2018年1月13日土曜日

東西冷戦の被害者?中川一郎の自殺について

たまたまyoutubeで中川一郎の自殺(1983/1/9)について考察した動画を見た。恐らく、1997/4/18放送の「驚き桃の木20世紀」というテレビ朝日の番組から作った動画だろうと思う。この番組は見ていなかったので、メモとしてその概略(+α)をここに残そうと思う。真実に程遠いと思われる図式を紹介していると思うので、コメントを最後に付け足した。 https://www.youtube.com/watch?v=SIvAg7o2R1A

1)政治家中川一郎と彼の当時の状況:

中川一郎は1925年3月9日生まれ、1947年北海道庁職員になり、1953年に大野伴睦北海道開発庁長官の秘書になる。1959年に12年間の役人生活を止め、大野伴睦の秘書を経て、1963年大野伴睦の勧めで北海道五区から立候補し衆議院議員になった。1977年福田赳夫内閣で農林大臣、次の鈴木善幸内閣で科学技術庁長官を務めた。

石原慎太郎や渡辺美智雄らと青嵐会を結成したのは、1973年のことである。青嵐会の政治目標は、自主独立の日本をつくることだったようである。1979年自由確信同友会(事実上の中川派)を結成し、自民党に属してそのチャンスをまった。1982年秋の自民党総裁選が行われ、勝つ見込みはなかったが、石原などの強い要請で立候補した。(補足0)

当時自民党では、田中角栄がキングメーカーとして君臨していた。それに対抗していたのが福田赳夫で、角福戦争と呼ばれた時代である。田中角栄は中曽根康弘を推していたが、対立する福田赳夫が対抗策を考えていた。

福田派のプリンスと呼ばれた安倍晋三を総理にしたかったが、国会議員の選挙で勝ち目がないと考え、党員党友が票を持つ総裁選予備選(補足1)を行うことを考えた。福田は予備選を行う為には党則では四人の立候補が必要だったため、頭数を揃えるだけの目的で中川に推薦人を貸し、立候補させた。

地元以外の各地に出向き演説をした際に、中川は予想外の人々の熱気を感じた。「それを総理総裁も無理ではないかもしれないと感じたとしたら、それは経験のない中川の誤解だった」と石原慎太郎は語る。蓋を開けてみれば、それら国民の人気は、自民党党員と党友の票には直接繋がらず、最下位となった。その結果を非常に深刻に受け取ってしまった中川(石原談)は、自分には総理総裁の道は永久に来ないと思い込んだのかもしれない。

中曽根内閣が発足した夜、福田邸を訪れて激しい口論になったという。(補足2)その後、福田赳夫との間の関係が険悪になっていき、櫛の歯が抜けるように何人もが中川派を離れた。翌年の1月8日、の派閥の新年会で周囲の観測では尋常な姿ではなかったという。(補足3)5分間ほどの挨拶ののち、周囲に勧められてホテルの自室に戻った。「もうダメだ、俺は今日が限界だ」と漏らしたという。翌朝夫人により浴室で首をつった姿で発見された。中川をベッドに移したのち救急車を呼んだのは、古くからの友人で側近の佐藤尚文氏と秘書である。

病院での検死の後、中川の周囲(おそらく佐藤尚文氏や秘書)の依頼で、警察は嘘の死因と死亡時刻を発表した。佐藤氏は、「死因をそのまま発表するのが、可哀想だという気持ちだった」という。4日後、結局本当の死因と死亡推定時刻がリークされて新聞紙上にでた。

2)動画の後半で、此の時期に中川が抱えていた別の問題が紹介されていた。それは、ソ連側の工作の対象に中川がなっていたことである。 ソ連側の資料(1982年8月29日のソ連中央委員会書記局121会議録)に、イワン・イワノビッチ・コワレンコというスパイ(ソ連共産党中央委員会国際部副部長)を日本に派遣し、中川に対日交渉の窓口になるように抱き込むプログラムの記述があったのである。

