり;理系人間のメモですので、批判等歓迎します。)

補足:

1)人間の創った壮大な文明における“noblesse oblige”を考えた時、obligeは下層或いは大多数からの視点での描写である。その強制(oblige, obligation)という部分は、高貴な上層の言葉を用いれば、誇り高き世界における自由ということになる。上記YT氏の言葉は、例えば、「哲学者って可愛そうね。一生頭を使って苦しんでいる。」と言う粗野な人の発言と似ている。その“強制”が高貴な身分と同居することを知らず、下層の言葉で不自由として抽出したのに気がついていないのである。それは、下層と上層の間での、無益な言葉のやり取りである。その下層の視点で壮大な文明社会を体系化したのが、左翼思想である。その視点は既にその思想の限界を示唆している。
2)高貴さは、全体として貧困を感じる社会の中でのみ維持されるのだろう。経済的豊かさを温度の上昇と考えれば、現在の情況が分かり易く説明できる。つまり、現在の社会は、多くの分子(人間)が結合して有機体(社会)をつくっていても、温度上昇により分子がバラバラになり構造が破壊された情況に近いのである。更に温度が上昇すれば、原子状態から素粒子状態にまでなる。それは、人間社会に話を戻せば、人格破壊を意味するのである。
3)通常、日本語で「もの」は、物か者である。“言葉は喋るときにつかうもの”という「もの」の使い方に自信がない。
4)この文章を理解した後に、ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」と言う本の題名、或いは、ブレジンスキーの「政治に目覚めてしまった百万人を説得するよりも、殺す方が簡単である」という講演を聞けば、その人たちの考えが理解出来るかもしれない。ブレジンスキーの言葉:https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html

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