2018年4月26日木曜日

自立しない日本と日本人:人は生かされているのか生きているのか?

1)自立しない日本人:

日本国が自立しない理由は、自立しない日本人の集合だからである。日本人が自立しないのは、日本人は生きているのではなく、生かされているからである。

この後の文には反論があるだろう。しかし、「自分が独力で何か優れた成果をあげても、判で押したように“皆さんのおかげです。皆さんの応援があったから、この成果をあげることができたのです。”とコメントするでしょう?」と言えば、「いやいや、それは本心ではなく、周囲を丸く収めるために言っているだけですよ」と再度反論するだろう。

確かに個人の力は限られている。仮に何か歴史に残るような業績を挙げたとしても、その環境や条件のほとんどは過去から現在までの周囲の人たちが作ったのは事実だろう。しかし、その果実を摘み取ったという成果は、紛れもなくその業績の主(ぬし)のものである。もっと素直に、自分の成果を主張した方が、社会の風通しが良くなると思うのである。

自分の主人が自分であるのなら、自分の成果は自分のものである。周囲はあくまでその成果に対し、従なる貢献をしたに過ぎない。それが、自立した人間とその社会での出来事に対する見方である。主と従の峻別がなくては、論理が成立しない。

主従を峻別する文化は、仕事とその責任の在処を決定する際に必須である。それなくして、人々が協力して何かをすること、その延長上の”共同社会としての国家を国民の総意で運営すること”、などは無理である。日常のテレビのニュースなどを聞いていると、責任の在処が明白でない出来事であふれている。それが、日本社会の特徴だと感じる。

2)人は生かされているのか?

「人は生かされている」は筆者のオリジナルではなく、テレビなどでもよく聞く。結婚式などでの挨拶には欠かせないセリフだと、思う人も多いかもしれない。ネットで検索すると、すぐにそう主張する文章の良い例が見つかる。例えば、松下政経塾のHPにある以下の文章である。人は「生きる」のか「生かされている」のかと題する文章である。

書いた方が政治の世界の人であり、日本の防衛大臣の秘書をやっておられた方なので、失礼な言い方だが敢えて言う。最初の方だけ読んだのだが、後の方を読む気がしない文章である。https://www.mskj.or.jp/report/3172.html

松下政経塾のHP管理人は、この文章が素晴らしいと思うのだろう。そして、同じように思う人が日本人に多いだろう。この塾で政治家として育った人間が、日本の政界に35名ほどいる。これらの方々が、上記のような考えに染まっているとは思わないが、万が一そのような考えで日本のリーダーになったのなら、日本は当に破滅への坂を転げ落ちるだろう。

日本人は本当に「人は生かされているのだ」と思う時があるだろう。他力本願など仏教とよく調和する考え方である。そして一人になった時、その人が普通の人なら、「本当は、自分は生かされているのではなく生きているのだ」と思うだろう。

西洋風に言えば、日本人はその両方の姿勢をずる賢く使い分けているのだが、日本人の立場に理解を持てば(つまり、日本文化に理解を持てば)、日本人は二つの世界、つまり世間(補足1)と一人の世界、の両方に生きているのである。つまり、世間(せけん)にいる時には「自分は生かされている」のだが、一人になると「自分で生きている」のである。

世間にいる時にも、「自分で生きている」人間は、支配者とはぐれ者である。「非支配者は、世間つまり”社会”(補足2)に棲息している間は、自分の意思を前面に出して生きてもらっては困る」というのが、日本社会(日本文化)の要請である。

上記政経塾HPの文章の筆者は、「人は社会を作って共同で暮らすという約束の下に生きている」ことを強調したかったのかもしれない。しかし、“社会”や“共同”という言葉が明治以前の日本に無く(補足3)、日本人の思考パターンに組みこまれていないため、いつの間にか意図が正しく伝達される文章にならなかったのだろう。何よりも、主と従が逆転してしまっては元も子もない。

3)日本の政治システム:

日本人は、①其々自分の意志で生き、②共同社会である国の形成し、そして③優れたリーダーを選び、その運営を委任する。非常時には命を賭けてその指示で共同社会である国家を護ために戦いぬく、という三連立方程式が解けなかった。

次善の策として、②と③を重視して、民族の国家(国民国家)をつくり、民族のリーダーの下に協力して国を運営することを考えた。その場合、天皇の下に集まるまでは比較的簡単に出来るが、各人が主人公として共同体を作るという考えが無いため、優れた実務リーダーを選ぶことができない。

そこでは、構成メンバーは自立し主張する個人ではない方が、政治システムに摩擦を起こさない。その代わりに、リーダーは、下々(しもじも)を思いやる姿勢が大事であり、それを為政者の道徳にする。「和をもって尊となす」とはそのような考え方だと思う。明治になって、その日本に西欧風の思想「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を移植しても、竹に木を継ぐことになるだけである。

この場合、異なる部族や民族と接触しない限り、安定した時代が続くだろう。それが現在でも日本の姿のように思える。突出したリーダーに恵まれない状況と、国際的摩擦の時代に世界が入るようになったため、日本の将来を案じるのは、政治に関係する人なら自然な成り行きだろう。

なんとか現在の日本の旗印をより強力にしたいと考えたのが、天皇元首制や旧皇室復興などを主張する所謂右翼の方々である。

明治以前に戻るのでは、日本に将来はない。根本的解決に備えて取り敢えずすべきことは、まともな教育である。一流の大学を出て、大臣秘書までやった方が上記のような文章を書くようでは、日本の将来はない。個人を批判しているのではない。その程度の教育しか、今の日本にはないということが言いたいのである。

第一歩は、教育の現場から一人で生きる姿勢を徹底することだと思う。そして、お前はどう思うかと問われて、自分の考えが言える人間を育てるべきである。的を得た答えを出せないことが恥ではなく、沈黙が恥となる教育を16年間、小学校から大学まで継続すべきである。そこに、閉塞した日本政治の出口があると思う。

補足:

1)世間とは共同体意識のない社会である。日本の、お上(おかみ)と一般大衆との間の空間。其処は、お上の命(めい)と大衆の視線が往き来する空間であり、人々が共に話をし、議論を交わす空間(社会の公の空間)ではない。
2)日本の世間という言葉は普通「社会」に置き換えられる。しかし、前の補足に書いた通り、厳密には英語のsociety=社会という意味ではない。しかし世間以外には、特殊な例を除いて社会に代わる空間を持たないので、ここでは漠とした意味で用いている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%96%93 特殊な例とは、例えば「日本化学会」のような学会である。
3)和製漢語は明治時代に西欧の言葉の翻訳として作られた。有名なのは正岡子規の作った「野球」などである。和製漢語のリストが以下のサイトにある。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/kanji/waseikango.htm

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