コワレンコへの直接取材でその工作は以下のように進行したことがわかった。最初彼は田中角栄に近づこうと考えたが、ロッキード事件で不可能になった。そこで他の接触すべき日本のリーダーを探した。コワレンコは青嵐会の「日本は自主独立で平和な国になるべきである」という主張を重視し、中川と会うことにした。(補足4)総裁選立候補から10日後の1982年9月10日、ある筋の紹介で中川と赤坂の料亭で会い4時間ほど話した。そして高いポストを持つ日本人である中川の口から初めて、「ソ連と有効平和関係を持ちたい」という言葉を聞いたという。

会談の翌日、コワレンコはソ連大使館からクレムリンに、ソ連との善隣有効関係を結ぶべきとの考えを持っていると打電した。その話は、青嵐会の無二の同志(石原氏談)である石原慎太郎氏も知らなかったとのことである。中川との話の中で、コワレンコは「日本はサハリン油田の開発にも将来参加することができる」との考えを伝えた。

石原氏は、「アメリカの手の届かないところで日本の技術と資本で原油開発ができるとなれば、アメリカは日本を押さえておく手立てを失うことになるので、反対しただろう」と述べている。(補足5)ソ連大使館は中川の死の5日後、「中川は、CIAの手先に米国に不都合な人間として消された。米国は中川が総裁になって、独自の政治路線を出すことをおそれたのだ」とクレムリンに打電した。

コワレンコもそのように取材に答えている。「ただ、CIAは誰を使ったのかわからない」と言っている。石原も、わからないが、そのような話が本当ならDIA(米国国防情報局)は大きな関心をもっただろうと言っている。CIAは(朝日放送の)取材要請に文書で回答してきた。それによると、中川一郎に関する情報は、国防および外交上の機密に関するため、いかなる情報も公開できないと回答してきたという。(補足6)

解説の森田実氏は、「中川氏をよく知っている人は、このコワレンコの話を荒唐無稽な話として受け取るだろう」と話をしている。(補足7)そして、「日本の政治が米国の対ソ戦略の中に組み込まれていた。中川氏は農林大臣であったので、日ソ漁業交渉の際にソ連と人脈ができるので、ソ連が中川に接触を求めたのは事実だろう」と続けた。「否定する明確な根拠がないのは恐ろしいことだ。真実はきっちり残すべきだ」と語った。

此の時期の日本は、東西冷戦の渦の中に巻き込まれていたのである。そして、中川も渦の中にいたのは事実だろうが、どれほど深く巻き込まれていたかは明らかではない。

3)放送では、北見での死の前日の姿を映している。その中では、中川の姿に深刻な様子は見えなかった。その後、旭川で友人の佐藤尚文氏と合流して、札幌に向かった。「中川はとにかく死ぬと言うのだ。俺の政治生命は終わった、死ぬと言うのだ」、「そこで奥さんと二人で一生懸命元気をつけた」と語った。

直前、午前3時半から午前4時過ぎまで、最後の言葉を友人と電話でかわしていた。北海道庁勤務時代で友人だった石原二三朗氏である。その時石原氏は、「“総裁選挙なら何度でもできることだし、色んな人が解決してくれるので、あまり気にしない方が良い”と言った。そして、それは(中川は)納得していたのですよ」と語った。

そして、「電話を切る直前に、“おーおー”という中川の声を聞いた。だれかが近くに来た時の中川の癖であった。そこで、電話を切った。午前4時を回っていたとき、だれかと会ったと思う」と石原氏は言った。

この重要な言葉について、深く追求されていないのは不思議である。警察がそれを無視したのなら、他になにかがあるだろうと思う。あるいは、適当な理由を見つけて、話を小さくまとめて中川の死を警察として処分したかったのかもしれない。

石原二三朗氏は中川自殺と関係があるかもしれない以下のような話をした。総裁選の数年前、二三朗氏はその同じホテルで中川と会った。当時中川の札幌事務所長とともに不動産会社を経営していた石原氏は、その会社の解散を依頼されたという。中川は、自らの政治生命のためと話した。そしてその時、中川は「総裁になれなかったら、俺はこのホテルで死ぬ」と言ったという。石原二三朗氏は、その時中川は軽く言っただけだと思ったと語った。

