2018年3月25日日曜日

日本の政治と「官僚の無謬性」について

          (3月25日午前7時、一部編集)

今朝(3/25)のサンデーモーニングで、寺島実郎氏は、“官僚は気の毒な職業だ。このままでは、日本の行政が官邸レベルになり、日本が官邸レベルになる”と言う趣旨の発言をした。内閣人事局が官僚人事を握ることになり、内閣官房の機嫌を損なわないようにしなければいけないことに対する発言である。

その場面に先んじて、近畿財務局が安倍総理周辺の意向を忖度し、森友学園へ不正に国有地を払い下げたのではないかという疑惑をめぐる国会質疑や、その中での自民党和田政宗議員の質問に対する財務省の太田充理財局長の必死に怒りを抑えて答弁する場面が放映されていた。(補足1)

しかし、行政が内閣官邸の意向を反映するのが、日本の政治システムの根幹である。寺島氏は、官僚独裁こそあるべき政治の姿だと思うのだろうか。官僚は、あくまで行政システムのエンジンであり歯車であり、司令塔であってはならない。従って、高級官僚を行政のトップが選任することは、米国でも当然のこととして行われている。

行政トップと行政府の職員の関係は、日米に原則的にはあまり差はないと思う。内閣の判断が下位にある官僚に伝達され、それを円滑に実行するのが官僚の役割である。勿論、実行が困難な場合は、その困難が官邸にフィードバックされて方針を練り直すことはあっても、官僚が独自判断で行政トップの意図に反することをするのは厳禁の筈である。

官僚が独自判断出来るのなら、所謂「官僚の無謬性」は成立しない。この表題にもあげた「官僚の無謬性」は官僚の役割に関する原則論であり、“公務員は誤りを起こさない”という意味ではない。その点については、全く異なったことを主張するサイトがあったので、それを紹介して置きたい。

2)先ず、上記原則論という解釈を取らない人の意見を紹介したい。小池都知事の誕生と同時に有名になった音喜多駿都議のブログに、“なぜ政治・政策はゆっくり・少しずつしか変わることができないか?—官僚の無謬性神話—”と題する記事がある。その政治が少しずつしか変われない理由の説明に、音喜多議員は「官僚の無謬性」を使っている。http://otokitashun.com/blog/daily/9141/

この根底に横たわる重要な概念が「官僚(行政)の無謬性」と呼ばれる、我が国に根強く存在するものです。つまり我が国では、官僚・公務員・行政は間違いを起こさないということになっているのですね。

その後、「官僚の無謬性」に関する説明が始まる。

官僚が行う政策には、長期スパンで行われるものが多く存在します。よってその影響も、何百万・何千万人にも及ぶことが予想されます。これだけ影響力が大きい政策を実行する官僚部隊には、万が一にでも間違いを犯してはいけないという強烈な圧力がかかるわけです。この強迫観念やプレッシャーが高じて、「官僚は間違えてはいけない=官僚は間違えない」という恐ろしい発想に飛躍していくことになります。

政治がなかなか動かないということには同意するが、「官僚の無謬性」の解釈は間違っていると思う。

これとは全く異なった解釈が、元経済産業省官僚の原英史氏によってなされている。ここでは、官僚の無謬性の原則の下での円滑な政治実現の鍵は、政策決定プロセスの可視化だいう議論を展開している。

戦前は、「最終的には天皇陛下がご裁断されたこと」という建前が、責任の所在を覆い隠し、checkをおよそ排除し、「無謬性」原則を形作っていました。現在ではそこに、「みんなで決めたこと」、「最後は国会で決めたこと」、「最終的には、政治家を選んだ国民の判断」といった建前が入り、「無謬性」原則を生かし続けています。

鍵は、一言で言えば「政策決定プロセスの見える化」だろうと思います。

その中で、どこまでが政治家の責任で、どこまでが官僚の責任なのかを明確にしていくことも求められます。その意味でも、きちんとした「政治主導」体制の確立は重要です。「何でもかんでも政治家が決めるのだ」といった類の無邪気な「政治主導」(補足2)ではなく、かといって、旧来の「官僚主導」に回帰するのでもなく。


ここで、「官僚の無謬性」として「官僚は本来無謬であるべき、つまり、政治の責任は政治家にある」という意味で使っていると思われる。http://www.fsight.jp/5752 

3)ここまでの三人の議論は全て、日本の政治をどのように改善するかという話である。寺島氏の批判する官邸レベルの日本の行政(政治)は、日本の政治の原則論を批判していることになり、全くおかしい。何かの勘違いかと思う。内閣人事局の批判は、別の角度から別の根拠で行うべきである。

音喜多氏の政治が微速でしか動かない理由の解釈もおかしい。官僚にその原因を求めるとした場合、しっかりとした歯車として機能していないことである。また、政治家にその原因を求めるとした場合、民主主義における大衆のあり方や役割、そしてそこから優秀な議員を選び出す選挙制度の方向に話をすすめるべきである。

原英史氏の意見にある政策実行プロセスの可視化は、一見その通りだろうが、政治の世界が「清濁併せ呑む世界」なら、理想論にすぎると思う。その方向では、最近の内閣機密費の使い方も可視化すべきということになる。それでは諜報活動など出来はしない。

私は、日本国民の不勉強と劣悪な政治家に政治を任せていることに、日本の政治の停滞の原因があると思う。その克服には、もっと根本から総合的に問題を考えるべきである。それこそ、日本の文化、言語、宗教、歴史それらを総合する視点が不可欠だろう。

その一つの提言として一昨日ブログ記事をかいた。そこで、日本政治の停滞の原因として、一つには選挙民の不勉強とそれを許す文化があり、更に、選挙民の意志を十分汲み取らない日本の一票の格差や選挙制度があると書いた。

補足:
1)民主党野田総理の秘書官をやっていてため、「安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしているのではないか」と問いかけた。不適切発言として議事録から削除された。何故、削除するのだろう?残しておいた方が議事の詳細がより生き生きと分かると思う。議事録と議事要旨とは違うと思う。
2)無邪気な政治主導の意味は、おそらく実務的プロセスにおける判断まで政治家に依存するという意味だと思う。ただ、その後の発言は「官僚の無謬性」の原則を否定していて、寺島実郎氏と同じ考えのようにも読める。

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