動画の最後で、石原慎太郎氏は「あれだけの男が自分で死ぬというのは、それだけの重いものがあっただろう。自分の推測を語る気はないが、彼は政治家として自分で責任ととったのだろう」と語る。更に、「上草義輝氏は、この世の中にただ一つの真実を知る人間が数人いる筈ですから。」と不自然に言葉を切った場面が挿入されている。他に上記、佐藤尚文氏と中川一郎の後をついだ中川昭一氏の言葉が紹介され、動画は終わった。

4)おわりに:

この動画を繰り返し見て、上記文章を書いた。そして、この番組が非常に不真面目につくられていると感じた。重要なヒントの多く無視して、ストーリーのほとんどを中川の友人で側近の佐藤尚文氏の証言に沿って作っているからである。そこには、重要な政治家の死の真相を追求することにより、日本国にプラスになる何かを掴みたいという姿勢のかけらもない。

この放送では、未完の推理小説を視聴者に紹介する娯楽番組に終始している。 北海道庁時代からの友人で 死の 約30分まえまで話していた石原二三朗氏の言葉にあったように、そして二人の弟たちが語ったように、総裁選で落選しただけでは中川の自殺の動機として十分ではない。

番組(動画)で無視した重要なヒントとか異常な取り扱いを以下に羅列する。①友人の石原二三朗氏の証言にある、自殺推定時刻午前5時の30分ほど前に、中川が誰かと部屋であっている可能性;②同じ中川派の参議院議員の上草義輝氏は、この世の中にただ一つの真実を知る人間が数人いる筈と言ったこと、③同じく石原慎太郎氏も独自の推理を持っているが言えないと言ったこと、④警察による検死を病院で簡単に済ませ、司法解剖しなかったこと、⑤司法当局は、現場を即時に抑えることを怠ったこと、⑥翌日早々に火葬したこと、⑦第一発見者の中川夫人や秘書であった鈴木宗男氏などの重要な人物との関連をほとんど詮索していないこと、などである。

現場近くに居た人間からの聞き取りなどで事件の真相が全く掴めないのなら、一旦網を大きく広げてヒントを探すことが謎解きの原則だと思う。

補足

0)動画では、立候補を決断したのは、沖縄戦で死亡した大田実海軍中将の慰霊式の際であった。その時中川は「私は神になった」と言ったという。
1)自民党の規定では4人以上の立候補者が出た場合に、党員・党友による予備選挙を行い、予備選挙で1位と2位の候補を対象として党所属国会議員による本選挙を行う。その候補として、福田派の安倍晋太郎、河本派の河本敏夫が出ることになったが4人目がいなかった。そこで福田は、兼ねたから総理を目指すと噂のあった中川に立候補を勧めた。党則では立候補には50人の推薦人が必要だが、中川派は僅か14名しか居なかったため、福田派の応援36名を得て立候補した。
2)上記動画では、福田は推薦人を中川に示す際、「本気になるなよ」と念を押されたとの語りが挿入されている。それが事実なら、最下位落選後福田と口論になる理由はない。何かが隠されているのか、それとも中川はその時すでに精神的に異常に追い詰められていたのかもしれない。
3)友人で後援会員の佐藤尚文氏は、背広が濡れるほどの汗をかいていたと証言している。
4)この会食については、公安調査庁もそれを把握していた。(元公安調査庁、菅沼光弘氏談)
5)独自の資源外交を展開しようとして失脚した政治家に田中角栄がいる。同じ理由で、中川がサハリン石油の開発に乗り出せば、同じ虎の尾を踏むことになる。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111004/223006/
6)何故か全文が見えない形で動画に出している。以下の写真参照:
7)荒唐無稽というのは、コワレンコの話した内容の内、“中川を殺したのはCIAである”という部分だろう。

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